最近気になった話題にアベマプライムにて配信されたもので「【昔話】さるかに合戦&桃太郎にもコンプラの波?ストーリーもオチも全然違う?ひろゆきと考える」というものがありました。
YouTubeにて要約版が公開されていますのでそちらを紹介しておきますね。
アベマプライムにて配信されているものはこちらです。(公開期間によっては見られなくなるかもしれません。)
タイトルからしておやおやと訝しく思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
公開されている動画の内容を振り返りながら、コンプライアンスの自主規制によって昔話が改変されることについて「ミーム論」の視点から考えてみたいと思います。
目次 ・コンプライアンスによる昔話の改変 ・専門家たちの意見は割と肯定的 ・「語り」と「話し」 ・「ミーム論」と「話の骨子」 ・話の骨子を間違えていないか ・ミームの伝播には形骸化が伴う ・「竹取物語」と「かぐや姫」
コンプライアンスによる昔話の改変
コンプラに配慮してテレビがつまらなくなったという声を聞くようになって久しい昨今ですが、その波が絵本や昔話にも波及してきていると言うのです。
番組内では「桃太郎」や「さるかに合戦」「かちかち山」が話題に挙げられています。
具体的な改変内容はというと、「桃太郎」のお話は犬・猿・雉が主従関係のある”家来”ではなく立場として平等な”仲間”として迎え入れたり、船を漕ぐのもみんな一緒に、挙句の果てには鬼を言葉で説得してめでたしめでたしと言うものに改変されていると言うことでした。
「かちかち山」のお話ではお爺さんお婆さんに食べられそうになったタヌキが仕返しにお婆さんを鍋に入れてお爺さんに食べさせる描写や、その後にウサギがタヌキを懲らしめるために火をつけて泥舟で沈めたりといった描写が過激なのではないかと言われていたり
「さるかに合戦」に至っては”戦”という言葉が時代に合わぬと言うことで「さるかにばなし」とされていて、猿を懲らしめるメンバーの”牛のフン”は”コンブ”に変えられ、お話の最後には皆で仲直りして一緒に柿を食べるのだとか。
さて、これを聞いてどう感じられたでしょうか。
時代に合わせてお話を変えていくことは致し方ないと感じる一方で、なんだか毒気が抜けすぎていてお話が薄っぺらに感じられるような気もしますね。
専門家たちの意見は割と肯定的
番組内に出演していた専門家の方々の意見はコンプラによる物語の改変に対して割と肯定的であると同時に安易な改変には慎重であると感じられました。
学習院女子大学名誉教授の徳井和夫教授は「長い時間をかけて洗練されてきた物語をこれ以上私たちが勝手に変えてしまうことはよくないことと思う」としながらも 「”変えるべきではない”というのではなく、変えるならば”優しく変えて行こう”」と主張しています。
コンプラの厳しい世の中に合わせて変わっていくことは受け入れるものの、せっかく”昔話”として古くから伝えられてきた物語の内容を安易に改変させるのではなく少しずつ時代に合わせて行こうという立場のようです。
続いて、武庫川女子大学教育学部教授の高木史人教授は「”変える変えない”の話ではなく、伝承というものは”変わる”もの」との主張です。
番組のご意見番であるひろゆき氏もグリム童話のシンデレラを例に挙げて「元の話は残酷描写があり子供向けになるわけがないので、状況や対象に合わせて変えることは普通のことではないか」と言います。(注釈:グリム童話「シンデレラ」の元の話では姉たちの踵や爪先が切断されたり、挙句にはシンデレラが継母を殺害してりもする。)
こうした意見をまとめてみると、番組内の雰囲気として基本的には時代や対象に合わせて内容を改変することに関しては割と肯定的な内容でした。
番組内では保育園などで紙芝居を読み聞かせする紙芝居師の「ゴリラせんせい」という方が出演し、「かちかち山」の元のお話(残酷描写が含まれる内容)をしてくださっていてとてもお面白いのですが、やはり内容的にはそのまま子供に聞かせられないんじゃないかなぁと感じられます。
ゴリラせんせい自身も「正直いうと元になった話を読んで伝えていきたい。しかし、実際の現場では内容というか言葉遣いを変えようかなと……」と、やはり実際に読み聞かせをする立場の方としても子供を目の前にして暴力的な内容や残酷な描写は少し控えたいと言った印象でした。
「語り」と「話し」
アベマ本編の番組後半で面白いお話がありました。
武庫川女子大学教育学部教授の高木史人教授は「”語る”と”話す”は話術として全く別物」と言います。昭和の初め頃はほどんどが”昔話(むかしばなし)”ではなく”昔語(むかしがたり)”であったのだそうです。
そして”語り”と”話し”の具体的な違いは”コミュニケーションの有無”と”絵の有無”だと言います。
”語り”の時代には現代のような紙芝居や絵本のように「目で見る描写」が無く、言葉として残酷な描写があったとしてもそれが視覚的に描写されず聞き手の想像の中で描かられ、同時に”語り”では聞き手が相槌を入れたり語りに割って入って対話(コミュニケーション)があったため今私たちが絵本を通して感じられるほど残酷ではないのではないかというお話でした。
確かに、私が大学時代に子供たちに紙芝居を読み聞かせした経験では、子供たちは私の”話し”をすごく集中して聞き入ってくれたことを記憶していますが、そこに対話はありませんでした。もちろんお話の後に「どうだった?」とか「どう思った?」などのコミュニケーションはありましたが、お話の中で対話が同時進行していく形ではなかったですね。
これに付随して学習院女子大学名誉教授の徳井和夫教授も「耳で聞いて頭の中で整理してく。小さな子供は話しを聞いて整理する能力はまだ低く、大きくなった時に(昔話に対して)”なぜだろう”と気付く語り方をすることが重要」と発言されています。
例えお話が現代の社会風刺に合わせて優しいものに改変されたとしても、それを聞いた子供たちの心の中に”何か”を残すような語り方。これはまさに「”変えるべきではない”というのではなく、変えるならば”優しく変えて行こう”」という改変に対して慎重であろうとするご意見そのものだと思います。
「ミーム論」と「話の骨子」
さて、やっとミーム論のお話です。
昔話や絵本の内容がコンプラ自主規制の中で改変されていくことに違和感や訝しい思いを覚えるのは何故なのでしょうか。
これはひとつに「話しの骨子を間違えている」ということがあるかと思われます。「骨子」というのは分かりやすく言えば「主なる内容」「その骨組み」と言ったところ。
スーザン・ブラックモアは彼女の著書「ミーム・マシーンとしての私」の中で「たとえば、友達があなたにある話をし、あなたがその骨子を覚えていて、他の誰かに伝えたとすると、それは摸倣と認められる。あなたはその友達のあらゆる仕草や言葉を厳密に摸倣したわけではないが、その友人から何か(話の骨子)があなたにコピーされ、次にほかの誰かにコピーされたのである。」と述べています。
要約するとスーザン・ブラックモアによれば誰かの何かの話を他の誰かに伝える時、その「話の骨組み」が伝達されていると言います。
この時、本来の話とは別に「聞き手」よる受け取り方、すなわち「話し手」の話し方であったり表情がより重要であると伝達された場合には”聞き手”にとって「話し方」や「表情」も「話の骨子」に含まれ、ともすれば本来の話よりも重要な”骨組み”となる場合もあります。
しかしながら、一次ソースたる「大本の話し手」にとっては「話し方」や「表情」などは脚色にすぎず、あくまでもお話を楽しく聞かせたり分かりやすく説明するための道具であって話の主題ではないはずです。(「あいつの話し方が面白くてさぁ(笑)」という話題であれば「話し方」や「表情」は”話の骨子”そのものではありますが。)
では絵本や昔話の場合にはどうでしょう。
桃太郎の話の骨子を私なりに抽出してみます。
・子供のいないお爺さんとお婆さんの元に不思議な桃が手に入る。
・不思議な桃の力で子宝に恵まれる。
・不思議な桃によって生まれた子供はとても有能である。
・村では鬼による被害がある。
・有能な若者(桃太郎)に解決を頼む。
・桃太郎は仲間を集めて鬼ヶ島へ出向く。
・鬼を退治して村に平穏が訪れる。
と言ったところでしょうか。
これを物語として面白くするために「桃から生まれた」「犬・猿・雉を家来にした」「鬼を力でねじ伏せた」「宝物をたくさん持って帰ってきた」と言った脚色を加えていくと、みなさんご存知の「桃太郎」の絵本が完成するわけです。
私の感じる限りではコンプラによる改変ではこの”脚色部分”の改変が主であって、話の骨子については大幅な改変は見られないのではないかと思うのです。
犬・猿・雉が家来であろうが仲間であろうがお話の本筋にとって大きな改変ではないし、鬼をぶん殴ろうが説教しようが最終的に村に平穏が訪れれば良いわけです。
元を辿れば桃太郎の生まれ方も”不思議な桃”を手に入れた老夫婦がその桃を食べたことで若返り、その体で性交渉をしたために生まれたのが桃太郎であったというお話もあります。
桃太郎が桃から生まれようが若返った夫婦から生まれようが「不思議な桃」の存在があれば良いわけで、この「不思議な桃」というのも元を辿れば(おそらく)中国の「蟠桃会(ばんとうえ)」というお話からきています。
(注釈:「蟠桃会(ばんとうえ)」は中国の昔話で数千年に一度成ると言われる不思議な桃を食べると仙人になったり不老不死になったりすると言われるお話。)
「桃から生まれた桃太郎」の話を「桃を食べて若返った老夫婦」の話に戻して子供たちに伝える必要性はあるでしょうか。
もちろん”元のお話”を伝承してくことも大事ですが、それは大人の役割だと私は思います。そして子供たちが大人になった時に”なぜ桃から生まれたのか”という疑問から「若返った老夫婦」にたどり着き、果ては「蟠桃会(ばんとうえ)」にまで辿り着く道筋を社会として、文化として守っていくことが大切なのではないかと思うのです。
このような文化的な道筋を形成するには子供たちにできる限り多くの「昔話の骨子」を伝えておく必要があり、伝承の過程で社会的な背景や道徳的な背景が問題視されるのであれば脚色部分の改変は(慎重さは必要ですが)容認されて良いのではないでしょうか。
話の骨子を間違えていないか
では「話の骨子を間違えていないか」とはどういうことか。
すなわち、「桃から生まれた」「家来を作った」「鬼を殴って懲らしめた」という部分が物語の本質であると勘違いしていることにあります。
先述の通り、「桃太郎」の「話の骨子」に対して「鬼を殴って懲らしめた」というのは”どのようにして鬼を退治したか”という脚色部分に過ぎず、物語の本質としては鬼が改心しようが和平条約を結ぼうが「鬼からの被害が解決した」とこが重要なのです。
「殴ったのではなく刀で切り付けたんだ!」とか「犬は噛みつき、猿は引っ掻き、雉は目玉を突いたんだ!」とかも絵にする時に面白くなるような描写を物語に取り入れているに過ぎません。
そのぐらい”骨子”というものは単純化されたものであり、単純化されているがゆえに色々な脚色なり改変がなされるわけです。
ミームの伝播には形骸化が伴う
これはミーム論者としての私の持論ですが「ミームの伝播には形骸化が伴う」ということが多々あります。
あるお話がたくさんの人に広まるとき、その内容の大部分は失われて骨子だけが残る。そしてその残った骨子こそがある特定の話題における”ミーム”として伝わっていきます。
そしてこれは伝言ゲームのように”本来の骨子”を失うことさえもあります。
先ほどお話ししたように「話し手」にとって”話しの内容”よりも”話し方”の方が重要であった場合に「聞き手へ伝える骨子」は「話し方」や「表情」であるため本来のお話が捻じ曲がることもあるでしょうし、またその「聞き手」が話し方や表情よりもお話の内容の方が面白いと感じた場合には捻じ曲がったお話が別の人へと伝えられるでしょう。
そうして多くの人たちがある特定の話題を広く共有した時に、全体として共有されている部分が”話の骨子”として残り(俗に言う)「ミーム化」しているわけです。
付け加えられたり削ぎ落とされたりしながら広まっていくわけですから全体として共有される”骨子”は元ネタとなったお話しよりもずっと単純化し、多くの場合に形骸化していると私は考えています。
「桃太郎」の例を再度取りあげてみると、「桃から生まれた桃太郎が鬼退治をした」という非常に単純化した骨子を説明する際(お話しする時)に”どのように話し伝えるか”という部分が重要になってしまって話の骨子を見失い、脚色部分に対して「そこを改変するなんてとんでもない!」という話につながります。
つまるところ「桃から生まれた桃太郎が鬼退治をした」という昔話を伝承する際に、本来の話の骨子が守られているか否かということを差し置いて、脚色部分に固執してしまうという点で無意識に物語が形骸化している(抜け落ちている)のではないかと私は感じたのです。
とはいえ、裏を返せば形骸化こそがミームを広く伝播させるわけですからこれについて否定する立場でもありません。「ある程度残酷な描写があった方が話に深みが出る」だとか「想像力が働く」「聞き手を惹きつけることができる」といった利点を鑑みるに、ミームとして印象を残すにはより過激な(面白い)表現の方が好まれるのは頷けます。
さらに言えば「生殖」「食べ物」「危険」といった3要素はミーム的に広がりやすい傾向にあり、性的描写は「生殖のミーム」として、残酷描写は「危険のミーム」として強い伝播力を持つと考えられます。
性的で残酷な描写のみを抽出した時には完全に物語は失われて形骸化したものになっており、こうした形骸化した印象が広く一般に伝播しているからこそその話しの骨子を意図的に無視したホラーゲームや本来の話の骨子とは関係ない映画などを作り楽しむことができるわけです。
「竹取物語」と「かぐや姫」
中学生の頃でしょうか。国語か古典の教科書に「竹取物語」が載っていませんでしたか。古典や古文の他のお話は全然覚えていないけど「竹取物語」が載っていたことは覚えているなぁという方も多いはず。
これは絵本や紙芝居として「かぐや姫」の物語を子供の頃から知っていたから印象に深く残っているのだと思いませんか。
「いまはむかし、たけとりの翁というものありけり。」から始まる「竹取物語」は語り口や脚色部分を子供向けに改変されて「かぐや姫」として絵本や紙芝居になっているとも言えます。
もしも「かぐや姫」の物語を知らずにいきなり古典で「竹取物語」を読まされた場合、まずはその話を全て読み「話の骨子」を理解するところから始めなければならないわけです。しかし、幸い私たちは「かぐや姫」を知っているため古典の教科書の「竹取物語」をいきなり読んでもなんとなくでも読めてしまいますし話を理解するのは容易いです。
絵本や紙芝居で読み聞かされた昔話の「話の骨子」を大人になってから(大きくなってから)深く理解するというのは研究者だけの役割ではなく、学校の教育の中でも取り入れられており実は私たちにとって割と馴染みのあることだということもわかります。
小説を読むのが苦手だけど本が読めるようになりたいという人におすすめなのが、まずはあらすじが有名な小説や見たことのある映画の原作を読んでみることだとよく言われますが、これも「話の骨子」がある程度頭の中に入っているからこそ文章として脚色されている部分を頭の中で映像化しやすく本を読むのが苦手でも読みやすいという利点があります。(読み始める前に「あらすじ」を読むというのも。)
普段の会話の中で”どのような骨子”が伝達されるのかは非常にランダムで、時と場合によってはお話しそのものが失われることもあるのでしょうが、「昔話・昔語」を文化的に後世に伝承させていくという社会的なプロセスの中で議論がされる場合にはその”骨子”を見失わないようにしていだければば良いなと思うのでした。
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