第9回【動物はミームをもつか#3】

この記事は
第7回【動物はミームをもつか#1】
第8回【動物はミームをもつか#2】
の続きになります。

動物のミーム

 前回までの記事「第7回【動物はミームをもつか#1】」では動物がどのように学習をするのかを紹介し、「第8回【動物はミームをもつか#2】」では動物の学習行動にミームの伝播に必要な「模倣」が附随するのかを考察し、結論としては動物も人と同じような方法で模倣しているとしました。
 今回はジョン・タイラー・ボナーの「動物は文化をもつか [Bonner, 1982]」という著書を中心にして実際に観察されている動物の文化の例をもとに動物のミームについて考察しています。さらに動物の教授行動やヒトとは異なった言語体系を紹介しながら「動物はミームをもつか」と言う疑問に対して肯定的な考察をしていきます。

ゲノムと脳は共生体

この著書の原題は「The Evolution of Culture in Animals」であり、直訳すれば「動物の文化の進化」です。この著書では、動物が自然という環境の中でいかに文化的な行動をとるかという数々の事例を紹介していきます。本書では遺伝子という言葉が使われず「ゲノム」という言葉が使われます。厳密に言えばゲノムは遺伝子と染色体を含む全てのDNA情報を差しますが、本書において「ゲノム」を「遺伝子」と置き換えて読んでもそれほど問題ないかと思います。しかしながら今回の記事ではテーマとなる本書に習ってしばらくは「ゲノム」という言葉を使います。

 ボナーは、ゲノムと脳の関係、すなわち生得的反応(いわゆる本能的な行動)と環境からの「学習」を伴う行動とをシームレスなものと考えているようです。つまり、遺伝的に決定されている先天的な行動と生まれ落ちた環境からの学習による相互作用によって動物の生態が決められるためそれらは分かつことのできないものだと言うことです。ある種の鳥が「昆虫を食べる」という食性は、主として生得的(遺伝)によって決定されていますが、食べられる昆虫と食べられない昆虫の様々な色や形のパターンを識別する場合には環境による学習によって識別されます。ゲノムによる生得的な知識ではなく学習によって得られる知識を用いて虫の形と色のパターンを識別することで、たとえ環境の季節が変わってもその環境下で食べられる虫を探し出すことが可能となります。学習という柔軟な知識の組み合わせで無数の昆虫を識別可能となるわけです。ブロディ氏の述べるような階層的なミームの性質で言えば、形や色の組み合わせによる「識別ミーム」と、それを食べるとどうなるかという「戦略ミーム」の結びつけを行なっているとも言えるでしょう。

ゲノムも脳も、生物にとってはどちらも情報処理装置ではありますが、その処理スピードは全く異なります。極端な低温に生物が適応するにはゲノムは分厚い皮下脂肪を発達させていきますが、それには少なくとも数世代に及ぶ発達や繁栄の時間を要しますが、十分に発達した脳を持つ我々人は衣服を纏うことで即座に適応可能です。脳を作り出したのは紛れものなくゲノム(遺伝子)であり、脳は刻一刻と変化する環境に対して動物進化のスピードをはるかに超えるスピードで生物を環境に適応させる高速情報処理システムです。ドーキンス氏の言葉の意味においての「利己的な遺伝子」の産物である脳が「ミーム」という新しい自己複製子を生み出し、環境に適応するだけでなく積極的に環境を作り変え、さらにはゲノム編集にまで手をかけ始めているというのはなかなか面白いではないですか。これからヒトはゲノムと脳の共生関係を保っていられるのでしょうか。

 話を動物に戻しましょう。ボナーは動物の学習と生態について鳥類の鳴き声を例にあげます。自分の卵を別の種の鳥に育てさせる托卵性のあるカッコーやコウウチョウは生得的に自らの鳴き声、つまり歌を持って生まれてきます。托卵性である以上、巣を離れるまで自分と同種である仲間の鳴き声や親の鳴き声すら聞く機会がありません。しかし、巣から出て自立する際には雄は自分が歌うべき歌を歌い、雌は自分の反応すべき歌に反応します。もしこの過程に学習を要するのであれば、少なくとも托卵先の巣から自立してから仲間を見付け出し、仲間たちがどのようにつがいを作るのかを学習する期間を必要としてしまいますが、そうはなっていないようです。カッコウやコウウチョウの鳴き声は生得的であると言えるわけです。

一方、ミヤマシトドという鳥は托卵性ではなく自分の卵は自分で育てます。そんなミヤマシトドの雄を孵化のときに親から隔離しておくと、その個体の歌は荒けずりで未発達なものとなることがわかっています。また、孵化のときに耳の聞こえない状態にしておくと、より不完全で初歩的な歌であったという実験を例にして、ミヤマシトドの歌には「直接に遺伝される基本的な歌のパターン」、「雄鳥が自分の歌を聴いて試行錯誤によって行なう改良」、「成熟した雄の歌を聴くことによる改良」という三段階あることを指摘しました。さらに、ミヤマシトドを含めた多くの鳥の種で、歌に方言があることが認められることからも、鳥の鳴き声には段階的な学習が存在する裏付けとしています [Bonner, 1982]。

 こういった学習は、一種の個人的学習である「オペラント条件付け」だと言えますが、その学習の仕組みは対別個体との交流によるためスキナー箱のネズミのようなレバーに対する試行錯誤よりももっと複雑な構造で動物たちも学習していることを示唆しているように思われます。

 このようなミヤマシトドの歌の学習を例にして、ボナーは動物の学習において「外界の情報を吸収してそれに応じて行動を修正する能力も遺伝的基盤をもっている。 [Bonner, 1982]」と、脳がゲノムから独立した物では無いことを改めて強調しています。この例にしてもやはりゲノムと脳は共生しているのです。

動物の教授

 これまでは動物の個体がどのように学習をしているかに焦点を絞っていましたが、学習のシステムに対して教授のシステムについても考察せねばなりません。模倣によって伝播するミームにとって、個体学習による個別の学習に加えて積極的に別個体へ“学習させる”という行動はとても重要な要素になります。何を学習すべきかを個別に判断するよりも、すでに学習済みの経験者が未経験社に教授してやるというのはミーム伝播にとっても動物の学習にとっても効率がいいわけです。

“教授”という知識の伝達システムは、ヒト特有のものとされています。私たちが一般に教授の場を想像するのは学校という教育システムでしょう。ヒトの持つ教育システムは言語を伝達の中心とした極めて高度なものであり、他の動物には見られそうもありません。ミヤマシシド が「こう歌うといいよ」なんて教えたりはしません。自分で歌うべき歌は自分で判断して学習しています。しかし、“教授”という伝達システムには私たちが考えているような高度な言語的コミュニケーションは必要ないのだとボナーは言います。

 動物におけるもっとも単純な教授は、例示によるものです。それらの行動は鳥類ではなく、よりヒトに近い霊長類の行動に多く見られます。まずは教師となる親などの成体は子供らに積極的に情報を授けるのではなく単にあまり知識の無い個体の目の前で自分の行動を見せるだけに留まります。そして知識的に未発達である子供は親の行動を真似することでその技術を習得していきます。この真似行動をボナーは「模倣と練習を含む」としています。こうした学習方法はまだ高度な教授とは言えないかもしれませんが、ここに単純なコミュニケーションが加わるとたちまち“教授的”にみえてきます。その単純なコミュニケーションとは「YES」と「NO」の二種類のコミュニケーションです。親は、真似する子供に対して、その真似が忠実に行なわれているか否かを監視し、子供を突いたり叩いたりしてその行動の修正を行ないます。このことは霊長類の母親の世話の例が多数観察されており、こどものチンパンジーが木に高く上り過ぎた時には母親は木の幹を軽く叩き、それに対してこどものチンパンジーは直ちに木から降りてくることなどの観察もあります [Bonner, 1982]。非常に単純ではありますが双方向的なコミュニケーションによる学習の修正が行なわれているのであれば、それは個人学習の域を超えているであろうと考えられます。個体が別の個体の行動を遠巻きに見て試行錯誤の結果を学習するような刺激強調の場合とは異なる“教授”の一種として認められるのではないでしょうか。

文化の進化スピード

 ボナーは「遺伝的要素と行動的要素の割合を決定することはもちろん、測定することさえ不可能であるとしながらも、「両者が存在することは明らか [Bonner, 1982]」であるという立場で、動物の行動の柔軟性にそれを観察してきました。

 ボナーの言う「文化」は、遺伝的要素と行動的要素の相互関係の中にある遺伝的行動と個体学習行動そして単純ではあるものの教授を伴う相互関係のある学習よる生態的継承であるとまとめることができるでしょう。日々変化する環境の中で成体が学習したことを子供に教授することで、環境の変化に対応できる柔軟性を学ぶ仕組みが動物の文化の形なのです。その柔軟性は累積的変化を伴いますし、動物の文化も「進化」すると言えます。ただそのスピードはヒトのそれに比べれば極端に遅いのは言うまでもなく、ヒトの文化に特異性を見出すのであればその進化スピードと柔軟性の質の幅であろうと考えられます。

 シジュウカラの瓶開けやニホンザルのイモ洗いにみられるような、動物の集団内での文化的な広がりは数世代を跨いでいるという点で、一過性の流行であるというよりも生態的継承として受け継がれていますが、一方でヒトの場合、ひとつの世代間で急速に文化が進化する過程が観察できます。局所的であったり一過性であったりする流行もヒトの持つ文化的進化の一種で、場合によっては次の世代に受け継がれることすら無い場合もありますが、本やビデオ映像によってそれらは保存され、再び同じミームをもたらすことができます。

「ミーム」の進化は遺伝子の進化と比べて非常に早いものです。遺伝子的にはひとつの世代間に、文化はものすごいスピードで発展していきます。1970年代に普及した黒電話が、2010年にはスマートフォンが普及し始め、いまでは小学生ですらスマートフォンを持っています。科学や技術の発展とも言い換えることは可能ですが、これらも文化の一要素としては長い時代をかけて石器が鉄器に進化していった過程となんら変わりはありません。石器が鉄器になり、黒電話がスマートフォンへと進化したスピードの違いはミームが指数関数的に進化するということを示します。ボナーは遺伝的要素と行動的要素の割合を知ることはできないとしていますが、ヒトの場合には行動的要素が多種の動物に比べて大きな割合を持っていることは確かでしょう。

動物における萌芽的な言語と教授

 ヒトは言葉を話し、その言葉を使って高度な教授が可能であると先述しましたが、動物には言語が全くないわけではないということは言わずもがなでしょう。そうであるならば、動物もその言語を使って高度な教授を可能にすることがいつかは可能なのでしょうか。ボナーは、高度な言語は人間に限定される物では無いとも言っています。

この高度な言語の例を霊長類や鳥類のような脊椎動物から離れ、より単純な構造を持つ昆虫における高度な言語の例を挙げておきます。ミツバチは斥候役(偵察)のハチが巣に帰ると、蜜源を発見したことと場所を仲間に伝えます。その蜜源の場所の伝達手法は、蜜限までの距離が短い場合には円を描くダンスをし、ある程度の距離以上の場合はその距離までを尻振りのダンスで伝えるのだそうです。尻振りのダンスでも伝えられない距離にある場合、斥候役(偵察)のハチはさらに方向を指示するために重力の方向を視覚の方角に置き換えて密源が太陽からどのくらい傾いた進行方向にあるかを示す別のダンスを行います。

このようなミツバチのダンス情報は私たちヒトが指をさして方向を示し腕と腕の幅で距離を表すような行動のように見えますが、こうしたボディーランゲージでは抽象的な言語表現になってしまいます。しかし、ミツバチの場合にはダンスの言語を非常に正確に解釈することができ、そのダンスを見た働き蜂は自分の判断で巣を飛び立つことができることが紹介されます。

ボナーがこのミツバチの事例を人間の言語と同じような例外的で高度な言語能力としては捉えているわけではありませんが、まだ知られていないだけで他の多くの動物にも特殊化した言語が存在していることを示唆しています。そして、手話やコンピュータ言語を用いたチンパンジーとのコミュニケーションや、鳥やクジラのような聴覚信号、他の可能性として触覚信号も含めて、動物の言語的なコミュニケーションの手段になり得るとし、それらを組み合わせることでより複雑な方法を構成しうるとしています。何れにしても動物の言語による教授や教育は現段階では未発見なものですが、ヒトもまた動物であり進化の産物であることを認めるならば、動物たちの持つ言語と教授を萌芽的なものと捉えてヒトのそれと全く別のものであるとするような人間主義的な考え方は排除されるかもしれません。

動物はミームをもつか

 「動物は文化をもつか」というボナーの著書を中心に動物のミームについて考察して見ました。動物の文化を認め、ミームを文化の構成要素として扱うのであれば、ヒトの持つミームは特異的ではあるものの、他の動物にも単純なミームは出現しているとして良いのではないだろうかと私は考えています。ただしそれは萌芽的であるがゆえに文化としても萌芽的ではあります。自己複製子としては複製速度も複製精度も複製の量も、ヒトの文化が持つミームと比べれば圧倒的に劣っています。それでも「動物のミーム」と「ヒトのミーム」の根源を同一のものと見做すのは、ヒトという種の系統的発生がダーウィニズム進化論においてシームレスであるからです。動物の社会性に見る文化とミームを、ヒトのものとは全くの別物にしたいのであれば、ヒトの文化がダーウィン的な進化システムを逸脱するための「スカイフック」つまり神的な存在を認めることになり、ヒトの存在を自然発生的なダーウィニズムから逸脱させることにもなります。私としては、動物は萌芽的なミームを持っているものだと(今の所は)結論づけておきます。

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