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脳が機械化されたとき「思い出」は誰のものになり「私」は誰になるのか。

 「脳の機械化」と言うととてもSF(サイエンスフィクション)チックですが、その研究は現在進行形で進められています。

 脳の全てが機械化することが一般的なものになるにはまだまだ時間はかかるでしょうけど、部分的に脳を機械化するというレベルであれば比較的近未来の出来事となるかもしれません。

 脳が機械化されることにより極端な例では一種の不老不死を獲得できるという人もいますし、現実的近未来的なところでは認知症などの治療にも使えるのではと言われていたりします。

 今回はそんな機械の脳人が獲得したとき、私たちの”感じている”「思い出」や「記憶」は”私たち自身”のものなのか、はたまたそれすらも”機械が作り出したものにすぎない”のかを少し考えてみたいと思います。

 久しぶりの雑談記事ですな。私は普段から常に考え事で頭がいっぱいで、ちょっとその一端を整理したいなと思い、ついでなので記事にしてしまおうと言う感じ。ですので、あまり深読みせずさら〜っと読んでいただければ幸いです。

目次
・機械の中の幽霊培養された脳オルガノイド脳の機械的な外部記憶装置外部記憶装置としてのスマートフォン記憶は誰のものになるのか
囁くゴーストは「自己」か「自我」か

機械の中の幽霊

脳の機械化」という言葉を聞くと、私はどうしても「攻殻機動隊」が頭に浮かんでしまいます(笑)

攻殻機動隊」は超近未来を描いたSF漫画で、アニメ映画にもなりました。いわゆるサイバーパンクの世界であらゆるものが高度に機械化され、人体もまた超科学的な機械によって高度な義手や義足、果ては義体と言った形で機械化されています。

 その中でも「電脳」と呼ばれる「機械化された脳」が出てきますが(作中の詳しい概念は原作を読んでください)、漫画の世界観の中でも自分自身の自我の宿る場所として描かれている節があります。

 そして作中の有名なセリフに「そうしろとささやくのよ 私のゴーストが」というものがありますが、端的には心の内にあるであろう「自我」や「自己」のようなものが作中で「ゴースト」と呼ばれます。

 さて、この「ゴースト」という概念ですが元ネタはアーサー・ケストラーの著書「機械の中の幽霊」であろうと言われ、この著書の原題が「The Ghost in the Machine」と言います。

 この著書では全体に渡って「ホロン(全体子)」という概念が解かれ、混沌系(カオス)秩序系(コスモス)について語られるなかなかに難解な本なのでこの記事での詳しい言及は割愛しますが

 ”ゴースト”の概念にだけ触れると、つまるところ脳のような複雑な機能を持った器官の中に「」であるとか「意識」であるとか、あるいは「」と言われるような”現象”が生じていることが述べられる章があります。

 アーサー・ケストラーによる「ホロン」の概念を用いれば、そのゴーストなるものは「脳」に生じる物ではあるものの、ホロン的な概念として身体機能全体の中の一部であり、同時にまた身体からは独立した”意識”としても機能する物です。

 攻殻機動隊で語られる「電脳」についてもう少し詳しく掘り下げると、生の脳マイクロマシン(超小さな機械)を注入し、脳神経の細胞とそのマイクロマシン結合させることでマイクロマシンを経由して外部接続を可能にすると言った超科学的な架空の技術です。

 同時に、作中で全て機械化された”脳”はAI(人工知能)扱いであり、”ゴースト”を宿す「電脳」とは区別されています。

 つまるところ攻殻機動隊の世界観の中では「機械の中」に「幽霊」は”基本的には宿らない”という世界観なのですが、中には”ゴースト”を感じさせるものが出てきて……とまぁ、攻殻機動隊のストーリーについてはこの辺りにしときましょうか。

 漫画のあらすじや難解な本の話をつらつらしていても仕方がないので先に進みましょ。


培養された脳オルガノイド

 「機械の脳」を作る研究があるのと同様に「有機的な人工の脳」を作る研究も行われています。

 数年前に話題になりましたiPS細胞(人工多能性幹細胞)を用いて「」の細胞を培養人工の脳を作ろうというものです。

 これには倫理的な壁が立ちはだかるため問題は山積みですが、米カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究チーム人工的に脳細胞を培養しそこから脳波を検出することに成功しています。

10ヶ月が経過した脳オルガノイド Muotri Lab/UCTV(Newsweek日本語版より引用)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/09/post-12908.php

 写真は実際に培養された脳細胞です。この培養された脳細胞は10ヶ月ほどかけて成長した後、そこで成長が止まってしまったようです。

 このまま成長が続けばどうなるのだろう好奇心恐怖が混在する感情を抱くのですが、問題は”なぜ10ヶ月ほどで成長が止まってしまうか”がわかっていないこと。

 研究者によれば血管新生(栄養を送るための血管)がなく感覚系の入力刺激(目や耳、手足など)もないため脳が成長できないなどの仮説があり、これはアーサー・ケストラーの「ホロン」的な概念とも通づるところを感じます。

 この程度(と言っていいのか…)の大きさの培養された脳ですら様々な議論を呼び、「この小さな脳にも意識が宿っているのでは?」と言った倫理的な問題が多くあげられましたが、これまた研究者によれば検出された脳波を見る限りでは”意識”のようなものは生じていないとのこと。

 とはいえ、どの程度大きくなれば”意識”なるものが生じるのかはまだまだわかっておらず、その発生に脳のどういった機能が必要であり必要でないのかもわかっていません。

 人間のように高度な意識を持つためには大脳新皮質が必要と言われることもありますが、だからと言って小さな動物のような生物には”ゴースト”が宿っていないのかという部分についても意見の分かれるところであります。

 いずれにせよ、他者の意識というのは科学的な定義が出来ておらず、故に客観的な観測は難しいものです。いわば他人は「哲学的ゾンビ」に近しく、同時にそれに”意識を感じられる”という感性もまた主観的な意識の中に閉じ込められた謎多き”ゴースト”のなせる技です。


脳の機械的な外部記憶装置

 人工的な脳の概念について「機械の脳」と「脳オルガノイド」について触れましたが、私たちが一番最初に触れることになるであろう技術は、攻殻機動隊の「電脳」の概念に程近いものではないかと私は考えています。

 脳に直接マイクロマシンを注入するというのはまだまだ現実的ではありませんが、実際に進んでいる研究としては脳の記憶の仕組みを解明することで「外部記憶装置」を作る研究が行われています。

 脳に直接インプラントを埋め込み、脳が行う”記憶”を機械的に”記録”することで脳の記憶機能を補おうとする研究で、アルツハイマーなどの記憶障害の治療に役立つことが期待されています。

 似たような研究としては、脳の記憶コンピューターに写しコンピューターの中で”意識”を生かし続けるといった研究も行われています。

 これも夢のある話で、脳の持つデータクラウド上にアップロードして死後はVR空間の中で”生きる”ことになり、人類史上初となる「死後の世界」を観測可能な状態になるかもしれません(笑)

 とはいえどれもこれも技術的に研究の初期段階ともいえる状態で、そもそも脳の機能について完全に解明できていないため、脳の完全解明と同時並行して行われています。と言うか、脳機能の完全解明のために機械的に再現可能な範囲から模索していると言って差し支えないでしょう。

 こうした脳機能の一部を機械に置き換えるというやり方を少しづつ行っていけば最終的には脳全体を解明し、機械的に再構築することも論理的には可能と考えられます。(繰り返しますが技術的にはまだまだ先の話です。)


外部記憶装置としてのスマートフォン

 機械を直接つなげている訳ではありませんが、私たちが一般に手にしているスマホタブレット端末などは、私たちの記憶を部分的に補ってくれていると言って過言でありません。

 携帯電話がまだ普及していなかった時代には、自宅の電話番号親戚近しい友人宅電話番号10件くらい”暗記していた”と言う方も多いのではないでしょうか。

 しかし、携帯電話の普及後には数十件〜数百件と言った膨大な数電話番号記憶携帯端末が担ってくれています。

 しかもインターネットに接続していれば端末に電話番号を記録させておく必要すら無くなっています。具体的にはお店の電話番号などはわざわざ端末に登録せずネット検索から引っ張り出してきますよね。

 私たちは知らず知らずの間に”記憶”していたものを”記録”に置換し、現在ではインターネット上の膨大な情報から必要なものだけを抽出する術を手に入れています。

 インターネット上に存在する情報であれば、自分自身が正確に覚えておく必要はあまりありません

 ネットに接続できる携帯端末の無かった時代には「徳川家の将軍を全員順番に覚えている人」と「そうでない人」の間にはとてつもなく大きな隔たりがありましたが、現在ではネットで調べればすぐに出てくるのでそれが本当に正しい情報であるのかの確認もできてしまいます。(ネットの情報がが全て正しいと言うのではありません。)

 つまり、私たちはすでに脳の外部記憶装置を使いこなしていると言えるのではないでしょうか。

 それが手の中にあるか脳の中にあるかの違いだけであって、実は”電脳化”に対する心の準備は整っているのではなかろうか。と、考えると脳に電極を差し込んで触接インターネットに接続することへの抵抗感は無くなっていく……ことはまだしばらくなさそうですね(笑)

 少なくともスマホは””や””と言った身体の感覚器官から間接的に刺激を受けて脳へと情報が到達しますから、機械の間にはまだ何か質的な壁があり、私たちはその壁があるからこそ違和感なく(そしてある種の恐怖感すらなく)スマホを道具として扱えている節はあります。

 もし直接的にスマホのような機能を埋め込むことができたなら……世界はどのように見えるようになるのでしょうか。


記憶は誰のものになるのか

 スマホのように物理的ないしは質的な壁があることで”記憶”と”記録”は分断された状態で私たちの身の回りにあります。

 ここで言う”記憶”は外部的な要因なしに思い起こすことのできる情報のことを指しましょう、そして”記録”はその媒体を問わず自分自身の身体を離れたところにある過去の情報としておきます。

 小学校の頃に50メートルを何秒で走れたかを”記憶”している人は多少いるとは思いますが、では小1〜小6までにどれだけ早くなっていったかと言う”記録”を”記憶”している人はそうそういないでしょう。

 もし、そのような”記録”を脳に埋め込んだチップに収めることができたなら、私たちはそれを”記憶”と呼ぶのでしょうか。

 脳に埋め込んだチップに収められた「記録」を”どのように”引き出すのかは全くわかりませんが、いちいち頭の中で「脳チップのこの部分を読んでみて…この記録はこれだから…」とやっていたのではスマホを扱っているのと大差ありません

 SFチックな考え方として、やはりもっと直感的に”記憶”を呼び起こすような感覚で”記録”が引き出せるようになっていて欲しいと考えるのは私だけではないでしょう。

 そうするとおそらくは”記憶”と”記録”の境界線はどんどん曖昧になっていき、今自分が呼び起こしている情報が”生の脳が保存している記憶”なのか”埋め込んだチップの記録”なのかの判別は難しくなるのではないでしょうか。

 埋め込んだチップに「これは”記憶”ですよ」とか「これは”記録”ですよ」と脳に認識させる機能を持たせるのは一般的な生活の中で蛇足のような気もしますし……とはいえそのような世界観の中で”架空の一般的な生活”を想像しているに過ぎませんが……。

 もし直感的に”記録”を呼び起こすことができるなら、主観的にはそれを”記憶”と認識するのだろうなと言うのが私の個人的な感覚の予想です。

 ではそのような”記録”を”記憶”として認識するような状態になったとき、その”記憶”とやらは私の”ゴースト”のものなのでしょうか。それとも脳に埋め込んだチップのものなのでしょうか。

 現在の私たちの感覚から言えば”記憶”は”ゴースト”のものであることはおそらく自明なのですが、取り外しのできるインプラント式のチップであったら”記憶”の一部を簡単に取り外すこともできますし、逆に経験していない情報を”入れ込む”ことで擬似的に経験を脳に入れ込むことも可能となるでしょう。

 映画「マトリックス」では武術の技能武器の使い方ヘリの操縦方法まで脳に直接ダウンロードする形で経験に勝る高度な知識を一瞬にして植え込む描写がされます。

 これが個人の意思による過程と結果であれば良いですが、問題は個人の意思に関係のない形で”記憶”を作り出すことも可能と言うところ。こうした記憶の改竄や植え込みは映画「ブレードランナー」でもありましたね。

 そうしたデジタルデータ的な記録記憶として脳に植え込まれる場合、そのデータ記憶は他者にも全く同じもの植え込まれていることもあるわけです。

 私たちが普段、車を運転したりスポーツを楽しむときにそれらを自然に行えるのは個人の主観的な経験から得られた知識や能力からのものであって、これらが仮にデジタルなデータに置き換えられたとしても(同じ車の運転の方法であれ)ほぼ確実に千差万別のものとなるでしょう。だからこそ個人に能力差が出たりもするわけですが、それすなわち個性とも言えます。

 個性的主観的な経験なし画一的な”データ”を脳に埋め込まれるとき、感覚的にはどうしてもそれが”自分のもの”と思えないのでなかろうか。これはまだそうした技術が確立していないからこそ抱く疑念であったりもするのでしょうけれどね。「今日脳に入れた運転技能は誰の記憶がベースなんだろう…」なんて思う日がやってくるのでしょうか。

 SF描写ではありがちな展開ではありますが、現実問題として私たちが現に直面する時代が来るのでしょうね。(私の生きているうちとは限りませんが。)


囁くゴーストは「自己」か「自我」か

 先述した攻殻機動隊に出てくる「そうしろとささやくのよ 私のゴーストが」と言う台詞には昔から違和感を抱いていました。

 ”ゴースト”は自分自身の”意思”や””、解釈としては””とも言えるようなふわっとして概念ではあるものの描写としてはやはり自分を自分たらしめる自己統一性のようにも感じられる。

 対してセリフとしての「そうしろとささやく」は対外的な何かが自分に語りかけてくるような描写です。

 デカルトが残した言葉、「我思うゆえに我あり」は”自我”の発見として有名ですね。私自身が私自身について言及し、その言及そのものが自己の存在を証明している、と。「我思うゆえに我あり」と言うときの””に対して、私たちはとても自覚的な気がします。

 デカルトの後に、精神分析の祖となったフロイトデカルトの言うような””の裏側に潜む「無意識」について分析し、さらにそこからユングは「集合的無意識」へと発展させます。フロイトユングのような”我”の裏側”我”を突き動かす、つまり「深層心理」に存在する”自己”を説いていきました。

 フロイトユングは当初は師弟関係あったのですが、後に「”無意識”ってどこからどこまでやねん」という疑問に対する見解の違いにより訣別(けつべつ)してしまいます。ともあれ彼らは範疇の違いこそあれどその”無意識”というものの存在を世に知らしめました。

 ユングの”集合的無意識”から提唱される”自己”はデカルト的な”自我”相互作用して個人を形成するとされるわけですが、「そうしろと囁くゴースト」なるものはどちらかと言えば無意識的な”自己”の側であろうなと感じます。

 フロイト精神分析を提唱するのは1880年台後半のこと、アーサー・ケストラーが「機械の中の幽霊(The ghost in the machine」を書き上げたのは1967年のことですから、ケストラーの言う”ゴースト”は完全な”無意識”に対する表現ではないでしょうし、本質としては脳が心を生み出す仕組みについての考察を述べるに留まっているだけです。

 また、後の1950年ごろに哲学者ギルバート・ライルが同じように「機械の中の幽霊(ゴースト)のドグマ」と言う表現を用いてデカルトの二元論的な”自我”について”まるで我々は機械(身体)の中のゴースト(心)”だと軽く揶揄しています。

 記事冒頭では攻殻機動隊に登場する「ゴースト」はアーサー・ケストラーの「機械の中の幽霊」が由来のものとしてお話ししましたが、人によってはこのギルバート・ライル機械の中の幽霊(ゴースト)のドグマ」が由来であるとする意見もあります。

 作者である士郎正宗どのように語ったのかなどのソースが私には調べられなかったので明確なことは言えませんが、あれだけのSF超大作を作り出した作者ですからどちらも知っていたであろうし、そのどちらも参考にするなりしているだろうとは予測します。

 だからこそ「攻殻機動隊」の中に出てくる「ゴースト」は時にネットワーク上の存在として、はたまた時に生々しい人間的な「ゴースト」として描かれていたのだろうな、と。

 いずれにしても「私の中で私に語りかける私」たる”ゴースト”と言うのはやはり私の中にこそ存在するのでしょうし、それが無意識的な「自己」であれ自覚的な「自我」であれ、そして機械に作り出された「ワタシ」であれ、それらを総合的にそして俯瞰的に見つめる客観的な私が冷静に理性的に判断してほしいなと”私は思う”のでした。(この”私”って一体誰なんだ…?


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