「自己複製子」という言葉に関しては自己複製子の「多産性」「忠実性」「長寿性」でお話ししましたが、今回はミームが持つ「自己複製子」的振る舞いと3つの要素についてさらに深掘りして考察してみたいと思います。
目次
・遺伝子という自己複製子
・ミームという自己複製子
・ミクロな視点とマクロな視点
・マクロな視点でのミームを考える
遺伝子という自己複製子
まずは自己複製子が自己複製子たりうるための3つの要素とは何かを以前の記事から抜粋して再掲載しておきます。
利己的な自己複製を繰り返す遺伝子のことをリチャード・ドーキンスは「自己複製子」と呼びました。
「自己複製子」には「多産性」「長寿性」「忠実性」と言う3つの大切な要素が備わっておりそれらの要素のパラメータのバランスが良いほどに自己複製子として良質であるとしています。
「多産性」とはひとつの複製子がたくさんの複製を行ない、自分のコピーを増やすことを意味します。
「長寿」とはそのまま、長生きすることです。
「忠実性」とはコピーされるときにどれだけ正確にコピーされているかを意味しています。
これら3つの要素はそれぞれ相互に作用していてます。
5秒に1度コピーを生み出す多産能力を持っていても3秒で崩壊してしまうような不安定な分子では多産の能力は活かされないし、ものすごく長生きしてもその一生で1度しか複製できないのでは数としての繁栄は難しくなります。
コピーの忠実性は言わずもがな、コピーする度に全く別の物を作り出していては複製とは呼べません。
それぞれの要素をバランス良く備えることで自己複製子として機能しているのです。ただ、それぞれのパラメーターは極端に高すぎても生き残りが難しくなってしまいます。
極端に高い多産生は生存環境内の栄養を仲間たちが食い果たしてしまいある程度の繁栄でストップするか全滅の可能性もあります。
極端な長寿も個体数が増えることで同様の理由で(生物種の視点では)不利益が生じます。
そして特に極端に高い忠実性のパラメーターは絶滅の可能性をとても高めてしまいます。
若干の「非忠実性」は日々変わりゆく自然選択淘汰圧の中で生き残りをかけて多様性を生み出すための大きな要因になっており、自らの完全なコピーのみを生み出していては環境の変化に対応できず全滅してしまう可能性が高くなってしまうのです。
種としての統一性を保った中で全方向的な若干の非忠実性による多様性を持ち、子世代の接種するエネルギーを親世代が明け渡すことで種として“長寿”になりうるのです。
ミームという自己複製子
てなことで、自己複製子には自己複製の機能と同時に「多産性」「長寿性」「忠実性」という3つの大事な要素がバランスよく備わっていると言えます。
では、自己複製子のひとつであるミームが持つ「多産性」「長寿性」「忠実性」とはどういうものなのでしょうか。
まず「多産性」は人々がSNSで発信することをはじめ噂話や世間話などの口コミなどによって伝搬することがわかるかと思います。
たくさんの人がある特定の噂話をたくさん話せばそのミームは多産であると言えます。
ミームにとっての「長寿性」はその噂話なり流行なりがどれほどの期間人々に共有されていたかが尺度になります。生物学的な個体の死滅はミームの死滅とは必ずしも直結するわけではありません。
ミームにとっての「忠実性」はその噂話や流行が友人や家族などに共有される時にどの程度正確に伝わるかということです。
ここまでは想像しやすく遺伝子とのアナロジーとしてもわかりやすいかと思います。
遺伝子の場合にはそれらの要素が極端に高い能力を持ってしまった場合には生物種全体が絶滅してしまう可能性を付け加えました。
ではミームの場合、それらの要素が極端に高い能力を持つとどうなるか考察してみましょう。
ミクロな視点とマクロな視点
遺伝子が「極端な多産性」を持つ場合には生存環境内の栄養を食い尽くしてしまい親世代から子世代、孫世代までが同時に全滅する可能性があります。「極端な長寿性」も他の生物に捕食されないかぎりは個体数が増え続けるので同様の理由で不利益を被ることになります。
これらの自己複製子の3要素のバランスは全ての種が同じというわけではありません。魚類は数百万個の卵を産むものもいますし、マンボウに至っては3億個くらい生むそうです。それらの出産数と類人猿やヒトの出産数を比べても意味がありません。それらの生物種特有の生活様式や環境内でのバランスが重要なのです。
さて、ここで一つ注意点があるのですが、遺伝子にしてもミームにしてもマクロな視点での繁栄とミクロな視点での繁栄があります。
生物学的な遺伝子のマクロな視点というのは生物種の繁栄と絶滅です。ある生物種が絶滅するとその生物種が持っていた遺伝子は全て失われてしまいます。
対してミクロな視点での遺伝子は生物全体が持つ遺伝子全体を指します。極端な例で言えば自己複製可能な塩基配列さえ残っていればミクロな視点での自己複製子自体は絶滅していません。
つまり、私たちが漠然と捉えているような「生物」の形を保っている必要はない可能性さえあります。今日我々(特に日本人)の多くは生命の起源を「化学進化説」であると捉えている人が多いでしょう。
科学進化説とは語弊を恐れず端的に話せば、原始の地球で無数の無機物が混ぜ合わさることで有機物が生まれその有機物が複製機能を持つことで生物の起源となったというものです。
ここで生まれる高分子の有機体を「コアセルベート」と呼び、アメーバのようにくっついたり離れたりする構造を持つ分子です。
コアセルベートが自己複製能力を得ることで生物の起源、つまりは遺伝子の起源となったという仮説があります。
この萌芽的な自己複製子は今日私たちが認識している生物の形はしていません。しかしながら自己複製可能な単位という点では遺伝子はそのレベルにまで落ちても絶滅を免れています。
私たちが生物種の絶滅を嘆いても、塩基レベルでの遺伝子にとって取るに足らない出来事かもしれません。
そういった意味ではミクロ視点での遺伝子は生物種が絶滅したり新種が生まれたりという変化はありながらも地球上で大繁栄することに成功しています。
このように、ミクロの分子的な視点で遺伝子を語るのか、生物種や生物個体のようなマクロな視点で語るのかによって繁栄と絶滅の規模が異なりますし、自己複製子の特徴3要素をどう捉えるかも変わってきます。
マクロな視点でのミームを考える
ミームを自己複製子として捉える時、ミクロな視点とマクロな視点とはどのようなものになるでしょうか。
マクロな視点というのは、生物種や生物個体が遺伝子の表現型であるように、ミームの表現型である個別の文化や習慣などがマクロな視点のミームになります。
対してミクロな視点でのミームとは・・・実のところ発見されていません。発見されていないからこそミーム論は疑似科学やオカルトと同視されるのですが、それは今後の記事で延々と語るとして、今回はマクロな視点での自己複製子3要素を考えてみたいと思います。
ミームの「多産性」は人のコミュニケーション能力に依存します。口伝にせよインターネットにせよ人々がコミュニケーションを行うことでミームは複製されていくので、人々のコミュニケーション能力の発展に伴ってミームも「多産性」が増すことになります。
口伝では小さな規模のグループや集落単位に留まりますが、インンターネットが普及した今日ではミームの多産性をより強く発揮することができています。
今後ヒトがもし長距離間でのテレパシーが可能になったなら、ミームもまたそれを利用して「多産性」を増すことでしょう。また、ミームには発情期や妊娠の期間などが無いため、遺伝子に比べて非常に早く”子”を生産できます。これもミームの多産性を高めている一因です。
ミームの「長寿性」はミーム表現型が露出する頻度に依存します。遺伝子の場合はその生物個体の寿命や生存率に依存しますが、ミームには生物的個体の生死は無関係です。法律や規則がそのわかりやすい例で、コミュニティー内で法律が共有されている限りは法律を守ること(表現型)によって生き残ります。
法の改正があったとしてもミーム的変異であってその法律自体は死滅しません。そのためミームは生物個体レベルの遺伝子に比べて長寿になりえます。
ミームの「忠実性」はヒトの模倣能力に依存します。ミームは模倣されることで伝播しますが、その模倣能力が低ければ忠実性も失われてしまいます。
法律などは専門家の見解や個人の立場によって解釈が異なる場合はあるものの国などの大きなコミュニティーによって明文化されているため個々人の模倣能力があまり影響しません。
しかし、より小さなコミュニティーである街中の流行や友人同士のグループでの噂話は模倣能力が重要になります。
「伝言ゲーム」をしたことがあるでしょうか。
改めてゲームのルールは説明しませんが、伝言するお題が最後の人に回った時には全然別の事柄に変わっていたりしますよね。簡単なお題で少人数であれば、最初のお題と最後の回答にあまり誤差は出ませんが、複雑な単語や事柄をお題にして大人数で行うとどこでどうなったのか確かめたくなるほど回答の誤差は大きくなります。
個々人の模倣能力の忠実性は低くはありませんが、模倣が重なると大きな変化を起こします。これだけ聞けば遺伝子に比べて忠実性が低いようにも思えますが、先述の通り遺伝子は次世代を生産するのに妊娠期間などを必要とするため生産の速度が遺伝子に比べて極端に早いミームと同じ時間の尺度ではなかなかは比べ辛いものです。
遺伝子も幾度となく世代を継ぐことで忠実性を守りながら少しづつ変化して多様な生物を作り出してきました。遺伝子の伝言ゲームです。それぞれの時間の尺度を揃えることができれば表現型としては遺伝子もミームも忠実性に大差はないのではないかと直感的には考えます。
ミクロな視点でのミームは今後の記事でと言いましたが、少しだけ。
ミクロな視点での遺伝子の忠実性はDNAの発見と科学的発展によって確かめることができます。今日では我が子が自分の実子であるかをDNA検査を用いて確認することさえ可能です。
ミームの場合には遺伝子にとってのDNAのような物理的単位はわかっていません。これを脳波の波形やシナプス結合の形やパターンなどとする仮説もあり脳科学の発展とともにミームにも物理的な何かが発見されるかもしれないと期待する人たちもいます。
しかし、脳のシナプス結合は一人一人異なるものなので、これはなかなか難しいでしょう。一人一人異なる脳のシナプス結合を持っていることは事実とした上で、もし仮に脳のシナプス結合のパターンがミームであるとするならば、別個体へ伝搬した時の忠実性は極端に低く、表現型だけが”極端に似通っている”というまたよくわからない状態になりかねません。
ミクロなミームの単位はヒトの個体の中にあるのでしょうか、それとも文化や流行を情報として細分化していったものが最小単位なのでしょうか。いやいや、はたまたコミュニケーションネットワークの中にある「共同主観」の中のような私たち個体の外側にあるのでしょうか。共同主観はミーム論にとってとても興味深い概念です。これはまた別の機会に。