巨大な脳の進化
ヒトの脳が巨大であり、その巨大な脳は自然淘汰による進化の産物であるというのは、一般的なダーウィニズムにおいて普遍的な認識です。ミーム論者もそれら諸科学と同様にヒトの脳は進化の産物であるという立場に変わりは無く、その上でその巨大化を促進したのはミームであるとする考え方があります。何でもかんでもミームによるものだと言うのはミーム論者の悪い癖なのですが、それは今に始まった事ではないので、今回は脳の進化とミームの関係について考察してみます。単純な人類の進化において霊長類からヒトへの進化を文化形成と発展を含めて考える遺伝子と文化の共進化にミームが重要な役割を担っているとミーム論者は考えます。
脳の進化にミームがどのように関わっているかを議論する前に、なぜヒトの脳が“巨大”であるとされるのかという疑問が湧いてきます。“巨大な脳”という意味を単純に脳の質量として言えば、ゾウやクジラの方がヒトの脳よりよほど巨大なものですが、それでもヒトの脳が巨大だと言われるのはその基準に脳の重さと体重から算出される「EQ(encephalization quotient:脳化指数)」という指標を用いるからです。EQを用いると動物の脳の大きさは体重に対して四分の三乗に比例するのが一般的だそうですが、ヒトを他の霊長類のEQと比較した場合に脳が三倍大きいと評価されました。このことから、ヒトの脳は体の大きさに比べて“巨大”と言われるようになったのです。
霊長類のEQに比べて人のEQが3倍もあると言うのは人が進化論から独立した特別な存在であるということの証拠になるでしょうか。否、それは突然の出来事ではありません。アウストラロピテクスという大型の類人猿から、ホモ族であるホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥスという進化過程で徐々にEQが増加していくことがわかっています [Bonner, 1982]。これらの事実からEQを指標とした脳の巨大化も当然進化論的な過程を経ているものと考えられます。しかし、ホモ属の進化と脳の巨大化に相関関係があるとしても、脳がなぜ巨大化したのか正確なことは分かっていません。私が小学校の頃に教えてもらったのは「二足歩行になったことで手が使えるようになった原始人は、手を器用に使うことが出来るようになったので、脳をよく使うようになり、それで脳が大きくなったんだよ。」というものでした。今もし私が子供から「脳の進化」について回答を求められたらなんと答えればいいものやら悩んでしまいそうです。ミーム論がもっと一般的になり、脳とミームの関係が解き明かされればその時には「ミームによる駆動」という説明がひとつの答えとして許されるのかもしれません。
長い学習期間とネオテニー
ネオテニーとは動物が性的に成熟した状態にありながら生殖器官以外の部分に未成熟な性質が残ることを指します。ウーパールーパーのことをご存知の方は多いとは思いますが、このウーパールーパーもネオテニーの一種です。どうでもいい話ですがサンショウウオ科に属すウーパールーパーの和名はメキシコサラマンダーと言うめちゃカッコイイ名前なのですが、ウーパールーパーのようなネオテニーの個体群はアホロートルという気の抜けた総称で呼ばれます。なんだか可哀想。
話を戻しまして、実はヒトもネオテニーであると考える人たちがいます。永久歯の生え変わりの遅さをはじめ、体毛が薄毛であることや平らな顔面など他の類人猿の胎児にみられる特徴とよく似ていることから、ヒトは胎児化した類人猿、すなわちネオテニーであるとされるのです。そしてネオテニーであるヒトにおいて今回最も重要な未成熟な性質が脳の成長です。他の霊長類と比べて三倍も大きいというヒトの脳は、その成長期間が非常に長いことがわかっています。脳の成長期間を他の霊長類と比較すると、キツネザルで2年弱、テナガザルで6年、チンパンジーやゴリラで7〜8年程度で脳の成長は止まるとされていますが、ヒトの場合は14歳くらいまで成長を続けます。チンパンジーなどの2倍も長い期間成長し続けるのです。これは育て親に頼る期間の増大と、学習期間の延長を示していると生物学者のボナー氏は言いました [Bonner, 1982]。
幼少期の学習期間が長いということは、動物の子供の特徴でもある「親の行動を真似する」という行動の期間が長いということを意味します。学習期間が長くなればその分、前の世代(親)が残した生態的継承を受けやすくなるでしょうし、その蓄積の量も増えると考えられます。ヒトの進化過程にあるアウストラロピテクスやホモ・ハビリスも(ヒトには劣るとはいえ)他の類人猿に比べてEQが高いという事実と、テナガザルよりもチンパンジーやゴリラの方が脳の成長期間が長く、学習期間も長いということを照らし合わせれば、脳の成長期間とEQには相関関係があると憶測できます。こういった学習期間の延長が生態的継承と蓄積を増大するのであれば、よりうまく生きていくことが可能となり子孫を残す上で配偶者探しにも有利に働き、ランナウェイ効果的に遺伝子的継承へとフィードバックされることで脳の巨大化を推し進める要因となりうるでしょう。ヒトはネオテニーであるがゆえに長い学習期間を獲得することができたわけです。
巨大な脳と出産リスク
ヒトは他の動物と比べて難産であると言われています。二足歩行による腰回りの筋肉の発達は産道を細くし、その細い産道を巨大な脳を持つ胎児が通るため出産のリスクは大きくなってしまいます。医療の発達した現代ならともかく、原始の人々が難産であったのであれば、日々生存をかけた自然の中ではよりハイリスクだったでしょう。ではなぜ、ホモ属は脳の巨大化を切り捨てず、むしろ甘んじて受け入れてきたように見えるのでしょうか。
ヒトはその出産リスクを軽減するために子供を小さく産まねばならないため、動物としては早産であると言われます。確かに狭い産道から出産しなければならないなら、その体は小さいにこしたことはないでしょう。他のほ乳類であれば、生れ落ちた直後から歩き出そうとしたり、泳ごうとしたりすることが可能なくらいまで筋肉が成長してから出産されますが、ヒトの場合は親をはじめとする周囲の成体の存在無くしては移動することすらできません。つまり危機回避が自らの意思でできないということです。せめて猿の新生児のように、親に掴まることができれば運んでもらうことも出来るのですが、それすらも出来ない程に未熟な状態で生まれてくるヒトの子。それでも、生まれてくれさえすれば親や周りの成体が集団で保護することで生きていくことが可能となるのが近代の人間社会です。
しかし、「産道が細くなったので小さく生む必要があった」という理由では、新生児の脳の大きさを説明できてはいません。確かに体は小さいが、頭の大きさはチンパンジーの新生児に比べて2倍も大きいのです。たとえ新生児の頭蓋が泉門という隙間を用いて収縮できるものだとしても、産道を通るために体を小さく生むということとは矛盾しているような気もします。胎児の脳の巨大化は産婦個人にとってはリスクでしかありません。
さらにひとつ、付け加えておかなければならない注意点が、実はチンパンジーの新生児もまた自活できない状態で生まれてくるということです。ゴリラの新生児は母親の背中にしがみつくことができるのですが、チンパンジーの新生児はそれすらもできません。その意味で言えばチンパンジーもまた“未熟”な状態で生まれてくるのです。こうした点でもチンパンジーは類人猿の中でよりヒトに近いと言え、次回に脳の大きさと摸倣行動の比較をする上でも重要であると考えます。
胎児の脳
ヒトの新生児が“未熟である”と言いましたが、それには少し疑問を抱く点があります。それは、チンパンジーの妊娠期間が33周〜34周であることに対し、ヒトの妊娠期間は38周もあり、チンパンジーに比べておよそ1ヶ月も長いということです。親の体にしがみつけないくらいに未熟に生まれてくるヒトとチンパンジーの子どもですが、チンパンジーに比べて1ヶ月も妊娠期間が長いのにそれでもまだヒトの子どもは未熟な状態で生まれてくるのは、ヒトの胎児はチンパンジーよりも成長速度が遅いということなのでしょうか。ネオテニーとしての成長速度を思えばそうなのかもしれません。しかし脳だけは、未熟であるどころか出産リスクを高めてしまうほど成長するのです。
胎児の脳の成長過程を見てみましょう。ヒトの場合の妊娠期間中は「脳の成長に特化している」とも言える報告があります。それは、学術誌カレントバイオロジー(Current Biology)に2012年に報告された京都大学霊長類研究所による『世界で初めてチンパンジー胎児の脳成長が明らかに:ヒトの脳の巨大化はすでに胎児期からスタート』という報告で、胎児期のヒトとチンパンジーの脳容積の成長パターンについての研究結果から紹介します。チンパンジーは妊娠20周から25周をピークに脳の成長速度が落ちるのに対し、ヒトの場合には30周を過ぎる頃までその速度が低下せず、さらにその成長速度も速いといいます。その速度は、妊娠22週時点でチンパンジーが11.1㎠/週なのに対し、ヒトが14.9㎠/週。32週時点ではチンパンジーが4.1㎠/週に対し、ヒトが26.1㎠/週となっている。生まれてくる時には、チンパンジーの新生児の脳の大きさは150cc程度ですが、ヒトの場合300〜400ccもあり、やはりチンパンジーの2倍の大きさになっています。
見た目上はヒトの新生児は他の動物の新生児に比べて確かに“未熟”にみえますが、脳の発達においては群を抜いた成長をしていることがわかります。他の動物からみればヒトの脳は成長し過ぎとも言えるでしょう。体の大きさや、筋肉の成長に使うエネルギーを脳の成長にほとんど費やしていると言っても過言でない成長です。単に、「産道が細くなったので小さく生む必要があった」というだけでは、長い妊娠期間についても胎児の頭の大きさについても説明がつきません。しかし、脳の成長のために他の体の部分の成長が抑制されていると考えるとどうでしょう。小さく生むために胎児の身体を未熟にしていると言う説明よりも、脳の成長のために身体の成長が抑えられていると言う説明の方が私としては納得がいきます。
次回は「新生児模倣」や「姿勢反応」を用いヒトとチンパンジーの新生児の能力を比較し、脳の巨大化によってヒトは何を得たのか、そしてそこにミームは関係しているのかを考察します。
[…] 前回の記事「第11回【脳の進化とミーム論#1】」の続きとなります。 […]