当ブログでも幾度か取り上げたことのある「分離脳」。治療・事故などによって右脳と左脳を繋いでる脳梁と呼ばれる部分が切断されてしまうことによって左右の脳が分離されると(特に左半身に)意識的に自覚できない行動が見られる。と言うものです。
この簡易な説明からも見て取れるように、左右の脳が脳梁によって繋がれている時の脳に宿る”意識”なるものは”ひとつの意識”ないしは”ひとつの心”として統合されているのですが、脳梁の切断によって分離されてしまうと「右脳」と「左脳」に”個別の意識”が宿っているように見えるのです。
このことから世間では「右脳と左脳には個別に意識がある」と言われたりするのですが、実はこの”分離脳”の研究の真髄はそこではありません。
この分離脳について詳しく研究したのは心理学者のマイケル・S・ガザニガです。
ガザニガは分離脳の研究からは脳の中にはもっと”たくさんの意識”が存在し、それらは”個別の心”を持ち、それぞれに”独立して行動”していると考えました。少し誇張した表現にしすぎたかもしれませんが、要するに脳は私たちが普段自覚しているような”単一の意識”がコントロールしているのではなく、複数のモジュール化した機能が並行して作用していると言うことが述べられます。
ガザニガの言うその「脳のモジュール」とは何なのか、分離脳患者の研究から解釈される私たちの”心”とは何者なのでしょうか。ガザニガの著書《社会的脳―心のネットワークの発見》や《〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義》などから紹介します。
目次
・「視交叉」による左右視神経の経路
・脳梁の位置と役割
・脳梁離断手術
・脳梁離断症候群
・右脳の得意分野
・右脳の行動を勝手に解釈し説明する左脳
・右脳の心がわからない左脳
・脳機能の局在性:重複記憶錯誤と順行性健忘
・脳のモジュール:無意識と罪の所在
「視交叉」による左右視神経の経路
さて、分離脳の研究に入る前に脳と身体の関係について確認しておきます。一般的に左半身は右脳が動かし、右半身は左脳が動かしています。「んなこと知ってるわい!」と言う方は読み飛ばしていただいて大丈夫です。
脳が体を動かすための神経が右脳と左脳からそれぞれ出てくるのですが、神経が延髄を通る際にその多くが左右入れ替わることで起こります(一部はそのまま同じ側を下ります)。この部分を「錐体交叉」と呼び、左右の脳がそれぞれ左右逆側の体を支配している仕組みとなります。
なぜそうなっているのかと言うと「そうなっているから」としか言いようがありません。この疑問については生物の発生学的な研究分野となりますので今回はあまり深入りしないことにします。
こうした交叉が起こることから、左利きの人は右脳が発達しやすいだとか空間認識を司る右脳の働きが良いだとか言われるのですがガザニガの分離脳研究の観点から見ると”俗説”の域を出ません。(そういった研究はたくさんあるので、それ自体を否定するわけではありません。)が、ともあれ左右の脳が体を動かす時の指示系統は左右が入れ替わるのです。
これは目を通して見る”視覚”にも同じようなことが言えるのですが、「錐体交叉」とは別の神経経路になっておりもう少し複雑です。
俗的には「右目の視覚は左脳に・左目の視覚は右脳に行く」なんて言われるのですが実はこれが間違っていて、正しくは「右視野は左脳の視覚野に・左視野は右脳の視覚野に行く」ようになっています。言葉で言ってもわかりにくいので下図を見てみてください。
この図は頭の上から脳を見た時の「視覚経路」の簡略図です。このように片方それぞれの眼球の中で”視野が左右に分かれて”おり、何かに注目して一点を見つめた時(図の注視点)、右目の右視野は左脳へ・左視野は右脳へ、左目もまた右視野は左脳へ・左視野は右脳へと視神経を通って視覚の信号が送られます。
余談ですが、網膜と視神経のつながり方は図にしたよりももっと複雑で「何でそんなことになってんの?」と言うくらい面白い物なのですが、今回は今回は簡略図という事でわかりやすくしてあります。
片方の眼球から出てくる視神経が左右それぞれに分かれて右脳・左脳へと分岐する部分を「視交叉」と呼びます。「視交叉」の位置は脳の中腹のやや前方部分にある「視床」にあり、「錐体交叉」とは別の部分で起こっています。
そして、今回紹介する分離脳の研究においてはこの「視交叉」は基本的には切断されません。動物との対照実験の時には動物が一点を注視しずらかったり人の指示を的確に行えないことが多いことから、ヒト以外の動物の場合にはこの「視交叉」も切断する場合がありますが、治療を目的とした人への脳梁切断の場合には視交叉部分は基本的に残されます。
脳梁の位置と役割
分離脳の研究において切断されるのは「脳梁」と呼ばれる部分です。脳梁は右脳と左脳を繋ぐ太い神経の束で、この神経を「交連繊維」と呼び、左右の脳(特に新皮質)の情報交換を行なっている部分です。
脳梁の前方には「前交連」と呼ばれる部分があり、 基本的には脳梁とは分けて呼ばれることが多いです。と言うのも、「前交連」は脳を持つ多くの動物が持つのですが、その後部の「脳梁」は哺乳類の脳にしかなく、しかも大脳が発達した比較的知能の高いとされる動物にしかありません。(また「後交連」と呼ばれる部分も同じく交連繊維で左右の脳を繋いでいます。)と、あまり脳の部位について言っていても話が進みませんので、とりあえずは「脳梁」についてみていきましょう。
具体的に「脳梁」が何をしているのかというと先述の通り左右の脳の情報交換を行うわけですが、前項の「視覚」の情報もこの脳梁を通じて情報がやりとりされます。(視交叉は網膜からの視覚の入力情報が左右の脳へ入れ替わるだけであり、情報そのものが脳内でやりとりされているわけではありません。)
「視交叉」によって右視野と左視野は左脳と右脳の後部にある視覚野へと運ばれるわけですが、そこで処理された情報は脳梁を通じて左右の脳へそれぞれ共有されることになります。
このような脳梁の情報交換と共有能力によって私たちは違和感なく「ひとつの視野」として物事を見ているわけです。
とはいえ、左右の連絡の多い部分と少ない部分があり、左右の手足の知覚領域などは脳梁は全くやり取りしていなかったりもします。すなわち痛覚や触覚などの感覚については脳梁による情報伝達はあまり関係がないとも言えます。これも詳しく調べるとキリがありませんので、こと「左右の視野」においては「脳梁」を通じてとても密接に連絡されていると言うことだけ確認できればOKでしょう。
脳梁離断手術
さてはて、脳の仕組みについてざっくりと理解した上でいよいよ脳梁の切断、分離脳についての本題に入りましょう。
脳梁離断は何も興味本位で行われているわけではありません。この脳梁離断が作為的に行われるのは「てんかん」の治療です。あくまでも治療の一環で行われる外科的手術なのです。
「てんかん」は脳腫瘍や事故などによる頭部の怪我の後遺症などでも起こるのですが、原因不明で起こる場合もあります。この時、脳の状態は突如一時的に異常な電気活動(脳が活動する)を起こし、それが起こる部分によってさまざまな症状が発作として起こります。
一般的な認識としては急な意識消失や痙攣が挙げられます。運転中に発作が起こり急にガクッと意識を失ってしまうことで運転ができなくなり事故へつながる。そう言ったこともニュースなどで稀に見聞きしますね。自動車免許を取る際も急な意識消失の経験が無いかを聞かれたりします。
こうしたてんかんの治療には基本的には投薬によって発作を抑えたりコントロールしたりしますが、投薬では改善が見られない場合に外科的な手術、つまり「脳梁の切断」を行うことがあります。
この「脳梁」の切断・離断によって脳の部分的な(片側の脳の)電気信号の発火を脳全体に広げないようにすることができるため発作が起こりにくくなります。
脳梁の離断手術が行われた初めた頃には「前交連」も一緒に切断されたことがあったようですが、現在の手術では「前交連」は残され、脳梁の全体でも前半部分だけが離断されます。これはあまりに大部分が切断されると(切断箇所によって)認知機能に低下がみられるためです。
認知機能に係る後遺症を最低限に抑えるために離断箇所が選ばれるとは言え、左右の脳の情報の行き来が部分的にはできなくなることは事実です。このことによってやはり後遺症が出てしまいます。
脳梁離断症候群
脳梁が切断された脳は右脳と左脳の連絡が密に取れなくなってしまい、部分によっては全く情報がやり取りされなくなります。そのためさまざまな症状が出てきることになります。
具体的には「左手だと文字が書けなくなる」「左視野に提示された文章を理解できなくなる」「左右の手の動きが一致しなくなる」「左手が解いたパズルを右手が崩してしまう」などさまざまです。
これらに共通するのは「右脳」と「左脳」が個別に動いている”ように見える”ということです。実際これは左右の脳が個別に動いているためで、これは同時に左右それぞれに認知能力や行動能力があるとも見ることができます。
「左視野に提示された文章を理解できなくなる」のは文字や言語などの処理を行うための”言語野”と呼ばれる脳の領域が左脳にある(より正確には言語については左脳が優位性を持つ)ためです。
普段私たちは基本的に文字による視覚情報や音声による聴覚情報を含む言語にまつわる情報を左脳で処理しています。そのため、右視野に見た文字情報は左脳の言語野で処理することができるのですが、左視野に提示された文字情報は右脳では処理できず理解することができないのです。
右脳は聴覚での音声言語にも対応することができず言語機能が失われてしまいます。そのため基本的に右脳側へ外部からの言語的な命令が提示されても反応することができません。
この症状は左右の視野への実験でも見ることができます。
先述の視神経の経路図を思い出してみてください。被験者の前に映像や写真を写すスクリーンを置き、注視点に対して右視野にリンゴを写したとしましょう。この時、被験者は「りんごが見えます」と答えることができます。しかし対して左視野にリンゴを写した場合には「何も見えていない」と答えます。
脳梁離断手術の前にはさまざまな検査があらかじめなされており、脳の視覚野などさまざまな機能には異常はないことが確認されるのですが脳梁を切断された途端に”何も見えなくなる”のです。
脳梁を切断したことによって”視覚野までもが破壊された”のでしょうか?いえ、そうではありません。ただ、左視野を”見ている”右脳は言語機能を持たないため”答えることができない”だけなのです。
このことが実験的にわかるようになったのは脳梁離断手術を受けた患者の知覚研究が進むうちに、右脳にも言語野を持つ患者が現れたことで確かめられました。
左視野に提示された物事に対し基本的には言語的に返答することができないということはこれまでに述べてきました。そんな中、ある患者に提示された単語に対する物を手に取るように指示したところ、言語を理解しない左視野に例えば「リンゴ」と表示すると左手でリンゴを手に取ることができました。
この時「なぜリンゴを手に取ったのか」と聞くと分離脳患者は「なんとなく」「よくわかんない」というような曖昧な返答しかできません。これは右脳で見た情報が発話言語を司る左脳に共有されておらず”なぜ”の部分を言語的に認識することができなかったためです。
右脳の得意分野
一般によく言われるようにやはり右脳は空間認識能力に長けていることが、これもまた分離脳の研究によっても明らかになっています。
一般的に右脳は言語野を持たないため分離脳患者の右脳に提示された視覚情報はどのようなことであっても患者から報告されることはありません。しかし、聴覚的な指示に関しては左脳の言語野による発話によって右脳へもフィードバックがあるため、左手を司る右脳にも拙いながら理解されるようです。
この点も脳のモジュール説が関わるところですが、左脳の言語野で言語的指示を理解し視覚的にフィードバックされる自身の身体的な動き、そして発話による聴覚情報から右脳が司る左手でも命令に答えることができるものと考えられます。
そのため「左手でパズルを解いてください」などといった言語的な指示に対してちゃんと左手で解くことができます。
しかし、左手でパズルを完成させると右手が勝手に崩してしまったりします。また、左手では容易に完成させることができたにも関わらず「右手でパズルを解いてください」という指示に対しては非常に困難なものとなってしまったのです。
他の例では、立方体を分離脳の被験者に見せ左手で描いてもらった場合と右手で描いてもらった場合では、左手では(利き手ではないため)拙いながらも立方体を描くことができるのですが、右手ではペシャッとひしゃげた展開図のようなものしか描くことができませんでした。また、顔の識別についても左脳は拙劣であったのに対し右脳では容易く行うことができました。
このように右脳に言語的に優位な能力が備わっているように、左脳にも右脳に比べて特化した能力が備わっていることがわかります。これは分離脳患者だけではなく事故や疾患などで右脳や左脳のどちらかに損傷を負った患者にも見られるものです。
が、だからと言って右脳が絵を描けない訳ではありません。分離脳の患者のうちに元々絵を描くことが趣味で右利きの患者がいました。この患者は脳梁離断手術後もなんら変わりなく右手で絵を描くことができました。術後間もない時点でもその能力には遜色なかったと言いますから脳の構造上で言えば左脳が絵を描いていたということになります。
このような両脳の個別に特化した機能が逆側面の脳にも備わっているという事例は左脳の話す能力についても右脳の描く能力についても優位性があるというだけでそこにしかない訳ではなさそうなのです。
右脳の行動を勝手に解釈し説明する左脳
私たちは普段、自分の気持ちを言葉で表現します。単純な快不快にしても複雑な感動や感傷などもある程度言葉で表現し、その心理的なニュアンスを言葉で伝えようとするなり頭の中で”言葉”を用いて考えたりします。
そう、”考える”なり”感じる”には言葉が不可欠なように思えるのです。いやいやそれはちょっと言い過ぎよ、言葉で言い表せない感情だってあるもの。と、言われるのはごもっとも。実際そうであると思います。
では「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と言われたらどうでしょう。時には無自覚に涙が流れてから「あっ、私って今感動してるんだ」と気がつくこともあろうかと思いますが、これも言葉の表現に直せば”悲しいから泣いている”と言えるでしょう。
しかし、実のところ脳科学的に重ねられた研究から言えば「泣くから悲しい」と言う方が正しいとされています。このような先立った”身体的反応”の自己評価として”情動(感情)が経験される”と言う心理システム。これを主張した心理学者W・ジェームズとC・ランゲの名を冠して「ジェームズ-ランゲ説」もしくは「情動の抹消説」と言います。
この「ジェームズ-ランゲ説」は直感的に捉えづらい物ですが、考え方としてぶっ飛んだ仮説という訳ではなく、比較的広く認められているものです。普段の私たちの感覚から言えば逆の理屈になっていますが、緊張をほぐすために作り笑顔をすると良いと言ったアドバイスなどはある意味では理に適っているのでしょうね。
”情動(感情)”もさることながら”感覚”も経験に先立って身体的反応が現れます。これについて詳しくはベンジャミン・リベットの「マインドタイム」についての記事を見ていただくこととして分離脳の話に戻しましょう。
分離脳患者の場合、自分の行動すらも不可解な場合が多くあります。脳梁離断症候群の症例として「左右の手の動きが一致しなくなる」ことが挙げられます。具体的には「右手が止めたボタンを左手が外していく」「ステーキを食べようとすると左手のフォークが邪魔をする」なんてことも実際に報告されています。(出典:脳の意識 機械の意識 – 脳神経科学の挑戦)
こうした行動を分離脳の患者はどう感じているddのでしょうか。それはやはり言語野を持たない右脳の行動を言語的に答えることができないため「なぜだかわからない」としか報告されません。
では、左手(右脳)の行動を言葉(左脳)で無理矢理にでも答えらせてみたらどうなるのでしょうか。ガザニガは以下の図ような実験を行いました。
右脳側に発話能力を持っていない分離脳の被験者にスクリーンに映ったものと関連するカードを選んでもらうように指示します。
上図の例で言えば、左視野(右脳)には「雪の積もった風景」を見せ、右視野(左脳)には「鳥の足」を見せます。それぞれに対応するカードは「シャベル」と「ニワトリ」です。
この時、分離脳の被験者は左手で「シャベル」を指し、右手で「ニワトリ」を指し示しました。交叉する視覚野と分離した脳の構造を考えれば不思議はないですね。しかしここでガザニガは被験者に対して「なぜそのカードを選んだのか」と問います。
すると被験者は「それは簡単なことだ。鳥の足はニワトリに関連があるし、鶏小屋を掃除するにはシャベルが必要だからだ。」と答えました。ちょっと待ってくださいな。「シャベル」は「雪の積もっている風景」に対する”右脳の答え”であったはずなのに、言語を司る左脳が右脳の答えを奪ってしまいました。
別の患者(右脳に発話能力はないが書かれた文字を理解できる)分離脳患者に対して「歩いてください。」と文字を表示すると、被験者はスッと椅子から立ち上がり実験室を出ようとしました。「どこに行くんですか?」と尋ねると被験者は「家に行ってコーラを取ってきます。」と答えます。これもまた右脳に指示された言語命令を左脳が勝手な理屈を立てて奪ってしまっているように見えます。
こうした実験が繰り返されるうちに、どうやら左脳の認知機能は理屈を組み立てようとする”癖”のようなものがあることがわかってきたのです。
「シャベル」を選んだ理由を「鶏小屋を掃除するため」と答えた被験者も、急に立ち上がり部屋を出ようとして「コーラを取ってくる」と答えた被験者も、その”行動の原因”は言語的な説明とは全く辻褄が合いません。しかし、被験者は特に不思議がることなく”そう思っているからそうした”という答えが返ってくるのです。
こうした実験から言語的な説明、すなわち”その行動を起こそうとした理由”は行動の後から左脳の言語野によって理屈が作り出され、その理屈は本人にとってはあたかも行動に先んじて起こっていると認識されているようなのです。
おや、これはまさに「ジェームズ-ランゲ説」ではありませんか。「悲しいから泣く」というのはあくまで左脳による言語的な理屈であって、左脳の言語野が泣いているのではありません。脳活動全体がその出力の結果として泣くという身体反応を起こし、それを言語野が「悲しいのだ」と解釈しているに過ぎないようなのです。
右脳の心がわからない左脳
右脳が起こす行動をあたかも自分の意志であるかのように説明しようとする左脳。なんて自分本位なヤツでしょう。右脳の話もちょっとは聞いてやってほしいものです。と、言うことでガザニガはまた別の実験を行います。
分離脳の被験者であるV・Pさんの右脳(すなわち左視野)に1〜2分の少し恐怖を感じさせるような映像を見せます。この時もちろん”何を見たか”を説明することはできませんし、映像について具体的に何も答えることはできません。
しかし、どうやらこの被験者は何かに怯えているようなのです…以下はガザニガと被験者V・Pさんのやり取り部分を抜粋したものです。
ガザニガ:どんなものを見ましたか。
V・P:何を見たのか実際のところ私にはよくわからないのです。白く光っただけのように思うのですが。
ガザニガ:そこに誰か人はいましたか。
V・P:いなかったと思います。たぶん木が何本か、秋の木のようにまっ赤なのがあったような気がします。
ガザニガ:それを見て何か感情が起こりましたか。
V・P:どうしてなのかよくわからないのですが、私は恐いのです。何かとびあがりたいような気持ちです。多分この部屋が好きではないからなのでしょう。あるいは先生のせいかもしれません。先生のせいでなんだか神経質になっているようです。
社会的脳
さらに付け加えて、ガザニガの助手に向かって「先生のことは好きなことはわかっているのに、なぜか今は先生が恐い」と話します。この実験自体が被験者に対して恐怖心を植え付けたのかとも考えられますが、対照実験として穏やかな海の映像などを見せたときには「申し分なく穏やか」でそれが”どうしてか”まで話しました(映像の内容については話せず)。
ここでもやはり左脳の言語野は右脳の感じた恐怖心を「この部屋が恐い」や「先生のせい」と言ったように別の理由をでっち上げています。
「恐い」と言う感覚は自分の心拍や発汗によって左脳も”感じる”ことができている訳ですが”なぜ恐いか”と言う原因となる情報は右脳しか持っていないため、左脳の得意技である”理屈”を組み立てようとしている訳です。
脳機能の局在性:重複記憶錯誤と順行性健忘
左脳の言語野による”身勝手な振る舞い”を見ていると、私たちの”言語的な意識”というものが”脳全体の総意”ではないことが見えてきたのではないでしょうか。
左手(右脳)がシャツのボタンを勝手に外したり、ナイフ(左手:右脳)でフォーク(右手:左脳)の邪魔をするといった場合には「なぜだかわからない」と患者は言うものの、ガザニガによって行われた実験観察では左脳(言語)は右脳の振る舞いを”勝手に解釈”して”脳の総意(自分自身の意思)であるかのよう”に供述しました。
脳梁離断手術を受けた患者は右脳と左脳の意思疎通ができていないわけですから右脳の起こした行動に対して左脳が「何をやっているのかわからない」と答えるのには納得がいきます。
しかし、急に歩き出したこと(右脳の意志)を指摘されて「コーラを取りに行く」と答えた場合にはその行動の原因(右脳への命令)に全く関係のない理屈を述べて”自分の意志”つまり”脳の総意”であるかのように振る舞います。
こうしたことからも「脳のモジュール説」の片鱗が見て取れますね。分離脳患者では右脳と左脳が情報交換をできないはずですから(実際にできていない)、自分自身の不可解な行動に対して理解することはできないはずなのに、左脳にある言語野は右脳の振る舞いを勝手に解釈してどうにか理屈を立てようとします。
言語野が脳全体の活動からある程度は独立して機能していると言う論証と言えますし、言語的な振る舞いだけが当人の”意識である”とも言い難いものであることがわかってきます。
「言語野」と呼ばれる脳の領域の中だけでも、「言語を話すための領域(ブローカ中枢)」・「言葉を理解するための領域(ウェルニッケ中枢)」というように細かく領域に分かれておりそれぞれの部分に損傷を受けるとそれに伴った認知的な障害が出てくることになることから、「言語野」もまたさらに細かい領域(モジュール)のある構造であることがわかります。
そしてこれまで見てきたような「言語野」や「視覚野」の脳機能だけでなく、ヒトが何かを認識・知覚するときに脳のどの部分がモジュールとして働くのかと言うことが事故や疾患などの後遺症で脳に局所的な損傷を受けた患者の認知機能を調べていく研究からわかっていきます。
例えばガザニガの元に紹介されたスミスさんと言う患者は、右脳の頭頂葉に損傷を負っていて「重複記憶錯誤」と言う後遺症が生じていました。この症状はひとつの場所が複数の場所に存在していると感じたり自分自身が別の場所にいると認識してしまうものです。この患者は普段の日常会話は何の問題もなく行うことができとても機知に富む知的な人であったそうですが、「スミスさん、あなたはどこにいますか?」と尋ねると支離滅裂な返答になってしまいます。
スミスさんは手術のためにニューヨークの病院に入院していたのですが、「あなたは今どこにいるのか」と尋ねられると「私は今メイン州のフリーポート(スミスさんの自宅)にいます」と主張するのです。そしてさらに目の前に居るガザニガに対して「あなたはどこにいるんですか?」と尋ね返しました。
「今あなたがいるのはニューヨークの病院ですよ」と教えると「それはいいんですが、私はフリーポートの自宅にいるんです。信じてください!」と。そしてガザニガは病院内のエレベーターを指差し「(自宅に)エレベーターがありますけど?」というと「あれを設置するのにいくらかかったとおもいます?」と答えました。
スミスさんは今自分がどこにいるのかを認識するためのモジュール領域に損傷を受けてしまったため、このような他者から見れば支離滅裂に思える会話を冷静に疑いなく続けます。言語的な返答ではやはり左脳の言語野領域がまた独立して勝手に理屈を立てているようにも見えますね。
さらに別の患者の例も見てみましょう。
次の紹介する患者の例はいわゆる記憶障害を患ってしまった症例で、この患者は脳に損傷を受けた後のことを記憶することができなくなってしまいました。こうした記憶障害を「順行性健忘」と言います。例えば今日誰に会っただとか朝食が何であったかなどを記憶しておくことができなくなっていたのです。逆に損傷前のことが思い出せなくなる症状を「逆行性健忘」と言います。
新しい記憶を覚えておくことができない順行性健忘の患者に「ハノイの塔」と言うパズルゲームを教えたところ、診察のたびに「へぇ、こんなパズル初めてみたよ」と言い、彼は「ハノイの塔」を言うパズルの存在もそのルールも全く記憶できません。
それにも関わらずそのパズルを解く時間(パズルを解く能力)は徐々に向上していきました。今度はチェスの遊び方を教えていると「ルールを教わったことがある」と言う事実は全く記憶していないのにその”チェスの腕前”だけは向上していくことがわかりました。
「いつ」「誰に」「何を」「どうした」といったことは全く覚えていることができないのに、そのルールや遊び方だけが記憶されていると言う症状が見てとれるのです。こうした記憶の前者を「宣言記憶」後者を「手続記憶」と言ったりするのですが、それはともあれ”記憶”と言う脳機能もまたその種類によって局在性を持ちモジュール化されていることがわかります。
脳のモジュール:無意識と罪の所在
ガザニガはここまで上げてきた実験の他にも分離脳の患者の右脳と左脳にそれぞれ文章を提示してそれについて説明させたり、右脳だけに見せたものを左手で絵に描かせたりと多くの実験をこなっていきます。
並行して事故や疾患などで脳に部分的に損傷を負った患者の認知機能を調査し、脳のどの部分がどのような機能を有し行動や認知にどのように影響しているのかなどここでは紹介しきれないほどの研究をおこなっています。
そうした研究の中でガザニガは脳の機能はそれぞれにある程度独立(モジュール化)しておりそれらが並行して作用する「脳のモジュール説」を打ち立てました。
これらのモジュールは単に機械的に機能を果たすと言うわけではなく、非言語的な心理モジュールとして捉えられており、それぞれの非言語な心理モジュールはそれぞれに行動を引き起こすことができると考えました。
しかしながら誰しも体はひとつだけしかありませんし、言葉を話す口もひとつしかありません。結果として行為行動として出力されるのはやはりひとつだけなのです。
物理的にひとつの身体しか持たない自分自身を視覚的に(身体的に)脳へフィードバックされ言語モジュール(言語野)を用いて理屈立てて”解釈”する。そしてまた言語モジュールも脳機能全体の一部でありながら言語を司るモジュールとしてある程度独立した行為行動を引き起こすことができるものでもあります。
別の言葉を使うなら脳の各モジュールは亜全体性を持ったホロン構造を持っているとも言えるかもしれません。(ホロン構造についてはまた別の機会にあらためて記事にしようと思います。)
こうした非言語的なモジュールをガザニガは「フロイトで言えば無意識的過程」と言いますが、ガザニガはそれに付け加えて「意識的なしかし非言語的なモジュール」と言い換えることができるとしています。
言語的に説明不可な非言語モジュールによる行為はそれでもやはり”意識がないとは言えない”とガザニガは言うのです。つまり”無意識ではない”と。その”意識的でありながら非言語的なモジュール”は普段私たちが”意識”として認識しているような言語的に知覚説明できないものであると。
これは口頭で答えることはできないが行動で答えることのできる分離脳の右脳の機能にも見られますね。「アップル」と言う文字を見てリンゴを手に取ることのできた右脳は意識がないのではなくそれが言語化できないだけであると言えるでしょう。
無意識なるものを認めると、人の行いの内にある”罪”を無意識のせいにもできてしまうわけですがガザニガはそれを許しませんし、現実の法も特別の疾患がない限りは基本的にそれを認めません。止むを得ない正当防衛は認められますが、情動的な犯罪行為についてはやはり突発的であってもその個人の責任にあります。
この辺りの議論はガザニガの別の著書「<わたし>はどこにあるのか」で深く話されている部分でもありますのでそちらを読んでみるのも良いかもしれません。
いかがでしたでしょうか。分離脳については脳科学や心理学をちょびっと齧っただけでもよく出てくる話題ですが、そこで紹介されているのはほとんどの場合は上澄のようなもの。それが間違っていると言うわけでもなく、それが悪いと言うわけでもないのですが、どうもその上澄部分だけが広く一般に認知され過ぎているような気がします。
私も他の記事でこの分離脳について話題にする際は”上澄み”だけしか話さないので人のことは何も言えませんが、深掘りするとこのように長ーい記事になってしまうのです。
要約すると分離脳の研究からわかるのは、何も右脳と左脳に分かれた”二つの心”だけではなく、脳にはもっとたくさんの”心”があり”意識”があり”行為”があると言うこと。私たちが何かについて言葉で理由を述べたり言い訳をしたりするとき、それはあくまでも左脳に宿った言語機能に付随する理論性を持った脳機能のモジュールと言う極めて部分的なものからの出力でしかありません。
「自分のことは自分がよく知っている」とは軽々しく言えなくなってしまいそうですね。
参考・参照
・マイケル・S・ガザニガ著《社会的脳―心のネットワークの発見》
・マイケル・S・ガザニガ著《〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義》
・下條信輔著《サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ》
・渡辺正峰著《脳の意識 機械の意識 – 脳神経科学の挑戦》
・ベンジャミン・リベット著《マインド・タイム: 脳と意識の時間》
など