第12回【脳の進化とミーム論#2】

前回の記事「第11回【脳の進化とミーム論#1】」の続きとなります。

模倣による淘汰圧

 ブラックモア氏は著書「ミーム・マシーンとしての私」の中で脳の進化の転機は「お互いが摸倣をはじめたとき [Brodie, 1998]」だと言いました。

霊長類にみられるように、端緒的な摸倣の能力を原始のヒトが有していたであろうことは想像に容易いです。ブラックモア氏の定義する模倣の3つ技術をヒト以外の動物が持ち、他の動物種に模倣能力を認める以上、霊長類が比較的顕著に高度化したその能力を持っているであろうことを推察します(「動物はミームをもつか#1,#2,#3」)。しかしながら高度化した模倣能力を個々が持っていたとしてもそれが集団の遺伝子プール内に広がらなくては意味がありません。模倣することが有益であるとはいえ、これまで簡単な模倣能力のみで生きてこられた者たちが高度な模倣能力を重要視するようになるのでしょうか。ここの疑問をブラックモア氏は「摸倣への淘汰」「摸倣者を摸倣することへの淘汰」「摸倣者とつれあいになることへの淘汰」「摸倣への性淘汰」の4段階の過程に分けて働いた淘汰圧によるものだとしました。

 ひとたび“摸倣”の能力を遺伝的に身につけた者は、持たないものよりも生存競争で有利になります。そうなると持たざる物は淘汰され、集団内は摸倣能力を遺伝的に身につけた者たちであふれていきます(「摸倣への淘汰」)。

 「摸倣への淘汰」が働くと、何を模倣すれば良いかについて最良のものを見分けることが出来るカリスマ的存在「最良の摸倣者」が生まれます。「最良の摸倣者」が持つ模倣技術は集団内の他の者たちと比べて高い模倣能力を持つと考えられます。単純に言えば流行を見分ける力のようなもので、世間でどのような事柄が流行しているかを見分け、それをいち早くキャッチし、自身の振る舞いに取り入れられるかという能力に置き換えられます。このカリスマ以外の模倣者は流行の波に乗るのは上手いものの流行の最先端ではない後発組です。

彼らのような後発組のうちには「最良の摸倣者(カリスマ)」を模倣する者たちが当然ながらいます。カリスマの作り出す最先端の流行により近いところで模倣のできる者は(模倣が有益な行動であるという前提においては)より優位な地位に立つことができます。自分自身が「最良の模倣者」でなくとも「より良い模倣者を模倣しようとする者」はそうでないものよりも生存競争において優位なのです(「摸倣者を摸倣することへの淘汰」)。

 そして、これら2つの淘汰圧を生き抜くことができる個体と連れ合いになることは自らにとっても、そして自分の子どもにとっても最良の手段となります。もちろん、この場合にもっとも良い連れ合いは「最良の摸倣者」ではありますがハレムを形成するような集団でない限り全員が全員最良の連れ合いを求めるわけにはいきません。自分にとって手の届く範囲で“自分にとって”最良の模倣者を探すのです(「摸倣者とつれあいになることへの淘汰」)。

 さて、より良い模倣者と連れ合いになることで自らにとって有益であることは確かだが、仮に高い摸倣能力に脳の巨大化が伴うという説が正しいのであれば、前回の記事で書いたような出産のリスクをも必然的に伴うことになります。それでもなぜ、脳の巨大化は進んだのでしょうか。答えは4つ目の淘汰「摸倣への性淘汰」にあるようです。

ランナウェイによる淘汰圧

 これに答えるには、ロナルド・フィッシャーの「ランナウェイ説」という仮説を用いることになります。ランナウェイ説とは、配偶者を選ぶときに何を基準に選んでいるかが、形質や生態を過剰に発達させるという性淘汰による進化説のことを言います。「ランナウェイ(Runaway)」を直訳すれば「逃亡」や「逃げる」となりますが、「手に負えない」や「暴走」という意味も含まれます。ランナウェイ説にはこの「暴走」という意味をあてがうのが正しいと思われます。日本語に直訳すれば「暴走的進化」という感じでしょうか。

 クジャクを例にみると、クジャクのオスは病気を持っていない証拠としての機能や、目立つ羽を持ちながらも天敵から逃げ切ることが出来る強さの証しとして綺麗な羽を持っていると考えられています。メスは、それらの強さを推し測る指標として羽を評価し、綺麗な羽を持つオスを好むようになります。綺麗な羽を持つオスと綺麗な羽を好むメスとの間に生まれる子供は、オスに生まれれば綺麗な羽をもち、メスに生まれれば綺麗な羽を好む傾向が受け継がれます。これが繰り返されることで、環境の中で生き残ることの出来るぎりぎり限界まで綺麗な羽の進化を推し進めることになるのです。生き残ることのできる限界を超えれば、目立つ羽を持ちながらも逃げ足が遅くなり、天敵から逃れることができなくなるため淘汰されてしまいます。すなわち、いくら配偶者に恵まれているとは言っても、短命となってしまっては、子孫を残す機会が減ってしまうのです。このように、ランナウェイ説は「煌びやかなクジャクの羽」といった、一見して自然の中で不利であると思われるような進化を説明するときによく用いられます。

 同じように、巨大な脳を持つことへの暴走的進化が模倣の淘汰圧によって起こります。より良い摸倣者とつれあいになるという傾向は、そのままランナウェイ説による淘汰へと発展するため、摸倣能力を持つ者はさらによりよい摸倣者をつれあいに選び、その子どもは高い摸倣能力を受け継ぐことができます。そして、高い摸倣能力を好む傾向はその子どもにも遺伝され、また同じような配偶者選択が繰り返されます。ところがどこかの時点で脳の巨大化による出産のリスクは胎児の出産率を下げてしまうため無限に脳が巨大化することはありません。これが「摸倣への性淘汰」というわけです。帝王切開などの出産医療技術が発展した現在ではそのリスクが軽減されているとはいえ、自然界に生きる野生の初期のヒトではそうはいかなかったのです。もし、彼らが高度な出産医療技術を持っていたら我々は今ごろ宇宙人「グレイ」のような巨大な頭と脳を持っていたかもしれませんね。

 このようにしてヒトの脳が巨大化したのだとすれば、なぜヒト以外の霊長類はヒトになり得なかったのでしょうか。「萌芽的な模倣能力」というのは初期のヒトも同じ条件であるはずです。ここでいうヒトというのはホモ・サピエンスやホモ・エレクトスも含んだヒトです。つまり、なぜチンパンジーの萌芽的な模倣能力はヒトのように高度な模倣へと発展し脳を巨大化させ高度な文化(高度なミーム)を獲得できなかったのでしょう。もしミームを含む模倣行動が脳を巨大化させるのならチンパンジーも同じような進化の道を辿っても不思議ではありません。しかしそうはなりませんでした。ランナウェイ説に則ればチンパンジーの場合には人間ほど脳が巨大化する前にランナウェイ的進化が止まったわけです。とすると、少なくとも途中まではミームと脳の共進化により巨大化していったチンパンジーの新生児の脳と極限まで巨大化したヒトの新生児の脳との間にある模倣行動に差異を見つけることができれば「より高度な摸倣能力を獲得するには、より巨大な脳が必要である」という仮説に信憑性が増すかもしれません。そこで、実際に行われた実験をもとにヒトとチンパンジーの新生児による模倣行動に違いはあるのかを考察してみます。

新生児摸倣と姿勢反応

 ヒトの新生児は自活できないほど未熟ではあるものの、脳の成長は著しいものであることは前回の記事で紹介しました。ブラックモア氏が言うには、巨大な脳は高い模倣能力を備えているということになるので、大きく脳を成長させて生まれてきたヒトの子供は高い摸倣能力を持って生まれてきているということになります。そして実際に新生児の模倣行動は「新生児摸倣」という形で現れます。この「新生児模倣」は1977年にアメリカの心理学者であるメルツォフとムーアによって、生後12〜21日の新生児を対照に行なわれた実験で発見されました。新生児に向かって、「舌出し」「口を大きく開ける」「唇の突き出し」「手の開閉」という4つの行動を見せると、新生児はその行動を摸倣する反応を見せます。

この新生児の模倣行動が真の意味での摸倣であるかは賛否が分かれており、刺激反応の一種として真の摸倣行動とは別物とする見解も多いようですが、仮にこの「新生児摸倣」が真の摸倣であったとしても「新生児模倣」はチンパンジーの新生児にもみられる摸倣反応でもあるためヒトとチンパンジーの能力的差異をほとんど認められません。そして脳の大きさが異なるヒトの新生児とチンパンジーの新生児で同じ反応が見られるということは、脳の大きさと新生児摸倣が直接関係するとは言えないでしょう。チンパンジーの新生児摸倣については京都大学で2002年に行なわれたシンポジウム「出産の進化と歴史 – 分娩をめぐる身体・他者・制度」のなかで、明和政子氏らが報告した「チンパンジーの出産と子育て:見つめあう母子」で紹介されています。

 先述の通り「新生児模倣」は真の模倣ではないとする考えもあり、これが模倣でないのであれば、たとえヒトとチンパンジーの新生児模倣の能力に差異が認められても脳の大きさと模倣能力との関連性を比較するための材料足り得ません。模倣ではないとする理由には新生児の身体的未熟さがゆえに保護者の興味を引くための基本的なコミュニケーション能力として反射的にそうさせているのだとする見方があります。自ら歩くことはもちろん、しがみつきもできないとなれば保護者に守ってもらわなければならないため、母子関係や保護者との関係の希薄化は新生児が生きていく上で死活問題になってしまいます。そのため、新生児は保護者からの興味を引こうと先天的な反応として「新生児模倣」を行うというものです。「新生児模倣」が真の模倣であれ刺激に対する反応であれヒトとチンパンジーの新生児は1年間ほどこれを行います。
 さらにチンパンジーとヒトの新生児に共通する行動に「姿勢反応」というものがあります。「第63回子ども学公開シンポジウム-チンパンジーの子育てから学ぶ-(このリンクはPDFが開きます)」の記録からその実験を紹介します。「姿勢反応」の実験は新生児の体を持ち上げて空中で不安定な状態にするとどのような反応をするかを観察するものです。生後1ヶ月では腕と脚は屈曲したままで姿勢の不安定さから脱するような動きがまだできず、それが徐々に空中でも姿勢制御を行なうようになり、生後5〜6ヶ月になると腕と脚が伸びて、床の近くまで下ろされると自らの手を出し、体を支えようとします。生後9ヶ月の頃には腕も脚も伸展し、いろいろな姿勢で不安定な自分の体を支えようとするまでに成長します。この「姿勢反応」も、ヒトとチンパンジーの赤ちゃんで、ほぼ同じスピードで成長するのだそうです。このように、「新生児摸倣」のような基礎的なコミュニケーション能力と「姿勢反応」という基礎的な体の発育という点では、ヒトとチンパンジーの新生児の間には能力的にも成長速度的にも共通点が見られ、脳の大きさの違いは新生児の能力に明確な差異を産むものではなさそうだと考えられます。

 やはりミームと脳の巨大化には相関関係以上のものを見いだすことは難しいのでしょうか。ところがどっこい。注目すべきは新生児の肉体的な能力の成長過程ではなく保護者との関係性にありました。

あおむけコミュニケーション

 同シンポジウム「第63回子ども学公開シンポジウム-チンパンジーの子育てから学ぶ-」の中で、生後一年間でみられる保護者との関係性の違いが述べられています。

 ヒトの赤ちゃんも、チンパンジーの赤ちゃんも、まだ自分の体の姿勢をしっかり支えられないような発育時点でも、あおむけの状態で物(玩具など)をあつかい、物がなければ自分の手で遊び始めます。この赤ちゃんの行動に対して、ヒトに見られるのはそこに保護者とのコミュニケーションがあるということです。チンパンジーの赤ちゃんは生後2ヶ月程ずっと母親に抱かれたままですが、ヒトの場合は保護者の肉体的な能力に対して新生児が大きすぎるため四六時中抱いていることができず、仰向けで寝かせられている時間が非常に長いです。これについて竹下秀子氏は「ヒトのお母さんは赤ちゃんを自分の傍らに置いて、抱かないけれども関わるという育児の仕方を始めた」と述べています。ヒトの母親(保護者)は仰向けの赤ちゃんに対して玩具を手渡したり引っ張り合いをしたりして交流するとき、赤ちゃんは玩具を通して関わっている相手の顔をよく見て、にこにこと表情を変えたりしてコミュニケーションをとります。それに答えて母親をはじめとする周りの大人は、赤ちゃんに対して物を与えたり表情を変えたりして、積極的にコミュニケーションをとろうとします。このような赤ちゃんに対する積極的なコミュニケーション行動はチンパンジーの子育てには滅多にみられません。

 こうした保護者からの積極的な干渉と子の反応という関係性は、チンパンジーとヒトの新生児の大きな差と言えるでしょう。特に保護者からの積極的な干渉に対してどの程度反応できるかは、コミュニケーションの濃度を上げるという点で新生児にとって非常に重要な能力となります。仮に、保護者の干渉に対する子の反応の度合いと脳の大きさに因果関係があるとすれば、ミーム伝播に最も重要な能力のひとつであるコミュニケーション能力と脳の巨大化に因果関係を見出す一条の光となるかもしれません。

保護者のリアクション

 子どもと親の関係性もさることながら、子どもの行動に対する保護者のリアクションの差がヒトとチンパンジーでは非常に大きいものです。ヒトの場合、赤ちゃんが積み木を高く積み上げることができたとき、周りの大人はそれに対して驚いてみせたり褒めてあげたりします。ヒトの赤ちゃんは、あおむけで寝かされている頃から、顔を突き合わせてコミュニケーションをとり、自分の行動や達成したことを誰かが見てくれているということを学びながら成長して行くのです。しかし、こういった赤ちゃんの行動に対する保護者の反応がチンパンジーの場合とても薄いものになっています。

 チンパンジーの子どもが何かを持ったり積み木を積み上げたりしても、チンパンジーの親は我関せずと言った様子で黙って見守るのみだそうです。赤ちゃんが危ない物や、危険が予期されるような物に興味を示した時にはそれを制止するようなことはしますが、基本的に無反応です(第9回【動物はミームをもつか#3】-動物の教授-)。親が無反応であるのはチンパンジーの子どもが原因というわけではありません。チンパンジーの子どもも、積み木が積上ったときに“人間の観察者”が喜んでやると、嬉しそうに抱きついてくるという反応を見せます。チンパンジーの親が無反応なだけであって、ほめられて嬉しいのはチンパンジーの子どもも同じようなのです。

積み木で遊び出す時期

 積み木で遊ぶと行動とそれを褒められて喜ぶという反応はヒトにもチンパンジーにも共通のものに見えますが、“積み木で遊ぶ”という行動自体は、チンパンジーに比べてヒトの場合にはとても早い時期に起こります。ヒトの赤ちゃんは生後1年半ほどで高く積み木を積み上げることができますが、チンパンジーの赤ちゃんでは2歳頃から積み上げの行動が見られるようになり、しっかりと積み上げられるようになるのは4歳になる頃です。さらにこの頃の子と保護者の関係性について教授という大きな違いがあります。チンパンジーの親は積極的な教授を行なわず、教育的な行動としては木の実の割り方や道具の使い方などを教えるときに子どもの前で何度もそれを見せることや子どもの行動を注視してその修正をすることはあるものの、子どもの手を取って直接教えるようなことをしません。そのようなことがあっても極めて稀で、チンパンジーの教育システムの中で手を取って教えるということは、普遍的に行なわれているものではありません。ヒトの場合にはとても早い時期から「あおむけコミュニケーション」を通じて教授が行われ、自然下のチンパンジーの親子関係に比べて質も量も格段に高い次元でコミュニケーションが行われていることがわかります。

コミュニケーション能力の特化

 ここまでみてきたようなヒトとチンパンジーとの比較で、非常によく似た共通点を持ちながら、明らかに違う発達を遂げる両者。その相違は決定的な“何か”ではなく、それぞれの能力や技術の「濃度」ではないかと私は考えています。空間認識の能力と手先の器用さ、そして保護者との相互的なコミュニケーション能力など、チンパンジーに見られる行動よりもヒトの行動の方が明らかに高度な技術ではあるものの、それがチンパンジーに無いとは言えないことは確かです。しかし、ミームを十分に複製し進化と発展を促す様な高度な認知能力は、ヒトの特有でないにしてもやはりヒトの方が質は高いもののように見えます。より高度な摸倣能力にはより巨大な脳が必要であるという仮定を説明するのは難しそうですが、ヒトの赤ちゃんの発育がチンパンジーの赤ちゃんよりも少しだけ高度であり手先も器用で熟練度も高いということは確かなようです。この“少しだけ高度”な発育が成長の過程でも、進化の過程でも、後々に大きな差となるのでしょう。なかでもコミュニケーション能力では両者に大きな差を感じます。両者の明らかな違いに親子のコミュニケーションの濃度が観察されて成長とともにそれは親子関係だけではなく周りの全ての大人、さらには自分の周りの仲間たちも対象となっていくでしょう。大人からの教授のシステムや仲間たちとの密接なコミュニケーションによって他者の行動をよく観察しそれを摸倣する行動がどんどん増えていきます。面白いことにヒトの子どもは大人の教授行動を真似て自分の友人やひいては保護者に対してアニメや特撮ヒーローなどの知識を教授します。ヒトの子供は真似が、模倣が大好きなようです。積極的なお手伝いも模倣の一部でしょう。

 ヒトはコミュニケーション能力に特化して進化してきたのでは無いかと私は考えています。その進化の過程で摸倣能力は非常に役に立ち、さらにコミュニケーションの機会と能力を高めていくことができます。他者と仲良くなりお互いが仲間であることを知らせ合うには、相手を真似て“同じ”になるのが手っ取り早い行動です。相手が見ているものを自分も見たり相手の行動に自分も合わせたりすることは、お互いが仲間であることを知るには十分な情報となります。これは現代の文化の中で起こる「流行」の起源とも言えます。同じ歌を聴き、同じ服を着て、同じものを持ち、同じ話題で盛り上がる。自分を守るためにもどこかに帰属することは社会性の強いヒトにとって大変重要であるため高度な摸倣能力は非常に重要なコミュニケーション能力となります。

コミュニケーション能力に特化した進化という仮説はヒトの身体的特徴にも表れています。それは、ヒトの目の白目です。ヒトに白目があるのはアイコンタクトをはじめとした言語以外のコミュニケーション機能を備えるためだという仮説があるほど、ヒトはコミュニケーションというものを重視している生き物です。こうした身体的特徴がコミュニケーション能力の進化説を後押しする一方で模倣能力の進化という脳機能の発達もまたその仮説を後押しします。
 コミュニケーション能力の発展とともに眼球の変化と脳の巨大化に相関関係にあれば面白いかもしれません。眼球もまた脳の一部なのであり、胚の分化の従順性と統合的傾向から見る器官の進化とも相性が良いでしょう。(この話はまた別の機会にします。たぶん。)

脳の巨大化とミーム論

 ヒトの脳の巨大化に対する進化論的説明は様々な分野で考察されてはいるものの、どれが普遍的な正しさはわかっていません。そのような中でミーム論もまた脳の進化について考察している分野のひとつです。ミーム論的な脳進化の仮説は「より高度な摸倣能力を得るには、より巨大な脳が必要である」という仮定が前提にあります。ブラックモアは脳の巨大化もミームの駆動によるものだとしていて、彼女の「摸倣によるミーム論」に異議を唱える者もある一方で、脳の進化にミームが深く関わっているという考え方に対しての否定的意見は比較的少ないように思われます。ほとんどのミーム論者は脳の進化とミームの関係をある程度認めていると言って良いでしょう。

 チンパンジーとヒトとの比較で、ヒトの脳がチンパンジーのものよりも巨大である理由を「コミュニケーション能力の差」であるという結論に至りました。そして、進化の過程で系統的にチンパンジーと枝分かれしたヒト科ホモ属の脳質量は有史以前からほとんど増えていないという事実もあります。ホモ族の脳の大きさはホモ・ネアンデルタレンシス、ホモ・ハビリス、そして我々ホモ・サピエンスと、ほとんど変わりは無いのです。そうであればネアンデルタール人と我々は良い友となれるようなコミュニケーション能力をお互い持っていた可能性があり、現代人のDNAにネアンデルタール人のDNAがごく僅かながら残っているという事実も相まってお互いにコミュニケーションが可能であったことがわかっています。
 とはいえ、仮にネアンデルタール人が現代に蘇ったとして、現代人と同じ教育を受け、現代の「ミーム」に触れれば現代人のようになれるかと言えば難しいものかもしれません。コミュニケーション能力のレベルが現代の我々と異なる可能性があるためです。いや、現代どころか大昔から違っていたのかもしれません。「サピエンス全史(著:ユヴァル・ノア・ハラリ)」を読むに、残念ながら良い友にはなれなかったようですからやはり共生が難しい程度の隔たりがあるのでしょう。

 そんなこんなで「脳の進化とミーム論」の考察内容をまとめます。

 脳の大きさと模倣能力をはじめとしたコミュニケーション能力、これらとミームの因果関係が確かなものとは言えないものの「脳の進化とミーム論」での考察で最も重要であると私が考えているのはヒトの持つコミュニケーション能力は他の動物に比べて非常に高いということです。子どもに対する保護者の積極的な干渉にも見るように、他人に関わろうとする欲求が強いということは社会的な相互作用を強化する要因であると思われます。模倣能力と関係性への欲求の高さは集団的な模倣を必要とするミームの伝播と発展にとても有益なものとなるでしょう。脳の巨大化はどうあれ、ミーム論的には脳機能の発達とミームの発展には因果関係があるものと考えられます。

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