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第7回【動物はミームをもつか#1】

ミームに自由意志は必要か

 ミーム肯定派の内でもかなり意見の分かれる部分が「動物にミームは存在するか」という議論です。動物の社会にミームを認めることとはミーム論の視点から見て動物にも文化を認めることとほぼ同義であり、ひいては動物に対して精神的活動を認めることにもなりかねません。ミームに精神的活動が必要か否かは議論の余地がありますが、ヒトがミーム表現型を発現して伝播するときに自らの自由意志を用いているのであればミームには精神的活動が不可欠なものとなります。となると、動物にミームを認めるためには動物たちも私たちヒトと同じような自由意志を認めなくてはならないのでしょうか。

 私の考えているところでは、ミームの伝播には自由意志や精神的活動、意識すら必要ないのでは無いかと考えています。しかし、ミームをより効率よく伝播するためには精神的活動は非常に重要です。精神的活動によって強化されたミームはその強化度合いによって「強いミーム」「弱いミーム」と表現することができます。精神的活動によるミームの強化についてはマズローの「欲求五段階説」などを用いて後日記事にしようかと思います。一先ず今日は自由意志を抜きにして「動物のミーム」について考察していきます。

遅延する自由意志

 ともあれ私がなぜミームには自由意志が必要ないのではないかと考えているのかに軽く触れておきます。それは、現実に起こっている“今”に対して脳の意識レベルでの“今”には遅延があるという研究結果があるからです。ベンジャミン・リベット氏の著書「マインド・タイム」で紹介されている実験で私たちの意識よりも先に脳が反応し体が動いていることがわかりました。自由意思として何かを選択するときですら、例えばバッターが向かってくるボールを打つか打たないかを判断するときですらバットを振った後に私たちは「バットを振るべきだ」と判断しているというのです。私たちは身体活動には自由意志が先立つと感覚していますが、実際には身体活動の後に自由意志を意識していることになり、事象に対して経験は遅延していることになります。しかし、この遅延を私たちは認識できません。自由意志、というか意識はその遅延を時間的に遡及して経験させています。このことをリベット氏は「空間的および時間的な脳の感覚反応の主観的な遡及 [Libet, 2005]」と言っています。ただし、「行動しようとする衝動の拒否」と「意識プロセスが最終的な行為を実行するための引き金として働く」こととを通して自由意志そのものを否定はしません。何れにしても、リベット氏の語るように意識は主観の時間的な遡及を通して体験されているとしたら、ミームの伝播、すなわちミーム表現型の発現には必ずしも精神的活動を必要としないということも言えます。このことから、動物のミームを考察するにあたってそこに精神的活動があるか否かを前提とする必要はないと私は考えるのです。

動物の文化とはなんだろう

 動物の「文化」のように、各ミーム論のなかで何度も出てくる「文化」という言葉。実は、この言葉の定義がそもそも曖昧なのです。精神的活動ということを無視するにしても、文化をヒトに限定したものと捉える見方もあれば、チンパンジーのような人に近い霊長類の生活を「原文化」として扱い、ヒトの「文化」に対しては原始的ではあるものの、一定の文化的活動を認めている場合もあります。さらに、生物全体にまで拡張して社会性のある生物、例えば蟻や蜂の社会性のある生態に「文化」という言葉を当てる場合さえあります。第6回【ミーム論概説:様々なミーム論】で挙げた5名のミーム論は「人の文化」に限定的なミーム論の展開となっていますが、一方で動物にもある種の文化が認められることから、動物にもミームの存在を認めている論者もいます。その一人が「動物は文化を持つか [Bonner, 1982]」の著者ジョン・タイラー・ボナー氏です。彼は同著の中でシジュウカラの瓶開け行動やニホンザルの芋洗いを例にして動物にもミーム的な文化伝播が存在するとしています。しかしながら、やはりと言うべきかボナー氏もヒトの持つミームは他の動物の持つミームとは桁違いに発達し脳を完全に作り変えたとまで言っています。スーザン・ブラックモア氏も同様に脳の増大はミームの所業であるとしていますし、ミーム論者はミームがヒトの脳を進化させたのだと言いがちですね。ヒトの特異的なミームの進化とニッチ環境の構築が何かしらの遺伝子的な変化をもたらしたかもしれませんが、相関関係はあっても因果関係は不明(そもそもミームが脳の中にあるのか外にあるのかすら不明)なのでミームが直接的に脳を進化させたと言うのはちょっと理論的な飛躍があるのかなと言う印象です。ただ、こうした相関関係を以ってミームと遺伝子の共進化としてヒトの脳の進化を考えるのであれば、萌芽的なミームが動物にも存在しそれを文化と言ってもいいんだろうと私は考えています。

動物の学習行動

 動物にせよヒトにせよ、生まれ落ちた環境の中で生きていくにはその生れ落ちた環境の在り方を学習しなければならなりません。社会性のある動物であればなおさらで、集団の中で共有されている情報を取り入れ模倣することは常日頃変化する世界で生き残っていくための死活問題となります。社会性の有無に関わらず新しい食べ物の獲得や、安全に休める場所を確保するためには刻一刻と変化する環境に対応し続けなければならないのです。そう言った意味で動物たちも日々学習をしています。

 動物の学習方法はいくつかあるのですが、ここでは3つを紹介します。まずひとつは、主体の自発的な行動によって報酬が与えられる「オペラント条件付け」です。この学習方法の代表的なものがスキナー箱のネズミ実験で、箱の中にはレバーがありそのレバーを押すと餌が出てくる仕組みになっています。その箱の中に入れられたネズミは最初、レバーを引っ掻いてみたり舐めたり齧ったりします。そうしているうちに偶然にもレバーを押し、餌が与えられます。給餌にレバーが関係しているであろうことを学びながらレバーを舐めたり齧ったりしているうちにまた押します。そうしたことの繰り返しのうちにレーバーを押せば餌が出てくると言うことを学んで行きます。ネズミは様々な選択肢を自発的に行い、そのうちのうまくいく(またはうまくいかない)方法を学習しているわけです。

2つ目の学習方法は「レスポンデント条件付け」です。動物の学習というとよく聞く「パブロフの犬」がこれに当たります。犬に餌を与える前にベルを鳴らすとことを繰り返すと、餌がなくてもベルを鳴らすだけでヨダレを垂らします。餌をみてヨダレを垂らすのは無条件反射と言って生理的な反応であり、この時の「餌」は無条件刺激(生理的刺激)と言われます。つまり生理的刺激に対して無条件反射が引き起こされるのが通常です。ここに無条件反射を引き起こさない中性刺激であるベルの音を生理的刺激とともに与え続けます。すると最終的には中世刺激であるベルの音のみでヨダレを垂らすようになります。この時の反応を条件刺激と言います。

無条件刺激(生理的刺激):餌
無条件反射(生理的反射):餌を前にしてヨダレを垂らす
条件刺激:給餌ベルを鳴らす
条件刺激:ベルの音でヨダレを垂らす

以上のようなものが「レスポンデント条件づけ」と呼ばれ、スキナー箱のネズミが自発的な行動(オペラント)によって学習されるのに対し、パブロフの犬は自発的な行動を伴わない反射行動(レスポンデント)によって学習されています。この2種類の学習の違いはちょっとややこしいので私も勘違いしていました。

そして最後にもうひとつ「社会的学習」です。主体とは別の個体が行なっている行動やその場の環境などの刺激が観察者(主体)たちを同じ行動へ導きその行動が強化されていきます。この学習方法はその名の通り社会性が重要で、主体の属している集団やグループの行動を摸倣することで、その集団の一因としての適切な行動をとれるような習慣や規範を学習していきます。オペラント条件づけとレスポンデント条件付けでは報酬や罰が与えられる主体のみで行われる学習であるのに対し、社会性と模倣によって行われる社会的学習がミームにとって重要な動物の学習行動であると考えられます。

 シジュウカラの瓶開け行動は動物の社会的学習行動の例としてよく挙げられるもののひとつです。イギリスでシジュウカラの一種は牛乳瓶のアルミホイルのキャップ(蓋)を開けて中のクリームを飲みます。その行動が最初は一ヶ所で発明され、またたくまにイギリス全土へと広がりました [Bonner, 1982]。最初に瓶の蓋を開けた1匹目のシジュウカラは試行錯誤の上でオペラント条件づけによって学習された行動であったかもしれませんが、その個体を観察していた別個体は1匹目のシジュウカラのように試行錯誤をしなくても成功者を模倣することで簡単に牛乳瓶の蓋開けを学習することができます。

日本の宮崎県幸島の京都大学霊長類研究施設で観察されたニホンザルのイモ洗いもまた動物の社会的学習の例として挙げられます。ある若いメスが土の付いたイモを洗う行動を起こし、それを見た別の個体がイモ洗いの行動を真似して、コロニー内にイモ洗いの文化が広がりました [Bonner, 1982]。

 これらシジュウカラやニホンザルの例は一般的には「刺激強調・局所刺激」だと言われています。個体を別の個体が観察することによってその行動が有益であると判断され、観察者も同じような行動を起こした結果、コロニーないしは隣接する集団内に広がっていきます。一見してこの学習は「行動」が“複製”されているように見えますが、しかしこれはあくまで「刺激強調・局所刺激」と言うように刺激や報酬に対する反応であって累積的な文化の変化を起こすことがないため、行動が個体から個体へコピー(複製)されているものでは無いとブラックモア氏は言います(ダーウィン文化論) [Anger, 2004]。累積的な文化的変化を起こすには“摸倣”を通じてコピーされる必要があり、刺激に対するそれぞれの反応では“再生産”であって“複製”ではないということです。それではブラックモア氏の言う“摸倣”とは一体何を指すのでしょうか。シジュウカラの社会学習が再生産であって模倣による複製ではないと言うのはなんだかちょっとわかりにくいですね。「刺激強調・局所刺激」も観察者が同様の行動を起こすのであるから広い意味での摸倣であって良いと考えられるのですが、ブラックモア氏にとっての“摸倣”はこれよりも限定的なもののようです。

今回はここまでにして、次回はスーザン・ブラックモア氏の言う模倣とは何なのか、そして動物の社会学習には本当に文化的な累積はないのだろうかという点を考察したいと思います。

「第7回【動物はミームをもつか#1】」への5件のフィードバック

  1. […]  「模倣」と言う言葉にも「心理学」「社会学」「哲学」「美学」といった分野において数種類あることがわかります。そしてこれまたややこしいことにそれぞれの分野でも「模倣」と言う言葉の定義には様々な解釈があったります。まぁそれはとりあえず脇に置いておいて、デジタル大辞泉でのミーム解説における「模倣」とはどの模倣の定義を採用すればよいでしょうか。まずわかりやすいのは心理学と社会学での模倣です。心理学での模倣として「ある反応が刺激の性質に類似しようとする傾向」と解説されていますが、以前の記事「第7回【動物はミームをもつか#1】」で動物の学習方法として少し解説をした「局所刺激」や「刺激強調」のような動物の学習反応とも取れそうです。そしてG.タルドの「社会現象を人の心の関係とみて,この関係を広義の模倣」としている部分ですが、不勉強で申し訳ないのですがこれについて詳しい文献を読んでないため深く考察できません。しかしながら、社会現象と人の心の関係を広義の模倣とする部分はミーム論と親和性が高そうです。これら「心理学」と「社会学」における模倣を「模倣によって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。」のなかに入れ込むとミームの解説として案外すんなり納得できてしまいそうです。 問題は「哲学」「美学」における模倣ですね。哲学用語としてはミメーシスと同義とされています。そして美学用語としての模倣にもアリストテレスのミメーシス論が紹介されています。アリストテレスはプラトンの弟子として有名ですが、そのプラトンの有名な学説が「イデア論」です。このイデア論とは、我々が実感している感覚や物質は虚像でありそれらの真の実在はイデア界にあるとするものです。そしてプラトンによれば芸術はイデアのミメーシス(模倣)であるとしています。アリストテレスによるミメーシス論はプラトンのイデアの模倣としてのミメーシスよりも美学的に意味で狭義なもので、芸術活動の本質がミメーシス(模倣)だとします。これはプラトン的な意味でのミメーシスとはかなり異なるものです。プラトンの言うミメーシスはイデアの虚像ですから、椅子の真実在(イデア)に対するミメーシスは我々が目にする椅子そのものとなります。そして、ミメーシスである椅子を絵の具で描くと言うことはミメーシスのミメーシスとなり実体としては3次的なものになります。このような意味において「模倣」をそのまま「ミメーシス」として置き換えると、「ミメーシスによって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。」となります。これでは意味がより曖昧になってしまいました。と言うより含有する文脈が多すぎて訳がわかりません。人の文化の進化に対して形而上学が入り込んできてしまったためミームの実態の不明瞭さが増しました。しかし、なぜあえてミメーシスについて解説を挟んだのかと言うと、ミームはその実在論を唱えるよりも形而上学として楽しむのも面白いし(私の本職である美術作家として)深掘りするのもありかなと思うのです。 随分と話が逸れてしまったような気がします。閑話休題。デジタル大辞泉におけるミーム論の解説についてまとめましょう。おそらくのところデジタル大辞泉で解説されるミームは心理学的あるいは社会学的な解釈における模倣のミーム論でしょう。「模倣によって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。」と言う解説はWikipedia(ウィキペディア)による解説のような「脳内の情報」よりも広い範囲の情報を指しているようです。Wikipedia(ウィキペディア)による解説が主体が内包する個々の情報を指すのに対して、デジタル大辞泉では増殖する文化情報と言う現象全体を指しています。どちらが間違っているわけでもなければどちらがより真実に近いと言うこともないですが、この違いはミームに対する解釈の違いとしては面白いものだと思います。 […]

  2. […] 霊長類にみられるように、端緒的な摸倣の能力を原始のヒトが有していたであろうことは想像に容易いです。ブラックモア氏の定義する模倣の3つ技術をヒト以外の動物が持ち、他の動物種に模倣能力を認める以上、霊長類が比較的顕著に高度化したその能力を持っているであろうことを推察します(「動物はミームをもつか#1,#2,#3」)。しかしながら高度化した模倣能力を個々が持っていたとしてもそれが集団の遺伝子プール内に広がらなくては意味がありません。模倣することが有益であるとはいえ、これまで簡単な模倣能力のみで生きてこられた者たちが高度な模倣能力を重要視するようになるのでしょうか。ここの疑問をブラックモア氏は「摸倣への淘汰」「摸倣者を摸倣することへの淘汰」「摸倣者とつれあいになることへの淘汰」「摸倣への性淘汰」の4段階の過程に分けて働いた淘汰圧によるものだとしました。 […]

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