「理科離れ」や「理工離れ」「科学離れ」なんて言葉を聞いたことがあるでしょうか。言葉の意味を端的に言えば「若者が理科や科学に興味を持たなくなった」その結果「他国に比べて理工系の分野で学力の低下が見られる」といった感じ。
話だけ聞けばなんだか問題ありげですが、本当に「理科離れ」というやつは起きているのでしょうか。起きているのならば何が原因で何が問題なのでしょう。
「理科離れ」という言葉が見聞きされるようになったのは2000〜2005年くらいのことかと、2000年に経済協力開発機構(OECD)が国際的な学習到達度調査(PISA)を開始したことに端を発し「国際教育到達度評価学会(IEA)」による「国際数学・理科教育動向調査」や科学技術・学術政策研究所による「理科に対する興味関心」の調査(アメリア・イギリスとの比較)がされたことで「理科離れ」が浮き彫りになったと言われているようです(参考:Wikipediaより)。
これらの指標を実際に見てみることで本当に「理科離れ」は起きているのか。そして”何”と比べて”どこから離れている”のかを考察してみたいと思います。
目次 ・学習到達度調査(PISA)での「科学リテラシー」の順位 ・国際教育到達度評価学会(IEA)による「国際数学・理科教育動向調査」 ・数学や理科を使いたいと思わない子供たち ・「第一次科学ブームの終焉」と「科学が歴史になった時代」 ・科学信仰と理科離れ ・プログラミング教育と論理的思考
学習到達度調査(PISA)での「科学的リテラシー」の順位
経済協力開発機構(OECD)による国際的な学習到達度調査(PISA)において2018年に日本の子供たちの読解力が下がっていると評価されたことで一時期話題になりました。このことについては【「読解力が下がった」という話を深掘りしてみる。】という記事で深掘りして考察しましたのでよろしければ併せて読んでいただければと思います。
学習到達度調査(PISA)が初めて行われたのが2000年のこと。調査内容は「読解力」「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」の3分野に大別されており2000年から3年おきに調査されています。
一番最近の調査結果は2019年に報告された2018年の調査ですから昨年2021年に調査されて今年2022年に最新の報告が提出される感じでしょうか。世界全体が「新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)」の影響を受ける中、「学力」にどのような影響があったのかが浮き彫りにされそうです。
では実際のところ学習到達度調査(PISA)で日本の「科学的リテラシー」はどのように評価されているのかというと2022年現在の最新の調査(2018年の調査)ではなんと2位になっています。
んん?「理科離れ」していると懸念されているのに世界で見れば「科学的リテラシー」は2位だって?調査結果には「信頼区間」という誤差範囲が設定されていますがそれにしたって上位も上位です。
この表を見て「うわ、日本の読解力低すぎ!?」と感じた方には【「読解力が下がった」という話を深掘りしてみる。】を覗いていただくとして。
では調査が開始された2000年で順位が低かったのか?というと、実は2000年の調査でも日本の順位は1位の韓国に次いで2位であり信頼区間として「1位グループ」と評価されています。(資料:PISA(OECD生徒の学習到達度調査)2000年調査結果概要(PDF))
めっちゃ科学強いやんけ!どこが「”理科離れ”じゃ!と突っ込みたくもなりますが、「科学離れ」が懸念されたもう一つの指標である「国際教育到達度評価学会(IEA)」による「国際数学・理科教育動向調査」について見てみましょう。
国際教育到達度評価学会(IEA)による「国際数学・理科教育動向調査」
まずもって国際教育到達度評価学会とは、読んで字の如く世界各国の教育レベルを調査し評価する国際的な非営利の研究団体で国際数学・理科教育調査を実施し「数学・理科」における各国の教育水準を調査しています。
この調査でも 経済協力開発機構(OECD)による国際的な学習到達度調査(PISA)と同様にテストが行われ、各国の生徒・学生たちの「数学・科学」分野の点数が出されています。
では早速、日本の生徒・学生たちはどのくらいの順位にあるのかを見てみましょう。
この表は1995年から4年おきに行われている調査の2015年までの「理科の成績(中学校)」における順位の推移です。
日本は概ね5位以内につけていて2015年の調査では2位につけています。おぉ、高い順位やんけ!と思ったのも束の間、推移をよく見てみると「理科離れ」が懸念され始めた2000年前後の推移では確かに順位が落ちていて2003年には6位にまで転落しています。
まぁ国際的に見て”6位”を低いと評価するかはさておき、2003年時点では確かに調査が開始された1995年から順位を落とし続けているように評価されるのは致し方ない結果になっているのがわかります。
これに危機感を感じて「理科分野」の学力低下が懸念されたのですが、ただその後2007年には3位に上がり、2015年には2位になっていることを見ると2003年の6位というのも誤差の範囲であるような気がしますね。各国の点数を見てもそこまでかけ離れているわけではないように思えます。
2009年時点での文部科学省の見解では「我が国の児童生徒の成績は、国際的にトップクラスであり、全体としておおむね良好である。」と評価されており学力そのものに次いてはさほど問題視されていないようです。
しかし、この見解にて気になる一文が「数学や理科が好きであるとか、将来これらに関する職業に就きたいと思う者の割合や、学校外の勉強時間が国際的に見て最低レベルであるなどの問題がある。」と評価されている点。実際にどの程度”最低レベル”なのか見てみましょう。
数学や理科を使いたいと思わない子供たち
さっそく調査結果を出してしまいましょう。
文部科学省より「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2019)のポイント(PDF)」から抜粋した表です。「理科」について「理科の勉強は楽しい」「理科は得意だ」「理科を勉強すると、日常生活に役立つ」「理科を使うことが含まれる職業につきたい」の4項目の調査が行われています。
確かに、国際平均に比べて日本の中学生たちは”楽しい”と感じていないようですし、”役立つ”ととも思っていないようですし、”職業につきたい”と考えていないようです。
学力としては国際水準に比べてかなり高い水準を保っている日本の教育ですが、その有用性や活用方法については義務教育段階であまり重点を置いて教えてくれないことが一般的であるのは肌感としてあるかもしれません。
数学の方程式や理科の周期表を覚えて何の役に立つの?という疑問が解消されぬまま成績や入試のために覚えらせられ、その結果”詰め込み型教育”なんて言われ方をしているくらいです。
理科や数学の成績がいくら良くてもそれの使い道がわからないとなれば”理系の職業につきたい”という意欲も湧かないということは十分に考えられる結果でしょう。
”勉強が楽しいか”という点に関して言えば、日本は国際的に見れば経済大国であり義務教育が保障されていて半強制的である点において”楽しさ”や”意義”を感じることは少ないのかもしれません。
テレビのドキュメンタリーなどで発展途上国や貧困国の若者が少ない給料で教科書を買った話や、「今したいことは勉強」なんてコメントしていたりするのを見ると、勉強に対する”意義”や”意欲”は日本のそれと比べて非常に高いことが伺えます。
これは学力が職業や収入ひいては生活に直結していることが大いに影響しているからでしょう。
日本に生まれ、日本に住まうという前提であれば将来はどうあれ学力を無視しても自分一人が食って寝るには困りませんからね。逆にいくら学力が高くても高収入であるとは限らないというのは経済の強い国々ではよくみられること(大学を出ているからと言って高収入であるとは限らない)で、学力と生活に相関関係はあれど直結しているとまでは言えない環境なのかもしれません。
話を少し戻しますが、こういった日本の環境下において義務教育で教わる内容を”職業に活かしたいか”と聞かれても子供たちからすれば「そもそもどうやって活かすんだ?」という疑問が湧き、挙句「勉強ができたって社会では役に立たない」という”大人”までいるのが今の日本ではないでしょうか。
そこへ来て「勉強を社会に活かせない」だの「理科離れだ」だのと言われる若者の身にもなってやってくださいよ。
「第一次科学ブームの終焉」と「科学が歴史になった時代」
さて、ここまでは国際機関の調査やそれを元にした文部科学省の見解などから「理科離れ」というものを見てきましたが、ここからは少し視点を変えて”俗的”な意味合いでの「理科離れ」を考えてみます。
「理科離れ」という言葉に含まれているニュアンスとしての「最近の子供たちは”科学”に対する興味が薄い」という感覚。私個人としてはそこまで強くそれ感じません(私は1987年生まれ)が、私よりも数世代前の方々からするとこの印象は強く感じるのだそうです。
と言うのも私たちが現在生活する中で受け取る科学技術の確立は1900年に入ってからのものがほとんどで、しかも1950年頃からの20世紀も後半に差し掛かった頃のこと。それ以前は人々は今よりももっとフィジカルな暮らしを送っていました。
では1950年を境に何があったのか。その頃といえば第二次世界大戦終戦(1945年)の直後、戦後間もない時期ですね。
今ではどこの家庭にもある「テレビ」「冷蔵庫」「洗濯機」が日本で「三種の神器」と呼ばれて日本国内で普及し始めるのが1950年代後半のこと。
そして1960年代はアメリカとソ連の冷戦が浮き彫りとなりミサイル開発の延長線上にある宇宙進出をめぐってかの有名な「アポロ計画」が動きアポロ12号が「月の石」が持ち帰ってこられた時代です。
そして1970年には「日本万国博覧会(通称:大阪万博)」が開催され、世界各国の科学技術が日本に結集し人々が熱狂。
その頃には三種の神器としての「テレビ」が一般家庭に普及し、日本国内ではテレビアニメや特撮などを見るためにで子供たちがテレビの前に齧り付くことになります。
その頃に放映されていたものといえば「ウルトラマン(1966)」「仮面ライダー(1971)」「宇宙戦艦ヤマト(1977)」「科学忍者隊ガッチャマン(1978)」「機動戦士ガンダム(1979)」どれもこれも当時の子供たちを熱狂させたであろう”科学”がメインテーマであると言えるコンテンツでした。
子供たちにとってまさに「第一次科学ブーム」と銘打って差し支えない時代があったのです。
幼少期を1960年から1970年代に過ごした彼らが2000年になると40〜50歳ということになります。そんな大人たちが今の子供たちをみて「最近の子供たちは”科学”に興味を持たなくなっている」と感じるのは当たり前なのかと。
2000年以後を生きる子供たちにとって”科学”は「これから発展していくもの」ではなく「日常で享受するもの」になっているのですから、学校で教わる「理科」の授業は科学の発展を遠くから眺める「歴史の授業」と感じているのかもしれません。
「歴史の勉強をして社会に何の役に立つの?」という疑問は「理科や数学の勉強が社会に何の役に立つの?」という疑問よりもよく聞きますし大人としても答え難く妙にリアルじゃないでしょうか。(個人的には歴史の勉強も社会にめちゃくちゃ有用だとは思いますけど。)
科学信仰と理科離れ
科学が社会を動かす以前、社会を動かしていたのは宗教的観念でした(とは言え、今現在も宗教は社会や文化にとって重要なものではありますが)。
社会の中で宗教的な観念が今よりももっと強かった時代に科学が勃興し、科学で何でも解決しようとする”科学者”を宗教的な面から批判する言葉として「科学主義」という言葉が生まれ今でも使われています。
確かに”科学”で解決できることは多くありますが、”科学”だけでは解決できない問題が多いのもまたヒトの営みというもの。”科学”を盲信するということに疑念や懸念を抱くことも頷けます。また、科学が宗教の領分にまで踏み込んでくるというある種の”厚かましさ”を宗教家が抱くのも無理はありません。
「神がそう作ったからそうである」というキリスト教圏の宗教的観念世界において、ダーウィンの進化論がその領分に科学的根拠とともに踏み込んできたことで大論争を巻き起こしながらも人々は「ダーウィンの言ってることって正しいんじゃない?」と心の内でパラダイムシフトを起こしつつ、それを信じるかどうかはさておき今でもアメリカでは教科書で”進化論”を教えるべきかと宗教と科学の議論は続いています。
現在の日本で「進化論」を否定する人はまぁ少数派でしょう。学校で「進化論を教えるな」という運動もなくはないでしょうけど一般的ではありません。この点において日本は科学が優勢です。
個人や社会的文化がどうあれ「日本人は無宗教的」と自認し自称する日本人は少なくないでしょう。そして宗教的な観念を前にした時「科学的根拠は?」「科学では否定されている」「科学的でない」などと言った常套句でスピリチュアルな事象を頭ごなしに否定するということが散見されます。
いや何も幽霊を信じろとか神を否定するなとかそういうことを言っているのではなく、人々が知らず知らずのうちに”科学を盲信している”ということを自覚したほうが良いのではないかという話。
「科学的根拠は?」と問う側は果たして「科学とは何か」を説明できるのか。「神がそう仰っている」と言う宗教家に「神とは何か」を問うが如く自身の信ずるところの”科学”を説明し説得することができるのか。
実はこれ、非常に難しい問題なのです。学問として「科学とは何か」を研究する「科学哲学」と言うジャンルがあるくらい”科学”と言うものは実のところ根底のところで曖昧にされている部分があるのです。「神とは何か」を問うた神学者たちがいるように「科学とは何か」を問う科学者たちもいるのです。
「科学って何だろう」と言う疑問を抱くことなく「科学がそう言うのだから」と”科学”を信じるのであればそれは宗教的な”神”への信仰と構造は似たり寄ったりなものだと思いませんか。
「神」が”そうである”ように「科学」が”そうである”と言う信仰をいつの間にか植え付けられているだけなのだとしたら、”科学”ひいては”理科”をあらためて紐解こうと言う前提的な意欲が湧きにくいのかもしれません。
先ほど話した1960年から1970年代の子供たちが家のラジオや電気スタンドをバラして壊して怒られたと言う話を耳タコほど聞きますが、2020年に生きる子供がスマホやパソコンをバラして壊して怒られたと言う話はなかなか聞きません。
スマホはスマホとしてあり、パソコンはパソコンとしてそこにある。科学がそう仰るのです。
プログラミング教育と論理的思考
「科学信仰」という言葉自体は一般的ではありませんが、その概念は文部科学省だってちゃんと把握してくれています。
「なぜ小学校にプログラミング教育を導入するのか」という手引きにおいて「コンピュータがあたかも《魔法の箱》のよう」と表現されており、「その仕組みを知ることが重要」と記されています。
子供たちがスマホやパソコンを難なく使いこなしていく一方でその仕組みについては全く理解がなく興味を示さないということに懸念があります。
SF作家のアーサー・C・クラークは「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」という名言を残していますが、まさにそのような状況にあるのが現代というわけです。
しかしながら、1960年〜1970年代の子供たちが”科学”に熱狂したように2020年を生きる子供たちが「これから発展するもの」として興味関心が強いのはやはり「IT(Information Technology)」つまり「情報技術」といううやつかもしれません。そして昨今話題の「AI( artificial intelligence)」つまり「人工知能」の分野も捨て置けません。
1970年代の子供たちにとっての”科学ブーム”に対していえば2000年代以降の子供たちは「ITブーム・AIブーム」の最中にいると言えるでしょう。「AIブーム」という言葉をもう少し正確に使うなら「第一次AIブーム」は1950年代に始まっていて現在は「第三次AIブーム」なのですが、「AI」の技術を実生活の中で活用し、日々進歩していくものを同時に享受しているという意味で”子供たち世代”にとっての「AIブーム」は今現在なのかもしれません。(”子供たち世代”を”若者世代”にまで拡張して言っています。)
そんな中で、2020年から義務教育で「プログラミング教育」が必修科されました(文部科学省「学習指導要領」の改訂)。これについての詳細は割愛しますが、小学生から「プログラミング」の教育が必修となっています。
社会のIT化は何も今始まったばかりのものではありませんが、そのIT社会を担う人材を育てることを一つの目標に子供の頃からプログラミングを学ばせるわけですね。
ではこれ具体的に何をやっているのかというと、教室でパソコンをカタカタやっているだけではありません。重要とされるのは「思考力、判断力、表現力等」を発達段階に即して育み「プログラミング的思考」を身につけること。
一般的にプログラムというのは問題を解決する手段のことと言って差し支えないでしょう。「プログラミング的思考」は問題を解決しようとするとき「何が問題なのか」を考え「どうすべきか」を判断し「何をするのか」と実行に移すための論理的思考を育むための教育なのです。
その延長線上に実際の”プログラミング”があるだけで、実生活や他分野の勉強・研究において「論理的思考」はとても役に立ちます。
子供たちには「プログラミングだよ」「パソコンだよ〜」と言っておきながらその実「論理的思考教育でした」てな具合になっているのかもしれません。「はい、ではこれから”論理的思考”の授業を始めます」なんて言われたら授業を聞く気にもなれませんもんね。
論理的な思考が形成されれば理科や数学ひいては学校の勉強自体が何の役に立つのかを大人や教師に聞く以前に自ら見出す能力を身につけることにも繋がるかもしれません。とは言え教育者・保護者としての大人もそれらについてしっかりと学び、子供たちと一緒に考えていけるような環境がいいなと私は思うのでした。