第6回【ミーム論概説:様々なミーム論】

 さて、今回は「ミーム論概説」として数名のミーム論者を取り上げてそれぞれのミーム論について簡単に紹介します。しかしながら、私の個人的な解釈や見解を多分に含む内容になっていると思いますのであくまでも参考程度にしていただければと思います。より詳細に正確に知りたい方はそれぞれの論説については記事内で紹介するそれぞれの書籍や文献を読んでいただくことをおすすめします。

目次
リチャード・ドーキンス
スーザン・ブラックモア
リチャード・ブロディ
ヘンリー・プロトキン
ダニエル・デネット


リチャード・ドーキンス


利己的な遺伝子 <増補新装版>

 「ミーム」という言葉については、その提唱者であるリチャード・ドーキンス氏の考え方をまず紹介しなければなりませんね。彼が「ミーム」という言葉を最初に使ったのは彼の著書「利己的な遺伝子」の中でした。

 この著書自体は「ミーム」について書かれたものではなく、遺伝子の、ひいてはDNAの利己性についての話が中心となっ手織り、著書全体の結論としては子孫を残そうとしている者の正体は種や群れや個体ではなく遺伝子であるという話に尽きます。その証拠として親が子を守る理由や、ハチやアリ類などの社会性昆虫の利他行動(集団や女王を守る為に個体が犠牲になるなど)を例に挙げ、それら個体の一見利他的な行動が遺伝子の近親度によって起こされているということから生物の行動は遺伝子自身の繁殖を目的にしているように見えるため「利己的な遺伝子」と表現したものとなっています。生物を「生存機械」と呼び、「遺伝子」という自己複製子を繁栄させる為の「乗り物(ヴィークル)」とまで言っていて、種の繁栄や個体の行動を、個人のアイデンティティや自由意思といった観念的な生物観ではなく、あくまでも「遺伝子」の目線で語られています。

 その考え方にはもちろんヒトという種も含まれているのですが、そういった徹底した“自己複製子視点”からヒトの文化的進化を見た時に、人間という種の「文化」は他の如何なる生物とは特異であると説きます。そして、その特異な文化の発展を動物の進化になぞらえて、文化的伝達と遺伝的伝達との類似から類推(アナロジー)された複製単位を「ミーム」と名付けました。

 「ミーム」はヒトの脳という「原始スープ」の中で生まれた新種の自己複製子で、その新種の自己複製子「ミーム」は人の(広い意味での)摸倣という過程を媒介にして脳から脳へと渡り歩くとしています。つまり、この「広い意味での摸倣を通じて脳から脳へ渡り歩く文化伝達の単位」というのが「ミーム」にとってある種の最初の定義と言えそうです。

 ドーキンスによれば、「衣服や食物の様式、儀式・習慣、芸術・建築、技術・工芸」そして「科学」を含めたこれらすべてが「ミーム」によって進化しているとし、遺伝子の進化によって生み出されたものではなく、文化が独立して遺伝子的進化と同様の進歩的な変化をしているのです。事実、現代科学が古代科学よりすぐれていると言えるし、ヒトが数世代の遺伝子伝達を行なっている間に電話は巨大な装置から手のひらサイズで持ち歩けるまでになったということからも、ヒトの生物学的な遺伝子の進化とは独立した文化の進化の形であると言えるでしょう。

 実のところ「文化的進化」という考え方はドーキンスが初めてというわけではありません。しかしそれを「利己的な自己複製子」という考え方と分子生物学的な視点を持って、文化伝達の単位を単語化したという点でとても刺激的に受け入れられたのでしょう。

しかし、ミームという言葉の生みの親であるはずのドーキンスが「ミーム」という言葉を真剣に取り扱って生み出したかといえば、そうでもないのです。「利己的な遺伝子」の中で彼の提唱する「自己複製子」という概念を既知の自己複製子である「遺伝子」以外にも適応可能であるという言葉遊び的に生み出したものでした。この点はミーム否定派がミーム肯定派を揶揄するときによく指摘される部分でもあります。例えばネット検索でミームについて調べると「ドーキンスの例え話を真剣に議論しちゃうなんて、ナンセンス極まりない!」というような批判以前の突っぱねた態度があったりもします。「ミーム」という言葉が気になってネット検索した結果、そのような意見が真っ先に目に入るようなことは、ミーム論者からすると寂しいものです。


スーザン・ブラックモア


ミーム・マシーンとしての私〈上〉
ミーム・マシーンとしての私〈下〉

 スーザン・ブラックモア氏は非常に狭義的なミーム論を展開しています。というのも、先述のドーキンスの“広い意味での摸倣”という過程を非常に重視しています。スーザン・ブラックモア氏は著書「ミーム・マシーンとしての私」で模倣についてこう語ります。

たとえば、友達があなたにある話をし、あなたがその骨子を覚えていて、他の誰かに伝えたとすると、それは摸倣と認められる。あなたはその友達のあらゆる仕草や言葉を厳密に摸倣したわけではないが、その友人から何か(話の骨子)があなたにコピーされ、次にほかの誰かにコピーされたのである。

スーザン・ブラックモア「ミーム・マシーンとしての私(上)」(2000)

これが“広い意味での摸倣”であり、行動を通じてコピーされている“何か”は全て「ミーム」であるとしました。

 さらにブラックモア氏は、人間の脳の進化もミームが深く関わっているとして、人間の進化的な起源のターニングポイントとなったのは、お互いを摸倣する能力を得た時だと説きます。脳の大きさの増大にミームが入り込むことによって、さらなる脳の増加に淘汰圧が働いたというものです。この淘汰圧は遺伝子が受ける自然淘汰ではなく、「ミーム淘汰」によって決定されたもので、この点でヒトという動物を生物学的進化を逸脱した存在として捉えているのだろうと思われます。

 ご存知の通りヒトの脳は体の大きさに対してとても大きいです。大きな脳とは言え体重の2%程度しかない脳を動かすのに、体のエネルギーの20%を使用しているということから、遺伝子が受ける自然淘汰としては不利益に見えます。このような一見不利益に見える脳の肥大化ですが、ブラックモア氏は脳の増大による“余剰”を利用して周囲の「うまく行動する者を真似る(摸倣)」という芸当を身に付けることができたとし、それによって他の者よりも多くの食物にありつけるようになったと言います。これによって脳のエネルギー消費量は多くの食物を得ることでカバーできるだろうし、周囲よりも有利に生き抜いていくことが出来るのです。それは結果的に遺伝子的な淘汰にフィードバックされ、脳の増大を加速していくだろうとしています。

 脳が増大すれば、摸倣の技術も向上し、摸倣によってコピーされるミームの量も増えていきます。生存競争に有利なミームを他の者より多く持っている者は、自らの遺伝子を残しやすく、その子孫はまた大きな脳を持って生まれてくるわけですからより多くのミームをコピーできるかもしれません。ヒトは脳に余剰があればそれを模倣能力に利用し、より忠実性が高く、より多くの物事を模倣するように努めるわけです。

 ミームは際限なく脳の余剰を利用しようとします。自己複製能力を持つ分子がビーカーの中で資源を食い尽すまで増え続けるように、ミームも脳の余剰部分を利用際限なく食いつぶします。これをブラックモアは「雑草理論」と呼び、整地し除草した菜園を放っておけば、すぐに植物に覆われてしまうことに例えました。

 話は少し脱線しますが、ヒトは「考えない」ということが難しい生き物です。心を無にするというのは相当な訓練を必要とします。厳しい修行を重ねた末にたどり着く禅的な心の無は誰しもが即座に得られるものではありません。常に何かを考え、意識し、判断しています。心を無にすることは脳にとってミームを吸収する(模倣する)機会を逃すことになってしまいます。菜園を作るためのスペースに雨どころか風ひとつ吹かず不毛の地をほったらかしの状態にしているのと同じです。ミーム淘汰によって進化した脳は模倣することが癖になっていて、常に周りに目を配り自分にとって有益な情報を探ることに特化した脳が出来上がっているというのが「雑草理論」なのです。そのため模倣に特化したヒトの脳は常に雑草を取り払い整地し、水をやり、管理してやらなければならなくなりました。「考えない」ということが思っている以上に難しいのはヒトの脳が「雑草理論」によって不毛の空き地を許さない構造になっているようになっているためなのかもしれません。

 さらに、ブラックモア氏はミームによって駆動される行動(ミーム駆動)が、今日の我々が持つ「自由意思」や「意識」を理解するのに役立つかもしれないと語っています。「ミーム・マシーンとしての私」で詳しく述べられているのですが簡単に要約すると、大筋としては人間はミームの駆動によって言語を習得しミームをより正確に、たくさんのコピーを作り出すことが出来るようになり、自己表現を身に付けることで自我の形成に一役買っている、といったところでしょうか。

 ブラックモアの「摸倣のみによって伝達される、狭義的なミーム」の定義に対しては、ミーム肯定派の中にも“否定派”が多いです。ブラックモア氏は「ひとたびミームの基本的な考え方を把握すれば、それに夢中になって、何でもかんでもミームだと考えるようになる  [Blackmore, 2000]」と注意喚起しているものの、ブラックモア氏自身もまた、ミームに夢中になったひとりだったのかもしれません。


リチャード・ブロディ


ミーム―心を操るウイルス

 リチャード・ブロディ氏は、彼の著書「ミーム—心を操るウイルス [Brodie, 1998]」の中で、「ミーム」の定義の曖昧さに触れて、ドーキンスの生物学的定義の他に3つの視点からその定義を紹介しています。

 ひとつは「心理学的定義」としてヘンリー・プロトキンの例を挙げます。本書で紹介されているプロトキンの定義によれば「ミームは文化の遺伝単位であり、遺伝子のようなものである。そして知識の内部表現である。 [Brodie, 1998]」としています。この定義付けで大切なのは「知識の内部表現」という部分だろうと思います。ミームの競争は文化という外見的な部分ではなく、心の中で起きているというのです。遺伝子が人間になるかゴールデン・リトリバーになるかを決定しているように、頭の中のミームがヒトの行動を決定している [Brodie, 1998]と言うと分かりやすいでしょうか。ブラックモアの言う所の「ミーム駆動」に近い考え方だと言えます。個々の主体の内部(わかりやすく言えば心の中)で起きているミーム同士の戦いの結果がミーム淘汰であり、その表現型の総体として「文化」が捉えられています。

 次にダニエル・デネット氏による「認知学的定義」を挙げています。デネット氏の著書「ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化 [Dennett, 2000]」で詳しく述べられているのですが、この著書は非常に分厚くページ数が多いため、ブロディの言葉を借りてまとめることにします。ブロディ氏によればデネット氏のミーム論を「ミームは一つの考えである。しかも、それ自身が形を作り上げ、記憶に残る個別の単位となるような複雑なある種の考えを指す。そしてミームの物理的現れである媒介物によって広まってゆく。 [Brodie, 1998]」とまとめています。この定義では、ミームが“媒介物”を通して広がっていくひとかたまりの“考え方”だとしていようです。生物学的なアナロジーを通して言えば、“媒介物”とは遺伝子にとっての生物(ヴィークル)のことであり、“考え方”(ミーム)は外部世界に影響を及ぼすプログラムのようなものだと例えています。そして、ブロディ氏も指摘するように、ミームにとってのヴィークルは遺伝子のそれと比べて実体がはっきりとしないものです。音楽のメロディや人工物の形、ファッションの流行と言ったミームの“媒介物”であろうと思われる諸々は、“ひとかたまりの考え方”として分解するにはまだ複雑な単位でしょう。結局のところ、この定義も「遺伝子コード(プログラム)」と「遺伝子表現型(ヴィークル)」の関係を別の言葉を使って表現しているにすぎないように聞こえます。

 これら2つのミームの定義を踏まえて、ブロディが最後に挙げるのが「実用的定義」です。この定義は「ミームとは心の中の情報の単位であり、その複製が他の心の中にも作られるようにさまざまなできごとに影響を及ぼしてゆく。 [Brodie, 1998]」と述べられます。これはドーキンス氏が「延長された表現型(1982)」で述べている定義に近いものだとしていますが、ミームを「マインド・ウィルス」という言葉に置き換えて、「ミームに感染する」といった表現を多用していることから、ミームの自己複製子としての“利己性”を強調するものになっています。

 また、ブロディは「マイクロソフト・ワード」の開発者でもあるという経歴もあってか、心を「プログラム」の一種としてミームについても考察していきます。そのため、「心のプログラム」にミームが“感染”することで「心のプログラム」を書き替えてしまうというコンピュータ的なウィルス感染のアナロジーとして「マインド・ウィルス」という言葉を使っています。さらに、ミームを「識別ミーム」「戦略ミーム」「関連づけミーム」という3つの性質に分類し、心のプログラムに感染するマインド・ウィルスの仕組みを考察して行きます。このようにミームを分解して考察するのは、ミームの最小単位を探るという点で非常に重要な視点となるものと思われます。

 3つの性質に分類されたそれぞれのミームを端的に述べると、まず「識別ミーム」は、我々の物質に対する概念のことを指します。例えば、地上に境界線はありませんが、国や地域は区画分けされており、日本、東京、秋葉原といった区画を識別することでそれらは存在します。次に「戦略ミーム」は、「識別ミーム」を利用する行為を支えるものだとしています。ブロディ氏は車の運転を例に、信号や速度制限、斜線などの「識別ミーム」に加えて、「警察を見たらスピードを落とす」などの原因と結果に関する考え方だと言います [Brodie, 1998]。最後の「関連付けミーム」はより一層複雑なミームで、ひとつのミームに対して、別のミームが関連付けされて心に浮かんでくるというものです。ブロディは具体例として、テレビコマーシャルを挙げ「セクシーな男とコカ−コーラ・ライト」「セクシーな女とビール」といったような人々の特定の態度で、古典的に言えばパブロフの犬の実験のようなものだとしています。パブロフの犬の場合、ベルの音と餌をもらえるということが関連付けされることで、ベルの音を聞いただけで唾液を出すという生理現象を誘発することができます [Brodie, 1998]。

 「ミーム—心を操るウイルス [Brodie, 1998]」では、この後、テレビコマーシャルの例のようなミーム感染を利用して、いかに「マインド・ウィルス」である「ミーム」が危険なものであるかが語られていきますが、全体の要約としては、「ミームは人の行動を司る心のプログラムである (Brodie, 1998)」ということがブロディの定義であるようです。


ヘンリー・プロトキン


ミーム―心を操るウイルス

 先述の通りプロトキン氏のミーム論はブロディから「心理学的定義」と位置付けられています。プロトキンはチンパンジーにみられる原文化も基本的な情報伝達の形態は「摸倣」であるとして、それが人間特有のものではないと指摘しています。ミームをヒト以外の動物にも認めると言う点でこれまでのミーム論者の説とは一線を画するものです。「摸倣」は人間の文化に関与してきたと十分に主張できますが中心的な役割ではなく、チンパンジーにも模倣行動がみられるように人間に限定されるものではありません。そうであるのなら人間の文化について探るのに、ブラックモア氏のような「摸倣」というアプローチのみに限定していてはいけない [Anger, 2004]と指摘しています。そこでプロトキン氏は、ミームを「摸倣」だけに依らない複雑な複製の機構として、「伝達の経路」「源の数」「領域」といった複数の要因を含めてミームの複製機構としました。

 伝達される情報の「領域」は、段階的に高次なものとなっていく知識の階層です(このことについては私も今後「ミームのホロン的階層性について」のような記事を書く予定です。)。「安売りの家電量販店」や、「美味しいレストラン」といった噂レベルのものやファッションの流行も文化の小さな変化ですが、情報の領域が狭くミームの貯蔵期間も比較的短いです。このことからこれらを「表面的なミーム」としています。そして「表面的なミーム」はより高次の記憶構造と知識に依存しています。この高次の知識とは「店にいけば商品が陳列されており、金銭と交換で個人の所有物となる」というような一生に1度伝達されれば、集団内で活用可能な集合的で抽象的な特徴があります。この高次の知識構造も、さらに高次の知識構造と密接に関わっており、例えば「金銭」の概念などについてがそれに当たります。高次の知識階層になればなるほど、ひとつのミームが意味する領域の幅が広くなり(抽象化される)、貯蔵期間が長くなっていくことが分かるかと思います。

 ミーム論者の多くは遺伝子の伝達に比べてミームの伝達はスピードが早く、突然変異率も高いという立場にありますが、プロトキンは「高次の知識構造にあるミームは、それもまた遺伝子的伝達と同じ伝達頻度である」としています。こうした知識構造をヒトはあらゆる文化において、長期的な文化適応の過程を経て様々な情報を改変しながら獲得して行きますが、抽象度の高いより高次のミームは新しい情報(ミーム)によって改変される機会は減って行き、最高次の「ミーム」は遺伝子的伝達と同じく一生に1度となります。流行りのカフェは毎年ところか毎月変わりかねませんし、変わるごとに新しいミームを獲得する必要がありますが、金銭の概念はそう簡単に変わるものではなく、また一度獲得すれば一生を通じてほぼ変化はありません。(金銭の概念に付随する「レートの変動」や「為替」「webマネー」のような概念は金銭の概念に依存しているため、金銭の概念よりも低次のミームとなります。)

このような「ミームの領域」の階層性に加えて、その情報(ミーム)がどのように伝達されたのか、同じ世代内のものなのか世代間のものなのかという様々な「情報の経路」によって価値づけされ、そして主体の深層レベルのミームは対外的な知識に加えて、信条や価値に基づく多元的なものであるとして、これを「源の数」と表現しているものと思われます。このあたりちょっと説明しづらい、というか私も完全に理解しているわけではないので「ダーウィン文化論」のヘンリー・プロトキン氏の抗議を直接読んでもらったほうがいいかもしれません。ミームの領域のような階層的なミーム構造はリチャード・ブロディ氏の「識別ミーム」「戦略ミーム」「関連づけミーム」 [Brodie, 1998]というミームの性質分けに似ていますね。「識別ミーム」は概念的、抽象的であり、「戦略ミーム」や「関連付けミーム」になるにつれ、情報としては具体性を増しますが、限定的で一過性のものと言えます。これらのミームの性質分けに加えて、プロトキンはミーム伝達の経路の違いと表現型の源の数を指摘し、より複雑な表現型の発現と伝達の機構を付け加えているようです。


ダニエル・デネット


ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

ミーム論者の代表的な一人としてダニエル・デネット氏が挙げられます。先述の通り、彼の著書「ダーウィンの危険な思想−生命の意味と進化 [Dennett, 2000]」でミームについて触れるのですが、デネット氏は新しいミーム論を展開するというよりも、人間の進化のアルゴリズムに「ミーム」が関わっているという議論を中心としているようです。

 デネット氏もドーキンス氏と同じくキリスト教圏の人物であるため、ダーウィンが「種の起原」を発表したときと同じような批判を浴びるのをわかっていて、むしろそういった批判者に対して論じている面があります。一神教では、人間の道徳や倫理は宗教の教義によって説かれるもので、神という存在無くして道徳や倫理が動物のようなものから自然に形成されるはずはないという考え方が根強く、人間も他の動物と同じように原生生物から進化してきた動物であるというダーウィニズムの考え方は、キリスト教的な「人間中心主義」からは外れた考え方なのでしょう。 しかし、“人間を含めた進化論”では、倫理観や道徳観を身に付けるのに一神教的な教義を前提にせずとも、文化を形成するアルゴリズムの中で醸成されていく仕組みがあるのだという主張をします。

 他の生物と異なる特別な存在として人間は神に導かれた(作り上げられた)というキリスト教的な「人間中心主義」の仕組みを、人間は地上で起こりうる進化過程という制約を無視して天から引き上げられたという構図に見立て「スカイフック」と表現しました。これを否定する為に、デネット氏は「クレーン」という言葉を用います。この「クレーン」はあくまでも地上に支えられていて、進化と言う過程を地道に積み上げていく進化のアルゴリズムであり、人間もまたこの「クレーン」的なアルゴリズムの集積において進化論の内にあるとしました。

 このクレーン的な進化過程を経て、なぜ人間が他の動物に無い高度な文化を持ち得たかという点をミームに依るものとしています。デネット氏のミームの捉え方はドーキンス氏の「利己的な自己複製子」を踏襲していて、ミームの視点に立った考え方をしています。これがクレーンのアルゴリズムに組み込まれたことで、他の動物にない進化を助長したであろうと考えることが出来るのです。即ち、天に在す神の存在が無くとも地に支えられたクレーンによる積み上げだけで、周囲の生物よりも高度な文化を持ち得たのです。

 宗教的な文化背景がありながら進化論というものを人間という生物に当て込むのには相当な苦労が伺えます。ドーキンス氏は「神の御手は医者の偽薬(プラセボ)」とまで言い、宗教全体の存在を否定するような過激な発言がある一方、デネット氏は宗教の文化的な意義を慎重に扱っているように見えます。ダーウィンの進化論も、文化の進化を取り扱うような“ネオ・ダーウィニズム”としてのミーム論も、どちらも「人間中心主義」の中から生まれてきたという事実は「ミーム論」を考察する上で重要なのかもしれません。

まとめ

 いかがでしたでしょうか。長文になってしまいましたが出来るだけ簡潔にまとめました。一口にミーム論と言っても本当に様々な捉え方があることがわかっていただけましたでしょうか。そしていまだ解決しない「ミームとはなにか」という問いの難しさも見えると同時に奥深さと面白さも私は感じます。
 文頭でもお話ししましたが、もっと詳しく知りたい方は記事内の書籍を実際に読んでいただくことをおすすめします。
今現在、記事中に出てきた書籍や参考文献などを記事内で紹介できるように準備していますので、それが整い次第書籍の情報も掲載していく予定です。以下に参考文献を紹介していますので、ご参照ください。
繰り返しになりますが私の個人的な解釈や見解が多分に含まれますので、正確な情報は一次ソースとしてそれぞれの書籍や文献を参照していただきたいです。ただ、初めてミーム論に触れる方にとって全ての参考文献を最初から読むのは大変なので、この記事をまぁざっくりとしたミーム論者たちのまとめとしていただければと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です