これまでの回でミームの定義を色々と紹介しました。特に「第6回【ミーム論概説:様々なミーム論】」では数名のミーム論者の著書とともに彼らが「ミーム」をどのように捉えているかをまとめました。
今回はもっと要約されたミームの定義をweb辞典からの引用でいくつか紹介し、そこに共通する語彙を抽出することで「ミーム」という言葉が一般的にどのように扱われているかを考察してみたいと思います。
引用するの「Wikipedia(ウィキペディア)」「コトバンク:デジタル大辞泉(小学館)」「IT用語辞典バイナリ」の3つからです。よく使われる「yahoo辞書」や「goo辞書」もコトバンク同様「デジタル大辞泉(小学館)」からの出典となるので代表してコトバンクのページを引用先としてリンクしてあります。
それではまず各web辞典の「ミーム」について一文を引用してみましょう。
まずはみんな大好きWikipedia(ウィキペディア)からの引用です。
Wikipedia(ウィキペディア)
ミーム(meme)とは、会話などを通して人から人へと伝わる情報であり、人類の文化を形成するための伝統や風習、慣習、常識、知識、振る舞いなどに類する、脳内の情報である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0より引用(2019年1月19日現在)
まず、Wikipedia(ウィキペディア)の場合の一文をさらっと読むと違和感はないのですが、”正確な”ミームの定義を知りたいとなるとやはり曖昧な表現になっているかと思います。この一文には2種類の「情報」という言葉が使われており、文頭では「会話などを通して人から人へと伝わる情報」、文末では「人類の文化を形成するための(中略)脳内の情報である。」とされています。これら2つの「情報」のうちどちらかが「ミーム」なのでしょうか。それともどちらも同じ「ミーム」なのでしょうか。脳内の情報が「ミーム」なのだとして会話などを通して伝搬するというのはミーム論の基本的な共通認識として頷ける部分ではあります。(「ミームが脳内にある」と言うこと自体は意見が分かれる。)では、文頭にある人と人とが会話などのコミュニケーションを通じてやり取りしている情報こそが「ミーム」なのだとすると脳内にあっても発現(発言)されない個人的な意見や妄想は「ミーム」ではないということになるのでしょうか。「伝わる」という言葉の意味において「伝えることができる」という意味も示唆されているのであれば主体が誰かに伝えるか伝えないかに関係なく、脳内のある他者へ伝達可能な情報はすべからくミームであるとも言えるでしょう。すなわち、Wikipedia(ウィキペディア)の一文におけるミームの定義は「他者へ伝達可能な脳内の情報」とまとめることができそうです。
ただ、Wikipedia(ウィキペディア)の場合にはご存知の通りその性質上誰でも編集可能ですので、この一文のみでWikipedia(ウィキペディア)の定義とすることは短絡的かもしれません。また、一つの単語に対して様々な意見や文献などを参照してある程度は網羅的に解説されている側面もあるので「Wikipedia(ウィキペディア)における定義」と言うのには語弊があるかもしれません。
次に「デジタル大辞泉(小学館)」からの引用です。
コトバンク:デジタル大辞泉(小学館)
《gene(遺伝子)と〈ギリシャ〉mimeme(模倣)を組み合わせた造語》模倣によって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0-682715#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89より引用
この一文を読んでの印象は「ザ・曖昧」(笑)。そりゃそうです。明確な定義のない言葉を辞書で調べようって言うんですからそんなもんです。それでも好印象なのは偏りの少ない定義づけがなされていることでしょうか。「《gene(遺伝子)と〈ギリシャ〉mimeme(模倣)を組み合わせた造語》」と言う部分はその名付け親であるドーキンスの著書「利己的な遺伝子」にもあります。とするとデジタル大辞泉によるミームの定義は「模倣によって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。」と言う部分になります。出ました「模倣」と言う言葉。以前の記事「第8回【動物はミームをもつか#2】」ではミーム論者である(であったと言うべきか)スーザン・ブラックモア氏の模倣の定義を紹介しましたが、デジタル大辞泉での「模倣」はどのように解説されているでしょうか。この言葉についても引用してみます。
模倣一般には人の動作などをまねることの意であるが,心理学では,ある反応がその刺激の性質に類似しようとする傾向をいう。また社会学では,G.タルドが社会現象を人の心の関係とみて,この関係を広義の模倣ととらえ,「模倣の法則」と名づけて社会学の基礎とした。哲学の用語としては,ミメーシスと同義に用いられ,美学上の用語としては,芸術活動の起源をみる場合 (アリストテレスのミメーシス論) ,あるいは芸術の本質は実在の模倣であるとする場合 (リアリズム) などにおいて語られる。
https://kotobank.jp/word/%E6%A8%A1%E5%80%A3-142729より引用
「模倣」と言う言葉にも「心理学」「社会学」「哲学」「美学」といった分野において数種類あることがわかります。そしてこれまたややこしいことにそれぞれの分野でも「模倣」と言う言葉の定義には様々な解釈があったります。まぁそれはとりあえず脇に置いておいて、デジタル大辞泉でのミーム解説における「模倣」とはどの模倣の定義を採用すればよいでしょうか。まずわかりやすいのは心理学と社会学での模倣です。心理学での模倣として「ある反応が刺激の性質に類似しようとする傾向」と解説されていますが、以前の記事「第7回【動物はミームをもつか#1】」で動物の学習方法として少し解説をした「局所刺激」や「刺激強調」のような動物の学習反応とも取れそうです。そしてG.タルドの「社会現象を人の心の関係とみて,この関係を広義の模倣」としている部分ですが、不勉強で申し訳ないのですがこれについて詳しい文献を読んでないため深く考察できません。しかしながら、社会現象と人の心の関係を広義の模倣とする部分はミーム論と親和性が高そうです。これら「心理学」と「社会学」における模倣を「模倣によって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。」のなかに入れ込むとミームの解説として案外すんなり納得できてしまいそうです。
問題は「哲学」「美学」における模倣ですね。哲学用語としてはミメーシスと同義とされています。そして美学用語としての模倣にもアリストテレスのミメーシス論が紹介されています。アリストテレスはプラトンの弟子として有名ですが、そのプラトンの有名な学説が「イデア論」です。このイデア論とは、我々が実感している感覚や物質は虚像でありそれらの真の実在はイデア界にあるとするものです。そしてプラトンによれば芸術はイデアのミメーシス(模倣)であるとしています。アリストテレスによるミメーシス論はプラトンのイデアの模倣としてのミメーシスよりも美学的に意味で狭義なもので、芸術活動の本質がミメーシス(模倣)だとします。これはプラトン的な意味でのミメーシスとはかなり異なるものです。プラトンの言うミメーシスはイデアの虚像ですから、椅子の真実在(イデア)に対するミメーシスは我々が目にする椅子そのものとなります。そして、ミメーシスである椅子を絵の具で描くと言うことはミメーシスのミメーシスとなり実体としては3次的なものになります。このような意味において「模倣」をそのまま「ミメーシス」として置き換えると、「ミメーシスによって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。」となります。これでは意味がより曖昧になってしまいました。と言うより含有する文脈が多すぎて訳がわかりません。人の文化の進化に対して形而上学が入り込んできてしまったためミームの実態の不明瞭さが増しました。しかし、なぜあえてミメーシスについて解説を挟んだのかと言うと、ミームはその実在論を唱えるよりも形而上学として楽しむのも面白いし(私の本職である美術作家として)深掘りするのもありかなと思うのです。
随分と話が逸れてしまったような気がします。閑話休題。デジタル大辞泉におけるミーム論の解説についてまとめましょう。おそらくのところデジタル大辞泉で解説されるミームは心理学的あるいは社会学的な解釈における模倣のミーム論でしょう。「模倣によって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。」と言う解説はWikipedia(ウィキペディア)による解説のような「脳内の情報」よりも広い範囲の情報を指しているようです。Wikipedia(ウィキペディア)による解説が主体が内包する個々の情報を指すのに対して、デジタル大辞泉では増殖する文化情報と言う現象全体を指しています。どちらが間違っているわけでもなければどちらがより真実に近いと言うこともないですが、この違いはミームに対する解釈の違いとしては面白いものだと思います。
最後に「IT用語辞典バイナリ」からの引用です。
IT用語辞典バイナリ
ミームとは、情報や文化が発生し、模倣によって伝達され、そして淘汰されてゆく、その一連の有様を遺伝子による適応進化になぞらえた概念のことである。
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0より引用
IT用語辞典バイナリでの解説はドーキンスの著書「利己的な遺伝子」でのミームの説明が非常に簡潔に述べられていると言う点で先に挙げた2つの解説とは違いますね。その点で言えばここで使われている「模倣」や「淘汰」はドーキンス氏による定義として解釈して良いと思われます。もっともドーキンス氏は模倣とは何かという定義を詳しく行ってるわけではなく「広い意味での模倣と呼びうる過程(利己的な遺伝子より)」と言うにとどまっているのですが、私たちが一般に解釈する「真似」や「学習」といったことも含まれるでしょう。IT用語辞典バイナリによるミームの解説は、ドーキンス氏の一次的定義付けにより近く私としては一番わかりやすい解説かと思います。
いかがでしょうか。各ページこの後に様々な解説がされたりしているのですが、これら3つの辞典の信頼性は抜きにしてもそれぞれにミームの定義が異なることがわかるかと思います。「だから私も勝手に解釈していいんだ」とまで身勝手は言いませんが、明確な定義がない以上は自分自身で追い求めるほかありません。
[…] ドーキンス氏がその所在を明らかにしていない以上は後追いのミーム論者たちがその所在をそれぞれに解釈せざるを得ません。先ほど述べたミームの所在についての大まかな相違はヒトの内側に置くか外側に置くかという違いです。もう少し分かりやすく言えば「ヒトの脳内にミームがある(内側)」とする主張は「ヒト同士で伝えあう情報がミームである」と言い換えられ、「文化という環境の中にミームがある(外側)」ということは「文化を構成するものがミームである」と言い換えることもできるでしょう。この解釈の違いは以前に書いた記事「第10回【web辞典における「ミーム」の定義】」でもみられます。私の解釈においては、Wikipediaでの解説を「他者へ伝達可能な脳内の情報」と解釈し、一方でデジタル大辞泉(小学館)での解説を「増殖する文化情報と言う現象」という解釈をしました。ネットで検索していの一番に出てくるような解説でさえヒトの外側と内側とでミームの所在の解釈が異なっていることがわかります。 […]