第1回【ミームとはなにか】

 「ミーム」とは「文化を進化させる遺伝情報」だとか「人から人へコピーされる文化的情報」だとか言われるもので、文化を継承し発展していくときに人々の間でやりとりされる情報のことを指します。TwitterやfacebookのようなSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が一般化した昨今、「インターネット・ミーム」という言葉を聞いたことのある方は案外多いのかもしれません。今や「バズる」という言葉にまでなった「バズ(口コミ)マーケティング」にも「ミーム」という言葉が使われたりもします。さてそんな「ミーム」ですが、その意味を正確に理解している人はそう多くはありません。なぜならば、「ミーム」という言葉の定義自体が曖昧で、使われた方によってニュアンスによって意味に幅のある言葉だからです。私が最初に述べた「文化を継承し発展していくときに人々の間でやりとりされる情報」という一時的な定義も私の言葉で表しただけにすぎません。

 ともあれSNSを普段から利用する人たちは「インターネット・ミーム」という言葉を知らずにそのミームに触れている可能性は大きいです。例えば、「いいね」や「リツイート」「シェア」と言ったSNSのシステムはまさにインターネット・ミームを広める行為そのものなのです。また、ファッションや音楽の流行を追いかけやすい人たちもまた企業やセールスマンの仕込んだミームを広める媒体です。ここで共通するのはどちらも「流行」であり、それは人々の行為が媒介となっているということです。日々変化する若者言葉やヒットする楽曲もその一時代の文化となり、一度下火になったとしても死語が復刻したり懐メロとして再ヒットすることで死滅しかけたミームが復活することさえあります。このような流行は一過性であれその時代の文化を築きます。そこでその流行を共有する文化圏に属する人たちは皆同じミームを共有し、圏外の人々はその人たちや各種のメディアに触れることでそのミームを獲得することができます。足の痛くなりそうなハイヒールや寒々しいミニスカートの流行はミームがやりとりされることで起こるのです。「私はハイヒールを履かないからそのミームを共有していない」と感じたあなた、「世間ではハイヒールが流行っている」という認識があれば十分にハイヒールの流行ミームを共有していることになります。もちろんそれがハイヒールを滅多に履くことのない男性であってもです。つまり、ミームは行為や行動などの表現を通じて広まるものの、それを共有した者が再現するか否かに関わらず”知った”時点でミームを共有することになります。知った”情報”そのものがミームの正体です。

 では「ミーム」という言葉のミームはいつ発現したのでしょうか。それは、進化生物学者であり生物行動学者であるリチャード・ドーキンスによる1976年の著書「利己的な遺伝子」の始まります。この著書自体は「ミーム」について書かれたものではなく、遺伝子の、ひいてはDNAの利己性についての話が中心となっています。著書全体の結論としては子孫を残そうとしている者の正体は種や群れや個体ではなく遺伝子であるという話に尽き、その証拠として親が子を守る理由や、ハチやアリ類などの社会性昆虫の利他行動(集団や女王を守る為に個体が犠牲になるなど)を例に挙げ、それら個体の一見利他的な行動が、遺伝子の近親度によって起こされているということを「利己的な遺伝子」と表現したのでした。ドーキンス氏自身もその著書の中で何度も注意を促しているのですが、著書内で言われる遺伝子目線での「利己的」や「~させている」というような表現はあくまで擬人法的な例え話であって遺伝子自身に意思や意図があるという意味ではないということには注意されたい。そんな遺伝子のことをドーキンス氏は「自己複製子」と呼び、自分をコピーして増やす仕組みが主な機能で、生物の体や本能はその仕組みをよりよく働かせるための補助的なものでしかないと語る。生物を「生存機械」と呼び、「遺伝子」という自己複製子を繁栄させる為の「乗り物(ヴィークル)」とまで言っていて、種の繁栄や個体の行動を、個人のアイデンティティや自由意思といった観念的な生物観ではなく、あくまでも「遺伝子」の目線で延々と語られる。

 そうした利己的な自己複製を繰り返す遺伝子のことをドーキンス氏は「自己複製子」と呼びました。「自己複製子」には「多産性」「長寿性」「忠実性」と言う3つの大切な要素が備わっておりそれらの要素のパラメータが高いほどに自己複製子として良質であるとしています。「多産性」とはひとつの複製子がたくさんの複製を行ない、自分のコピーを増やすことを意味します。「長寿」とはそのまま、長生きすることです。「忠実性」とはコピーされるときにどれだけ正確にコピーされているかを意味しており、これらはそれぞれ相互に作用していてます。5秒に1度コピーを生み出す多産能力を持っていても3秒で崩壊してしまうような不安定な分子では多産の能力は活かされないし、ものすごく長生きしてもその一生で1度しか複製できないのでは数としての繁栄は難しくなります。コピーの忠実性は言わずもがな、コピーする度に全く別の物を作り出していては複製とは呼べません。それぞれの要素をバランス良く備えることで自己複製子として機能しているのです。ただ、それぞれのパラメーターは極端に高すぎても生き残りが難しくなってしまいます。極端に高い多産生は生存環境内の栄養を仲間たちが食い果たしてしまう可能性が高くなり、極端な長寿も個体数が増えることで同様の理由の不利益が生じます。特に極端に高い「忠実性」のパラメーターは絶滅の可能性をとても高めてしまいます。若干の「非忠実性」は日々変わりゆく自然選択淘汰圧の中で生き残りをかけて多様性を生み出すのに大きな要因になっており、自らの完全なコピーのみを生み出していては環境の変化に対応できず全滅してしまう可能性が高くなってしまうのです。種としての統一性を保った中で全方向的な若干の非忠実性による多様性を持ち、子世代の施主するエネルギーを親世代が明け渡すことで種として“長寿”になりうるのです。

 そんな話がひとしきり終わったところでドーキンス氏は唐突に「人間」について語り出します。

 著書後半まで生物について延々述べられてきた内容に人間の話は出てきませんが、それには理由があり、その理由というのが人間は遺伝子という利己的な自己複製子から解放されつつある生物だからなのですね。極端な話ではありますが、人間が遺伝子という自己複製子から解放されつつある証拠の一つがコンドームの存在です。性行為は遺伝子にとって自分の複製を生み、”自己複製”するための絶好の機会のはずですが、人間は遺伝子の自己複製を抑制しながら己の快楽のみを発散させることができます。この極端な例をはじめとした遺伝子的プログラムである本能を抑制するものが人間を取り巻く環境である”文化”です。普通、生物は自然界の中で生きており、その生物種が他の生物種と共存関係を構築しならが環境を少しだけ変化させて、それでもほとんど遺伝子のプログラムに沿って生活して環境とも共存しています。(これを「ニッチ構築」と言ったりしますが、これはまたの機会にしておきます。)しかし、人間は文化という道具を用いて自然環境を大きく変化させ、同時に遺伝子のプログラムによる欲求を抑制したり、その欲求からくる不都合を押さえ込んだりすることができるようになりました。

 ではその文化というのはどこからやってきたのか。もちろん宇宙人が現れて突然人間を文化の中に放り込んだわけもなく、神が天地創造と同時にスマートフォンを生み出したわけでもないように、草原をこそこそと走り回っていた時代の人々から徐々に発展し現代に至ります。その発展には人々がお互いに模倣することが重要で、何か新しい発見や発明を他の誰かが模倣することで広がり、模倣の間で変異を起こし、失敗を繰り返しながら成功したより良い事柄が継承され、また発展していく。そのような発展をドーキンス氏は文化的進化と表現し、そこには生物学的進化にとっての遺伝子のような何かが介在しているのではないかという類推からgene(ジーン:遺伝子)に対してギリシャ語で模倣を意味する<mimeme>からmeme(ミーム)という言葉を作り出したのでした。

 「ミーム」という言葉が(一部の人々に)知れ渡るきっかけとなった「利己的な遺伝子」ですが、その内容と当初の評価は「ミーム」に関するものではなく「利己的に振る舞う遺伝子」という部分に多くの批判や批評が集まり多くの物議を醸したようなのですが、良くも悪くも「ミーム」はそこで起きた大きな波に一緒に乗せてもらえたのでした。なにせ同じ著書内の話なのですから”今話題になっているその本”を最後まで読んだ人たちはミームのミームを共有してしまうわけですね。ハイヒールの例でいえば”知って”しまったわけです。かくしてミームはミームのミームを広めることに成功しました。

 この著書をミームの原典とするならばやはりドーキンス氏のミームの定義である「模倣により伝搬し文化を進化させる自己複製子」を第一義とするのが正しいだろうか。と考えたいところなんですがことはそんなに簡単ではないようで、「文化が進化する」という考え方は何も1976年のドーキンス氏が最初ではないのですね。それは同著の中でドーキンス自身がカール・ポッパー卿やカヴァリ=スフォルザ、クロークなどが探求している文化的進化と遺伝的進化の類似性を推し進めたいと語るように科学の発展をはじめとるす文化の進化的な発展の様子はすでに観察されていて考察もされてきたようで、「芸術論」で知られる哲学者のアランもまた船の携帯の技術的変遷やヴァイオリンの携帯の変遷などを動物の形態が環境に適したものへ変化していくことと同様として捉えていました。[金森修:フランス化学認識論の系譜(1994)]哲学者のミシェル・フーコーが「言葉と物」の中で提唱した「エピステーメー」もまたミームに近しい概念で、知識の相対のことを指しました。これは主体の外にメタ的な知識構造が置かれ、それによって構築された社会に人々は従って行動するという構造主義的な社会背景の思想が見え隠れするものの、知識の総体としての「エピステーメー」は主体(人間)の生産する知識によって変化し、ときに破滅させるという点で“進化”と“淘汰”を伴うものとなっています。もう少し噛み砕くと、一人一人の知識や考え方が集団で共有され、その共有されたそれらの思想がそれぞれの人々を動かすが、その思想もまた発展したり破滅したりすると言ったところでしょうか。法律や制度というのが最もわかりやすいですかね。こうした知識の総体というのはミーム論的に言えば「ミーム・プール」と呼ばれたりします。「ミーム・プール」という言葉も「遺伝子プール」という言葉のアナロジーだったりするのですが、この辺りも追々お話ししたいですね。

 これらのミーム以前の文化的進化論はミームほど”流行”しなかったようで、昨今では文化的な進化や流行の伝搬について語られるときにはほとんどの場合「ミーム」が用いられているように感じます。その理由の一つはやはり「利己的なミーム」の視点で語られたことにあったのではないでしょうか。生物の進化を生物に意思や欲求を脇に追いやって遺伝子の視点で語ったことで物議を醸したように、人の文化の発展を人の意思や意図を脇に置いてミームを中心としたことで「んなわけあるかい!」という批判も含めて話題になった。ともあれそうした文脈においては「ミーム」は今のところ成功を収めているでしょう。私なりのミームの定義を私は持っているものの、とりあえずは共通認識としてドーキンス氏の一義的定義である「模倣により伝搬し文化を進化させる自己複製子」としておいて良いんじゃないでしょうか。わかりやすいかどうかは別にして・・・。

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