あなたは周囲の意見に流されがちな芯のない人間でしょうか。それとも自分の意見は意地でも変えない頑固者でしょうか。
周囲の意見と自分の意見が異なる場合、意見交換を経て折衷案を出すなりどちらが正しいかを議論して自分や他人の考え方を柔軟に変化させるものです。
意見を変えたからと言って芯がないと言うのも、意固地な頑固者と評されてしまうのも、それらの行動が過剰であるからこそ。多くの人は自分の意見に対して柔軟なのです。
とはいえ、明らかに、絶対に、100%自分の意見が正しいと感じている場合、その意見を変えることはあるのでしょうか。頑固者だなと思われてでも自分の意見を貫き通さなければならない。そんなことが日常たまにはあるでしょう。
今回紹介する「アッシュの実験」は自分(被験者)の意見が正しいはずであるのに、周囲が全員”間違った解答”をしている場合、被験者は”間違った方へ意見を変えてしまうのか”と言う実験です。
「アッシュの実験」は時に「アッシュの同調実験」とも呼ばれ、読んで字の如く被験者が周囲に対して”どの程度同調してしまうのか”を観察するものとなっています。この記事ではわかりやすく「アッシュの同調実験」と呼んでおきます。
目次 ・同調圧力の善悪 ・アッシュの同調実験 ・ゲシュタルト心理学 ・「認知的不協和」と「均衡理論」 ・どの程度の割合で集団に同調してしまうのか ・日本におけるアッシュの同調実験 ・反同調行動を起こす日本人 ・帰属意識がどこにあるか ・同調圧力と同調行動
同調圧力の善悪
「同調圧力」という言葉をご存知でしょう。これはある範囲の集団で少数派の意見を持つ人々に対して多数派の意見や考え・行動に変わるよう誘導することを指します。
多数派の意見を持つ者が少数意見を持つ者を変わり者扱いしたりある種のネガティブ・キャンペーンを用いて印象操作するなどして少数意見を潰そうとしたり集団から排他するといったような行動がいわゆる「同調圧力」です。
多くの社会的問題が含まれますし少しセンシティブな内容もあるでしょうから具体例はあえて出しませんが、学校や会社での「いじめ」であるとか、差別・偏見なども一種の「同調圧力」がその根底にある場合も少なくありません。
しかしながら、「同調圧力」が絶対的に悪い物であるかというとそうとも限らないのです。
例えば、新型コロナウィルスの流行にあっては「マスクをつける」ということが日本においては社会的に一般化し、”マスクをつけていない人”に対する風当たりは時に過剰なまでに強くなることがあります。
「マスクをつけていない方の入店はお断りします」なんて張り紙はよく見かけますね。一種の排他表現とも取れます。
反面、「みんなでマスクをつけて予防しよう」という多数派集団の”圧力”は少なからずウィルスの感染予防・蔓延防止に貢献していることでしょう。
つまり”そのことが結果的に良かった”となれば”結果論”としてそこで生じた「同調圧力」は社会的に良しと判断されることもあるわけです。
ここで”結果論”であることを強調するのは多数派にせよ少数派にせよ、その意見を持つ人にとっては”暫定的に良い”と考えてのことなので多数派が悪いだとか少数派が良いだとかの判断はなかなか付きにくいためで、「同調圧力」そのものが悪であるという風潮も判断を見誤る一因であると私は考えるためです。
それはさておき「アッシュの同調実験」を見ていきましょう。
アッシュの同調実験
さて、前置きが長くなってしまいましたがいつものことなのでお許しを。いよいよ本題の「アッシュの同調実験」についてお話ししていきます。
まずは実験の内容をお話ししましょう。
とある学生が教授から小さな講義室に呼び出されます。そこにはすでに数人の学生が同じように呼び出されており教授の提示するとあるテストに参加することとなります。
教授は学生に対し「これから行うテストは”知覚”に関する実験であり……」と概要を説明し、早速実験に取り掛かります。
壇上のホワイトボードには長さの異なる3本の線が書かれたカードが張り出されており、これから次々に見せていくカードに書かれた線と同じ長さの線はどれであるかを一人ずつ答えるように求められます。
第一問。ああ、これは簡単なことだ。答えは”B”だ。周りの学生たちも「Bです」「Bだ」「Bよ」と答えていきいよいよ自分の順番「答えばBです」。後に続く学生もまた「Bである」と答えます。
いやはや舐められたもんですよ。いくら知覚の実験とはいえこんな問題を間違えるはずがない。さぁさぁ次の問題だ。
第二問。今度の答えは”C”だな。周りの学生たちも「Cです」「Cだ」「Cよ」と答えていきいよいよ自分の順番「答えばCです」。後に続く学生もまた「Cである」と答えます。
何とも単調な実験だこと。これで何が分かるというのだろうか。さっさとこの退屈なテストを済ませて自宅でゲームにでも興じたいもんだ。
第三問。今度の答えは”A”か。これでこのテストも終わりだな。周りの学生たちが答え始めます。
「うーん、Bかな」
は?何を言ってるんだどう見たって”A”でしょうが!
「Bだろう」
何だって!?彼らの座る席の位置が悪いのか?もしかしたらカードがよく見えていないのかもしれない…。
「Bですね」
どういうことだ?これは視覚トリックなのか?知覚のテストだと言っていたしな…。
とすると、”A”だと思っているのは自分だけなのか?いや待てよ、この視覚トリックには特殊な見方があるんだ、きっと自分はそれに気がついていないのでは…?ええい、とりあえずここは”B”だと言っておこう。
「び、Bかな……。」
そして後に続く学生は平然と「Bである」と答える。
不安な気持ちを抑えながらの第四問。答えは”B”だ。どう見たって”B”だ。錯視も何もあったもんじゃない。明らかに”B”であるはずだ。周りの学生が答え始める。
「これはAかな」
「うん、Aだと思う」
「Aだろうね」
おいおいちょっと待ってくれ、どう間違ったって”A”は無いだろう。”A”は一番短いし、”B”は一番長い。提示されたカードの線は明らかに”A”よりも長いじゃないか。ははーん、わかったぞ。これは自分をハメようとしているな?実は同席しているこいつらは教授の回し者で実験の対象者は自分だけってわけだ。よーし、もう騙されないぞ。
「いいや、答えは”B”だね」
すると同席している学生たちがギョッとした目でこちらを見てくる。おいおい、そんな目をするなよもう”ネタ”は上がっているんだぞ。
そして次の生徒は「Aだよ」と答えた。
ゲシュタルト心理学
さて、以上のようなテストが「アッシュの同調実験」と呼ばれるものです。1951年に社会心理学者およびゲシュタルト心理学者であるソロモン・アッシュによって提案されたこの実験。あなたが同じ立場に置かれたらどのように答えるでしょうか。
この実験はゲシュタルト心理学と呼ばれる分野で代表的な実験として多く取り上げられます。「ゲシュタルト心理学」というものを簡潔に説明すると、人間の心理・精神をその個人が持つ心理の部分や要素から読み解くのではなく、その心理構造の全体性や構造に重きを置いて読み解こうとする心理学の一分野です。
そこで生じた心理的な動きを「〇〇だから△△である」というような物事と心理を1対1で読み解くのではなく、もっと多くの外的要因も含めた複雑な構成要素の相互関係として取り扱おうとするものです。
度々目にする例で言うと曲のメロディについての知覚が挙げられます。
ある曲を歌うときカラオケでキーを上げ下げしても曲が変わったとは思いません。しかし譜面上では全ての音符が位置を変えているわけですから”原曲”と異なっていると言う点で言えば全然別の曲として認識してもおかしく無いわけですがそうはなりません。
これはキーがどれだけ変わろうとも、各音符の相互関係が一定のままであるが故にその構造において同一の曲であると認識されるためです。もしも人の認識能力が1対1であるならば原曲キーを外れてしまうと完全に別のものとして認識されてしまうといった事態が起こり得ます。
「ゲシュタルト心理学」このような全体の構造を知覚し認識すると言う前提のもとで人の心理を読み解こうとするのです。
ちなみに「ゲシュタルト」と言う言葉はドイツ語の「Gestalt」であり日本語に直訳すると「形態」となります。同じ文字を書き続けるとその文字が変な形に見えてくる俗に言う「ゲシュタルト崩壊」と言うものがありますがそのまま直訳して「形態崩壊」と言えばわかりやすいでしょうか。
このゲシュタルト崩壊現象もゲシュタルト心理学の流れを汲む認知心理学の分野で研究されています。認知心理学関連では当ブログではギブソンの「生態学的視覚論」やピアジェの「発生的認識論」なんかも紹介していますのでご興味があればぜひそちらも読んでいただければと思います。
さて、「ゲシュタルト心理学」について詳しくはまた別の記事にまとめるとして、この簡単な概要だけでも「アッシュの同調実験」が何を捉えようとしているのかが見えてきたのではないでしょうか。
つまるところ、周囲の環境から与えられる情報とその相互関係から被験者がどの程度周囲に同調し自らの意見を自ら変えてしまうのかを観察しようとしているのです。
「認知的不協和」と「均衡理論」
話を「アッシュの同調実験」にもどしまして。実験に参加させられたとある学生が勘づいたように「アッシュの同調実験」では被験者(実験の対象者)以外は全員”サクラ”です。正解を答えるタイミングや間違えるタイミングは全て実験者側の意図通りに進められています。
その中で被験者のみが純粋に”棒の長さ比べ”をやらされていました。
テストの内容は非常に簡単なものです。次々提示される棒の長さと同じ長さのものを言い当てるだけですから大学生にもなれば一般的な範囲においてはそうそう間違えることもないでしょう。
しかし、不可解なことに周囲の人間たちはこんなにも簡単な問題を間違えてしまいます。
間違えようのない問題を周りの学生たちが間違えている。自分の考えが明らかに正しいはずなのに、どうやら周囲はそう考えていないらしい。と言うことは本当は自分が間違えているのか?いやいやでもどう見たって……。
このような自分の認知と相反する別の認知を自分自身の中に抱えてしまうことを「認知的不協和」と言います。今回のアッシュの実験の場合、大学内の学生を対象に行われているということも不協和を生み出す一つの大きな要素です。
「自分と同じ大学に通う学生はある程度は自分と同じくらいの学力なり認知能力を持っているはずだ。」という暗黙的な認識に対して「そんな彼らが一同に自分と別の解答をしている。これは彼らが”バカ”なのか?そんな奴らと一緒に自分は勉強しているのだろうか……?」といった他者否定と自己否定が入り混じった思考に陥るかもしれません。
そしてこの「認知的不協和」の状態を打破するために”何かが間違っているのかもしれない”と認識を訂正しようとする心理が働きます。
「座席の位置によってはカードが見えにくいのかもしれない」
「視覚トリックが含まれているのかもしれない」
「問題の意図を取り違えてはいまいか」
「教授が何か罠を仕掛けているのでは?」
「さては周囲の人間はみんな”サクラ”なのか……?」
こうして自分の認知と周囲の認知の差を埋めるために別の要因を考える(認識を変える)ことで「認知的不協和」を解消しようとします。こうした心の動きは初期のゲシュタルト心理学で「均衡理論」という形で説明されます。
ちなみに「均衡理論」を詳しく提唱したのはフリッツ・ハイダー。「認知的不協和」はレオン・フェスティンガーが提唱したものでハイダーもフェスティンガーもアッシュも同時代にゲシュタルト心理学を牽引した人たちです。
より厳密に言えば「アッシュの実験」を「均衡理論」や「認知的不協和」で説明するべきではないのかもしれませんが、ざっくりとした肌感だけでも感じていただければと思います。
どの程度の割合で集団に同調してしまうのか
ソロモン・アッシュによる実際の実験は1951年のアメリカの大学で行われました。当時の時代背景を鑑みても日本に比べて個人主義的な傾向の強いとされるアメリカで行われた”同調実験”はどのような傾向が見られたのでしょう。また社会性を重んじ同調傾向の強い日本人の場合には「アッシュの実験」はどのような結果になるのでしょうか。
まずはアッシュの行った実験結果を見てみます。
実験の時期と場所は1951年のアメリカの大学。対象者は50名の男子学生です。
先述の実験を行います。サクラは全部で12回の誤回答を行い。その中で何人の学生がその誤回答に何度引っ張られ、何回”同調”てしまうのかが記録されました。
”間違った解答”に引っ張られてしまった学生、つまり”同調した”と見られる学生は50人中37人の74%に上り、同調した回数は平均で3.84回(実験中にサクラの誤回答の回数は12回)。
裏を返せば、サクラによる12回の誤回答のうち3〜4回ほどしか”同調していない”とも見ることができますが、よく思い出してほしいのが実験で行われたテストは非常に簡単な内容で1回でも間違えるようなものではないということ。確実に自分以外の者たちが間違っているということが”分かっているはず”なのに誤回答へ引っ張られているという事実です。
さらに言えば、50人中13人である26%の学生は同調行動を示さず、自分の意見を貫き通して周囲に対して意を唱え続けています。
以上の結果を表にまとめてみましょう。
実験者 | 実験時期 場所 | 被験者数 | 非同調者数 | 同調回数平均 |
アッシュ | 1951年 アメリカ | 50人 | 13人(26%) | 3.84回 |
個人主義的な傾向の強いアメリカにおいて、全く同調行動を示さなかった学生は全体の26%しかいません。
被験者の少なさと偏りを鑑みても血気盛んな大学生男子のうち3割弱しか非同調者がいなかったというのは”個人主義的”で”自分の意見を主張する”ことが善とされる(少なくとも私のようなステレオタイプな日本人にはそう見える)環境の中で少ないように感じるのは私だけでしょうか。
そして8割近くは少なくとも1度は「同調行動」を示しているのです。
先ほどから”日本に比べて個人主義的な傾向の強いアメリカ”と繰り返していますが、では日本でこの実験を行うとどうなるのでしょう。アッシュの実験が行われた当時でも同じような疑問が出て実際に日本でも同じような実験が行われたのです。
次は日本で行われた「アッシュの同調実験」について見てみましょう。
日本におけるアッシュの同調実験
「アッシュの同調実験」が行われた当時、ハーバード大学の博士課程に在籍していたロバート・フレイガーは個人主義の歴史が浅く”世間体”や周囲の”思惑”に重視を置き”集団の和”を重んじる日本でこの実験を行うと全く異なる結果になるのではないかと考えました。
フレイガーの予想では”集団主義的”な日本ではアッシュの行ったアメリカでの実験に比べて同調者数が増え、同調回数も度増加するのではないかと考えます。
そして1966年に実際に日本に訪れ、慶應義塾大学心理学研究室の協力を得て「アッシュの同調実験」を行いました。早速結果を見てみましょう。
実験者 | 実験時期 場所 | 被験者数 | 非同調者数 | 同調回数平均 |
アッシュ | 1951年 アメリカ | 50人 | 13人(26%) | 3.84回 |
フレイガー | 1966年 日本 | 128人 | 34人(26.6%) | 2.92回 |
アッシュの行った実験結果と見比べてみましょう。実験時期と場所は先述の通り。被験者は倍以上の人数ですが注目すべきは「非同調者数」と「同調回数平均」です。
「非同調者数」の割合はアッシュ(アメリカ)の26%に対してフレイガー(日本)でも26.6%とほとんど差がありません。これだけでもフレイガーの予想は外れています。そしてさらには「同調回数平均」ではアッシュ(アメリカ)が3.84回に対してフレイガー(日本)では2.92回とおよそ1回分”少なく”なっています。
なんだぁ対して差はないではないかと感じられるかもしれませんが、この差は統計的にみて有意な数字のようで少なくとも同調回数に関しては日本人の方が”同調的でない”と言えます。
おやおや?フレイガーの予想では”集団主義的な日本”では同調回数が多くなると予測していたのに、むしろ少なくなっています。
そしてさらに、日本での実験では特殊な事例が見られることとなります。
反同調行動を起こす日本人
サクラたちが間違った解答をした時、自分だけは正しいと信じて周囲の意見に異を唱えるという行動を「非同調行動」としていました。
それに対して、サクラたちが正しい解答をしたとき、自分だけがわざと間違った解答をするということももちろん予測されます。この行動を「反同調行動」と言います。こうした行動が予測はされるものの、やっていることは非常にナンセンスです。なにせわざと間違るわけですから一見すれば無意味な行動です。
この「反同調行動」は状況としては”わざと間違える”という点でより不可解なものであるためなかなか出現しません。実際、アッシュがアメリカで行った時にはこうした報告は一件も無くアメリカで行われた他の同様の実験でも「反同調行動」は見られませんでした。
しかし、しかーし!
フレイガーの行った日本の実験では、この「反同調行動」がとても多く見られたのです。
具体的には被験者128人中、「反同調行動」(サクラが正しい答えを出した時、被験者がわざと間違える)を示した者はなんと43人(全体の36%)もいたのです。
アメリカでの実験では1人も現れなかったのに、日本では36%もの被験者が「反同調行動」を示しました。
彼らの認知能力に何かしら問題があったのではないかと、個別に(サクラ無しで)同様のテストを行ったところ彼らは全て正しく答えることができ、明らかに”わざと間違った”ということ調べられています。
こうした事態にフレイガーは頭を抱えます。”集団主義的”であるはずの日本で「非同調者数」に顕著な差は見られず、「同調平均回数」においてはむしろ少なくなっている。しかもアメリカでは一切見られなかった「反同調行動」まで出現しています。
フレイガーはこの事態に対して納得のいく説明を見出せないままになってしまいました。
帰属意識がどこにあるか
ここまで見たきたように、アメリカで行ったアッシュによる実験と日本で行ったフレイガーの実験では日本人の方が”同調的ではない”と評価できます。
いやしかし、実社会を見てみるとどう見たって日本人の方が周囲に同調的であるように見えるし国外からの評価でもそのように受け取られるのが一般的です(フレイガーのように)。それにもかかわらず、アッシュの同調実験を行うと日本の方が非同調的であり、時に反同調的であるのはなぜなのでしょうか。
これについて社会心理学者の我妻洋は一つの仮説として「被験者がその集団に対して帰属していると感じているか」が重要なのではないかと説明しています。
「アッシュの同調実験」を卒業論文として1975年に追試した大阪大学の学生佐古秀一も「実験集団は未知の人々からなる(中略)、日本人にとって重要な集団となり得ない(我妻洋《社会心理学入門(上)》より)」と説明しています。(佐古氏の行った実験でも同調傾向は低かった。)
我妻洋はこのような帰属意識についてアメリカ人と日本人の違いを以下のように述べています。
アメリカ人には、パーティーとの席上とか飛行機や汽車の席で、初対面の人間に気軽く自己紹介をして自会話を楽しむ傾向がある。ドイツ人は一般に、最初はひどくとっつきが悪いが、いったん近しくなるとトコトンまで親しくなる傾向があり日本人に似ている。だから、アッシュの実験のドイツにおける追試をぜひ検討してみなくてはならない。
「我妻洋《社会心理学入門(上)》より引用しつつ筆者改編
つまるところ、実験のために一時的に集められた人々に対して親しみを感じる度合い(帰属意識の度合い)が異なるため同調するか否か(さらには反同調的になるか)といった行動に大きな差が出るのだろうと考えられるわけです。
また、場合によっては場を荒立てないようにするためとか波風立てるのが面倒臭いといったことを理由にとにかくなんでも同調しておくといった人はアメリカ人にも日本人にも少なからずもいるでしょう。さらに周囲の環境やサクラとの関係性を明確にすること(例えば家族や友人同士など)で実験結果が大きく変わるであろうことを我妻氏は指摘しています。
日本の社会は村社会的とも言われたりしますが、村社会という言葉には排他的な社会という意味も含まれています。つまるところ自分の帰属している集団以外の人々に対しては排他的で時に攻撃的とも言えるわけです。
そうした国民性のようなものが「反同調行動」を示すというのも仮説として説明可能であはあるかもしれません。
「お前たちはわざと間違えているだろう。なんの示し合わせか知らんが俺はその手には乗らん。たとえ正しい答えを出したとしても俺はそれに対して意を唱えてやる!」と、まぁここまで攻撃的かはわかりませんが、ある種の反骨精神のような感情が出てくるのかもしれません。
同じ大学の学生とは言え見ず知らずの者たちが、なんだかわからないけれども自分を”ハメようとしてくる”わけですから敵対心が生まれるのも納得は行きます。これが全員仲の良い友人であったなら、やはり結果は異なることでしょう。
同調圧力と同調行動
以上、「アッシュの同調実験」からみる「同調行動」でしたが、この実験の環境を「同調圧力」と言えるでしょうか。
記事の冒頭ではわざとそれらを混同するように書きましたが、個人による「同調行動」と集団からの「同調圧力」は少し異なる観点があります。
それは同調する側が能動的に同調するのか受動的に止むを得ず同調するのかといった点です。
アッシュの行ったような実験では周囲からギョッとした眼差しを受けることはあっても説得されたり強制されることはありません。被験者は周囲の状況を鑑みて自らその行為を変えることで一種の「認知的不協和」の解消を図ります。
対して「同調圧力」を受ける場合、周囲からの迫害や排他と言った”圧力”が大きく働き、本当はそうしたくないけれども”そうせざるを得ない”と言った行動原理が根底にあるように思われます。
日本が海外から”集団主義的”と言われる場合、それが「同調圧力」としての集団主義なのか「同調行動」としてのそれなのか、文脈を読み取った上で評価を受け取らねばならないのかもしれません。
参考書籍