私たちは”世界”をどのように見て、感じ、理解しているのか。哲学にとっても科学にとってもほとんど永遠の課題とも言える問題です。
それに対する解釈のひとつに「シミュレーション仮説」というものがあります。
「シミュレーション仮説」を大まかに説明しますと、「我々が普段感じているような”現実”というものは存在せず、全ては脳によるシミュレーションである」というもの。
この解釈にはパターンがいくつもあって、それぞれに視点や論点が異なるのですが、今回はその中でも”今我々が感じている現実”の中で再現可能のように思えるシミュレーション仮説のひとつ「水槽の脳」について紹介します。
そして話を進めながらこの「水槽の脳」を現実世界と照らし合わせて深掘りしていきたいと思います。
目次
・水槽の脳
・「水槽の脳」は極論的な懐疑主義を批判する
・シミュレーションも現実である
・サーバーがないのならそれは夢でしかない
・胡蝶の夢
・疑似科学的に何とでも言える
・バーチャルリアリティ(VR)はシミュレーション世界を構築できるのか
水槽の脳
「水槽の脳」はアメリカの哲学者であるヒラリー・パトナムによって1982年に論ぜられました。
絵で見れば一目瞭然なので上の図を見てもらいながら説明していきましょう。
「水槽の脳」の内容は、脳が死なないような特殊な液体に浸されながら高性能のコンピュータに繋がれ、脳の神経細胞に刺された電極を通して脳波を操作することでその脳には意識が生じ、普段私たちが見て感じているような”現実”を見る事ができるのではないか。というもの。
できそうですね。
現在の科学においてはもちろんまだまだ実現不可能な装置ではありますが、近未来的な話ではありそうですし現実的に手の届きそうな超科学の範囲であるようにも感じでしまいます。
が、この思考実験は「水槽の脳」そのものが実現可能かはあまり大きな論点ではありません。
「水槽の脳」は極論的な懐疑主義を批判する
そもそもこの「水槽の脳」はパトナムが認識論的な懐疑主義を批判するために提唱した話です。
わかりやすく極論を用いて話しますが、登場するのは有名なデカルトの「我思う故に我あり」です。
懐疑主義というのを簡単に説明しますと極論的にはデカルトの「我思う故に我あり」にたどり着きます。
見ているもの、感じていること、数学的な解答や物理的な法則まで、それら全てを疑い、そこに疑いの余地のあるものはとあえず全て偽であるとして真理ではないとするのが懐疑主義です。
デカルトはその極地にまで行き物事のぜーんぶを疑いの目で見たところ「物事を疑っている自分自身を疑うことはできない」ということから「我思う故に我あり」にたどり着き、本当に真なるものとは「思う我」であるとなったわけです。
普通は数学的な解答は客観的な事実なんだから疑う余地なんてないんじゃないの?と考えるのですが、
デカルトは「デーモン仮説」というものを取り出し「1+1=2」は本当は「1+1=5」なんだけど悪魔に「1+1=2」だと思い込まされているのかもしれないと疑います。(なんでもありやな)
このデカルトの「デーモン仮説」もまた現代でいうところのシミュレーション仮説のひとつに数えられる事があります。
しかしながらデーモン(悪魔)がいたとしても”思い込まされている自分はやっぱり居るよね”ってことでデカルトはやはり「我思う故に我あり」なのです。
ではその「思う我」ってものすら作られたものだとしたら…ここで出てくるのが「水槽の脳」です。
「水槽の脳」では電極に繋がれた脳に「意識が生じるのか」と問われます。
もし仮に「水槽の脳」に意識が生じた場合、その意識とは「水槽の脳が持つ真なるものなのか」または「高性能コンピュータによって作られた偽のものなのか」という疑いが生まれます。
デカルト的な懐疑論を展開するのであれば「水槽の脳」に生じた”意識”なるもの、つまり「思う我」も疑うべき対象となり「我思うても我不在」となってしまいます。
思ったり感じたり考えたりする”我”すらも疑ってしまっては科学も哲学も意味を成しません。ましてや”現実”なんてものは無いという結論で話は終わってしまいます。
そんな極論的な懐疑論なんてこれ以上議論する意味ある?と「水槽の脳」は問題提起してくるのです。
という事で「水槽の脳」においては「現実世界」が実在するのかどうかって二の次の話だと私は捉えています。
ただ、今流行り(?)のシミュレーション仮説について掘り下げるのは嫌いじゃありません。
ということで、「水槽の脳」をシミュレーション仮説の視点からもう一歩踏み込んでお話ししてみようかと思います。
シミュレーションも現実である
「水槽の脳」の模式図ではひとつの脳に対しひとつのコンピュータが接続された1対1の構図をしています。
このままではシミュレーション世界には「脳」はひとつです。
「脳」がひとつと言うことは、”私”と言う個人が全ての世界を構築し、全ての人や物も産み出し、事象の全ては”たったひとつの脳”が作り出していると言うことになります。
「水槽の脳」が作り出すシミュレーション世界がこのようにひとつの脳でできていると想定をすると、それはもう「眠っている時に見る夢」と大差ありません。と言うか夢そのものと言っても過言でないと私は考えます。
この世界のすべては「夢」なのかもしれないと言う考えに「胡蝶の夢」がありますが、この話は少し後回しにしてにして
ひとまずは、たとえこの世がシミュレーションであったとしてもそれを現実として捉えるべきだろうと言う考え方をしてみます。
脳とコンピュータが1対1の関係であったとしても、複数台のコンピュータが大きなサーバーに接続されていて、複数の脳が”同じ現実を見せられている”ならそのシミュレーションを現実として捉えても良いのでは無いか?と私は考えます。
水槽の脳とサーバーの数
シミュレーションを現実として捉えるとはどういうことかと言いますと、共有されたシミュレーション内において客観的に観測可能な事象についてはそこに接続されている脳にとっては現実以外の何物でも無いと言うことです。
図にすると以下のようなものです。
個々のコンピュータが大きなサーバーに接続されています。サーバーではそのサーバー内でプログラムされている物理演算などにしたがってシミュレーション世界を構築します。
サーバーに接続された各コンピュータが脳に見せる”現実”はインターネットサーフィンをする時のブラウザです。
脳はあくまでもひとつひとつ個別ではありますが、見ている物や物理法則はサーバーに接続された他の脳と共通のものです。
脳の側はサーバー側の演算の中でしか動くことはができません。webサイトを閲覧者が勝手に改変できないのと同じことです。
そのサーバー内ではエネルギーの法則が「e=mc2」でしか演算されないとすれば、接続されたどのコンピュータも光速を超える速さで移動するようなシミュレーションをしたり一定の慣性系を逸脱するようなシミュレーションを行うことはできないのです。
つまるところ同じサーバーに接続された脳同士、同じプログラムの範囲内で動いており、同シミュレーション内において客観的に観測可能な事象についてはそこに接続されている脳にとっては現実以外の何物でも無いのです。
たとえ「これは作られた世界でシミュレーションなのかもしれない」と疑う余地があったとしても、それを疑うことに意味はありません。
だって、どうしようも無いんだもん。
現実なんて存在しないシミュレーションなんだと疑ったところでプログラムに直接干渉できるわけでも無く、世界が改変されるということもありません。
たとえ本当にシミュレーションであったとしてもこれを現実として受け入れる以外に無く、同じシミュレーションの上で”生きている人々や物事”を現実のものとして接しなくてはいけません。
シミュレーションだから何をやってもいいと考えるのは早計です。同時に「何でもできる」「何にでもなれる」というのもポジティブなように見えて浅はかな思考なのかもしれません。どうやらこの世界のシミュレーションは努力というパラメータもあるようなので。
サーバーがないのならそれは夢でしかない
実のところ、普段私たちは「水槽の脳」を擬似体験しています。それは眠っている時に見る「夢」です。
「夢」の中での体験は誰かと共有される物ではなく、個人が個人の中で得るものなので、
先ほどお話ししたようにひとつの脳に対しひとつのコンピュータが接続された1対1の構図であった場合の「水槽の脳」の状態と言えます。
夢の中では私たちはそれを現実のもののように感じます。例外として「明晰夢」というものがあり、夢を見ながら「これは夢である」と自覚する事ができるのですが一般的には夢の中でそれを夢だと認識することは稀です。
夢の中では覚醒状態の体は動いていないにもかかわらず歩き回ったり走ったり、時には空を飛んだりもします。
その時に感じている感覚や感情は脳の中で起こっているに過ぎません。
夢の中で見ている景色は実際に目で見ている景色ではなく、脳が勝手に見せている景色なのです。
そしてこの「夢」というのは誰かと共有できるものではありません。
稀に「同じ夢を見た」という事がありますし、「夢の中での話が現実でも通じた」なんて事もありますがやはり一般的ではありませんので偶然の一致であるという以上のことは言えません。
そうした夢の偶然の一致をフロイト的心理学を用いて夢と集団的無意識とを結び付けて論ぜられる事もありますが「偶然の一致」以上の決定的な説明にはなっていません。
つまるところ、眠っている時に見る夢は「水槽の脳」においては大きなサーバーにアクセしていない単体のコンピュータによるシミュレーションと大差ない現象となります。
胡蝶の夢
シミュレーション仮説は昨今の量子力学の発展やバーチャルリアリティ技術(VR)の発展によって話題になる事が多くなった印象がありますが
この世が仮想のものであると言う考え方自体は東洋西洋問わずかなり昔からあります。
仮想現実について東洋思想として有名なのが「胡蝶の夢」です。
「胡蝶の夢」は紀元前300年頃の中国の思想家である荘子の逸話として語られています。
荘子はある日、蝶になってひらひらと飛ぶ夢をみて目覚めました。
目を覚ました荘子は思います。
はたして自分は昨夜「蝶になる夢」をみていたのか、はたまた今の自分が「蝶の夢」なのか、と。
この逸話は荘子の思想の世界観を端的に表したものとしても有名で、
荘子は自我や意識に縛られない解放された精神と言う考え方を持っていて、そこに達すれば自然と調和して真に自由になれると説いていました。
仏教の「諸行無常」の考え方や「空」の概念にも近いですね。
「夢」と「現実」がどちらがどちらかわからなくなるということは私自身も経験した事があります。
夢の中で1週間くらい生活した事があって、その夢から目覚めた時は本当に困惑しました。
この世界からも目覚められるのではないか?
この世界から目覚めた世界はどこのあるのだ?
そこはどのような世界なのだろう。
「夢」と言うのはまさに「脳」が作り出したシミュレーション世界と言えるのです。
疑似科学的に何とでも言える
「水槽の脳」をはじめとしたシミュレーション仮説を初めて知った人がたまに要らぬ不安に苛まれてネガティブになっているのを見かけます。
これらのシミュレーション仮説や思想はあくまでも思考実験であって、この現実が本当にシミュレーションなのかもしれないと真剣に悩む必要はありません。
先ほどお話ししたように、たとえシミュレーションだとしてもこれを現実として捉えて何ら差し支えないですし、そもそもシミュレーションだと言う前提で行動してしまう方が生活に支障をきたすでしょう。
シミュレーション仮説が不安を煽るひとつの罠が何だか科学的に聞こえてしまうと言うことです。
これらは認識論や哲学における思考実験であっても、決して科学ではありません。(科学と哲学の境界の話は別の話にしときます。)
科学と言うものは再現性や反証可能性を求められます。
仮に「水槽の脳」のような生命維持装置と高性能なコンピュータが構築できたとしても「クオリア問題(詳しくは別記事「クオリアとは何か:科学者メアリーの部屋」)」によって大きな壁が立ちはだかりますし(再現性なし)
様々な事象を「この世界はシミュレーションだから」で片付けられてしまっては科学が意味を成しません。(反証可能性がない)
特に反証可能性においてシミュレーション仮説はめちゃくちゃ弱いです。
個別の脳はサーバーを超えて別のコンピュータ(脳)にアクセスすることはできない。と言ってしまえば「クオリア問題」を説明しているように見えますし
複数のサーバーがあり、それに対してまた複数の脳(コンピュータ)があるのだと言ってしまえば「多次元宇宙論」すら説明しているように見えてしまいます。
しかし、私たちは自分の脳を飛び出して別のサーバーを見に行ったり、自分の脳が水槽でプカプカ浮いているのを見る事は出来ません。つまり、それらの話を反証(その論説の真偽を立証)する事ができません。
幽霊や神の存在もプログラムのバグだとか、サーバーの構築者だなんて言われても何の説得力もないですよね。
全てをそういう仕組みなんだから仕方がない。と一言で片付けられてしまう一部の「シミュレーション仮説」は思考実験としては面白いもののそれに取り憑かれると本当の意味で”現実を見失う”ので注意が必要です。
バーチャルリアリティ(VR)はシミュレーション世界を構築できるのか
昨今ではバーチャルリアリティと言う技術の研究が盛んです。いわゆるVR技術という物ですね。
多くの場合には立体視ができるゴーグルのついたスクリーンに3DCGや3Dカメラ映像を映し、頭や体の動きに合わせて映像も動かす事で、まるで映像の中の世界に飛び込んだような一種の錯覚を起こす技術です。
VRゴーグルをかけた人がジェットコースターの映像や高所の鉄骨渡りなどを見せられてビビってる姿は側から見てると何とも滑稽ですよね。
でもあれはあくまで”ゴーグルをかけて映像を見せられている”という前提があるので体験者も仮想現実(VR)として楽しめるわけですが
生まれてからずっとVRゴーグルを付けっぱなしの人がいたとしたら、その人はVRの世界を現実の世界だと認識するのではないでしょうか。
実際にはそんなことは倫理的に許されるわけもないのですが、認識論の観点から言えば全然あり得る話です。
私たちにとって現実世界というのは目や耳から入ってくる様々な情報を脳が整理して”認識”しているわけですから、その情報が制限されるなり操作され得る状況であるのなら、たとえそれがVRであったとしても現実として認識するでしょう。
そしてVRの世界しか見たことのない人が急にゴーグルを外されて「こっちが現実だよ」なんて言われてすぐにその”現実”とやらを受け入れられるでしょうか……。
これは極端な話ではあったのですが、実のところ普段私たちは自分が真実だと思っている物事が真実ではなかったということなんていくらでもあります。
現実だと思っていた物事が嘘だったなんてこともいくらでもあります。
テレビやインターネット、本や雑誌など様々な媒体を通じて得る情報は全て誰かや何かのフィルターを通して見る世界な訳でして、それが真実であり現実である確証はどこにもありません。
しかし、それが現実です。
たとえ生まれてからずっとVR世界の住人にされてしまった人も、ゴーグルを外されればその世界を現実として受け入れざるを得ません。(精神的負荷はめちゃくちゃ大きそうですが。)
「現実って何やねん」「認識って何やねん」「意識って何やねん」と考えるのは楽しいですが、それらを懐疑論的に偽だとして現実逃避することだけはやめましょう。
この世がシミュレーションだったとしても腹は減るし眠くもなります。
ご飯と食べた時に感じる幸福感が外部の誰かによるシミュレーションなのだったとしても、それを存分に楽しんでやろうじゃありませんか。