第13回【ミームはどこに在るのか】

「ミームの所在は内側論」と「ミームの所在は外側論」

 ミームとはなにかという疑問に対して様々あるミーム論の中に共通するのは「文化を構成する情報単位」であり「人々の(広義の)摸倣によって伝播する」という部分でしょう。その「摸倣」の質については解釈や適応範囲が様々あるものの、ヒトとヒト(または動物と動物)とが情報をやり取りすることでコピーされ、広がっていくという点ではドーキンス氏の提唱する一次的定義に則った意味合いで「広い意味での模倣」という言葉が使われていると言えます。

 ミーム論者によるミームの定義を深掘りすることでまとめた一般的なミームの解釈については上記の内容である程度は説明できるのですが、これまでにまとめてきたミーム論ではミームの所在は明らかできていません。遺伝子の場合は細胞の核の中にDNAの二重螺旋という形で格納されていることが科学的に、そして物理的に明らかとなっています。しかし、ミーム論は形而上学的な文脈の遥か延長線上に置かれているため科学的な手法と相性が悪く物理的な観測は非常に難しいと思われます。

 そんな中でもミーム論者の中でその所在をどこに“設定”しているかという意見の違いは見えてきます。その違いとは「ヒトの脳内にミームがある」とする側と「文化という環境の中(ヒトの外側)にミームが」あるとする側に大きく分けることができると私は考えています。

 この違いを生んだ原因は「ミーム」という言葉の生みの親であるドーキンス氏のミームの提唱文にあります。そもそも遺伝子とのアナロジー(類推)で生まれたミームの概念はドーキンス氏が利己的な振る舞いをする自己複製子を遺伝子以外に求めたときに、ヒトのもつ文化という特異性を示すとともにその文化も進化しているように見えるためミームのような自己複製子を類推できるという程度の物です。この類推は「利己的な遺伝子」の初版では最後の節である11節で初めて言及されます。しかし、300ページもの著書の中で第11節は十数ページで終わってしまいます。その後、第二版で12節と13節が追加されますが、ここでもミームの定義についての言及などはなくあくまでも「利己的な遺伝子」についての補遺です。このことからも当初の著者自身が熱心に提唱した概念ではないことが推察できます。ミームにとっての原典である「利己的な遺伝子」だけでは、ミームとはなにか、そしてそれが何処にあるかを答えることは難しいのです。

 ドーキンス氏がその所在を明らかにしていない以上は後追いのミーム論者たちがその所在をそれぞれに解釈せざるを得ません。先ほど述べたミームの所在についての大まかな相違はヒトの内側に置くか外側に置くかという違いです。もう少し分かりやすく言えば「ヒトの脳内にミームがある(内側)」とする主張は「ヒト同士で伝えあう情報がミームである」と言い換えられ、「文化という環境の中にミームがある(外側)」ということは「文化を構成するものがミームである」と言い換えることもできるでしょう。この解釈の違いは以前に書いた記事「第10回【web辞典における「ミーム」の定義】」でもみられます。私の解釈においては、Wikipediaでの解説を「他者へ伝達可能な脳内の情報」と解釈し、一方でデジタル大辞泉(小学館)での解説を「増殖する文化情報と言う現象」という解釈をしました。ネットで検索していの一番に出てくるような解説でさえヒトの外側と内側とでミームの所在の解釈が異なっていることがわかります。

論者それぞれのミームの所在

 以前の記事「第6回【ミーム論概説:様々なミーム論】」で紹介したドーキンス氏を除く4名のミーム論者がそれぞれ「内側」と「外側」のどちらにミームの所在を設定しているかを私なりに分析してみます。

スーザン・ブラックモア
 ブラックモア氏は「ミームによる脳の巨大化説」に熱心なことからミームの所在をヒトの内側、特に脳内に設定していると思われます。ミーム伝播を伴う模倣行動の定義をある程度明確にした上でヒトが持つ高度な模倣能力を高く評価し、「雑草理論」を用いた脳の情報処理の余力を最大限に使おうとするミームの振る舞いを語っている部分を見るに、脳がミームの格納庫となっていると設定しているのでしょう。

リチャード・ブロディ
 ブロディ氏のミームの定義は「ミームは一つの考えである。しかも、それ自身が形を作り上げ、記憶に残る個別の単位となるような複雑なある種の考えを指す。そしてミームの物理的現れである媒介物によって広まってゆく。 [Brodie, 1998]」というものです。氏の著書「ミーム 心を操るウイルス(講談社)」というタイトルからすれば、ヒトから独立した形でミームがウイルスのように空間中(環境内)に漂っているかのように考えてしまいそうですが、ミームが「一つの考え」であり「記憶に残る個別の単位」と言っていることからブロディ氏もミームの所在をヒトの内側である脳に設定していると受け取れます。「ミームの物理的現れ(ミーム表現型)」である文化はあくまでも媒介物であり、ミームそのものとしては取り扱っていないようです。

ヘンリー・プロトキン
 プロトキン氏の主張はブロディ氏の著書「ミーム 心を操るウイルス(講談社)」では「心理学的定義」として紹介されており、そこでのプロトキン氏の主張は「ミームは文化の遺伝単位であり、遺伝子のようなものである。そして知識の内部表現である。[ミーム-心を操るウイルス]」と定義づけされています。ブロディ氏の設定しているミームの所在はヒトの内側であろうと推察されるため同著で紹介されるプロトキン氏の主張もまたヒトの内側での現象のように「心理学的定義」として紹介されています。しかし、別の著書「ダーウィン文化論 科学としてのミ-ム (産業図書)」でのプロトキン氏の広義内容を見るにミームを文化の中に共有されている概念として設定しているのではないかと私は解釈します。確かに、伝達される情報の知識階層という言葉だけをとれば広が個々に蓄積している知識がミームであると言え、ミームはヒトの内側に在るような表現となるのですが、その知識は文化という環境下で獲得してくる概念の知識の階層であってその概念は個人が亡くなったとて失われるものではありません。このことから主体(個人)の持っている知識がミームなのだと主張するものではなく、文化という現象の中で人々が共有する概念などのパラダイム全体をミームとして捉えているのではないかと私は解釈しています。この解釈からすればプロトキン氏の設定するミームの所在はヒトの外側であると言えます。

ダニエル・デネット
 デネット氏の著書「ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 (青土社)」での主張にある「クレーン」という言葉は明らかに主体の外側にある概念ではないでしょうか。ヒトの持つ高度な文化的発展を宗教的な感覚での神によるものとする「スカイフック」を否定し、人々が地道に積み上げて醸成していく過程で進化的な文化の発展を支持していることから文化現象全体をミームの集合体として捉えているのだろうと私は解釈します。科学の進歩であれ、宗教の構築であれ個人の知識から突発的に生まれたものではなく文化現象全体で醸成してきたことで起こり得た発展です。人間中心主義(というよりも個人主義的な)思想を離れて俯瞰した文化全体の進化過程にミームの進化という言葉をあてているのであれば、ミームの所在をヒトの外側に設定していると言えるでしょう。

今回のまとめ

 以上の4名のミーム論者によるミームの所在を多少無理やりな部分は残りつつも私の解釈で「内側」と「外側」という二分化を行いました。もちろん彼ら自身が内側だの外側だのとこれらの主張したわけではありません。そして、あくまでも私が仮定するミームの所在についての「内側」と「外側」を説明するために分類しただけなのでどちらの側が正しいかというものでもありません。

そこで、次回からは「内側」と「外側」についてはどちらに正当性や妥当性があるかという議論ではなく、どちらも肯定的に捉えた上で「ミームの所在は内側論」と「ミームの所在は外側論」とをそれぞれに考察しようと思います。具体的には、内側論では心理学者であるジャン・ピアジェの著書「発生的認識論 (白水社)」からシェマの概念を借用してヒトがミームを脳の中でどのように格納しているのかを考察し、外側論では知覚心理学者であるジェームズ・J・ギブソンの著書「生態学的視覚論 ヒトの知覚世界を探る (サイエンス社)」から「アフォーダンス」を借用して外側にあるミームをヒトがどのように知覚しているかを考察します。

ミームの所在の結論については先に述べておくと判明しません。内側論を考察する上ではミームが主体の内側にあるとしてミームがどのように格納されているかを考察し、外側論を考察する上では外にあるミームをどのように知覚しているのかを考察するわけですから、これらの考察は2つ合わせて外側にあるミームをどのように内側のミームにしているかと言う考察になります。私の考えているミームの所在は内側にも外側にも在るもので、それぞれは保存の質が異なるものだと言うものです。
 それではまた次回。

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