第4回【遺伝子とのアナロジー:ミームの特徴#3】

 「遺伝子とのアナロジーから生まれたミームの特徴」3回目です。この回で遺伝子とミームのアナロジーについてはとりあえず終わりたいと思います。

塩基

 生物の体は腕や足などの部位から生命維持に必要な臓器、それらをさらに分割すればひとつの細胞にまで至り、細胞の中の細胞核内に2重螺旋構造をしたDNA鎖があります。このDNA鎖はアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)の4つの塩基から成り、それを鎖状につなげるのが糖とリン酸です。塩基+糖+リン酸が繋がったものが核酸というやつです。余談ですが、RNAでは塩基のうちチミン(T)の代わりにウラシル(U)が用いられるため塩基の数は全部で5つになります。遺伝子はDNA鎖の中にあるわけですから、物理的に細分化可能で物質的なものとして科学的に研究可能です。遺伝子のアナロジーから生まれたミームにもこうして物質的に細分化できるのでしょうか。先に結論を言ってしまうと、残念ながら今のところできません。ミームは何で構成されているのか以前に、そもそもミームの在処がわかっていないのです。遺伝子であれば細胞内の細胞核に収納されている者として特定できますが、ミームの場合にはその場所を特定できないのです。だからこそ疑似科学やオカルトとして揶揄されたりもするのですが、私はそう言った批判は甘んじで受け入れるという姿勢なのであまり気にしません。DNAの発見以前にメンデルがエンドウ豆のシワありの種(たね)とまんまるの種(たね)とを幾度も交配させて遺伝の法則を見出したように、ミームも未だ物質的な発見が無い状態でも思考実験的にちょっとした考察お遊びをすることくらいは許されてもいいでしょう。もしかしたらミーム論にもミーシャーが現れるかもしれないし。

補足:1865年オランダでメンデルはエンドウ豆を使って遺伝の法則を発見した。それと同時期の1869年ドイツでミーシャーが膿から核酸を発見。ちなみにダーウィンの「種の起原」の出版は1859年。 そして、その後70年以上が過ぎた1944年、オズワルド・エイブリーらによって遺伝子がDNAであることを証明される。

 ダーウィンとメンデルとミーシャー、同時代に生きた彼らが同じ机を囲んで議論を交わしていたら面白かったんでしょうね。メンデルはダーウィンのことを知っていたそうですが、「種の起原」は教会から非難囂々だったので修道士であったメンデルとしては仮に会いたいと思っていても会うわけにはいかなかったかもしれませんね。ドイツもスイスもオーストリアもご近所さんだし会おうと思えば会えた距離なのになぁ。

遺伝子プールとミームプール

 ミームにとっての遺伝子の塩基に相当するものが判明していないということはマクロな意味でのアナロジーにはなり得ても分子生物学てきな意味でのアナロジーは非常に難しい。否、発見されていないからこそアナロジーとして語られるわけでして決して矛盾しているというわけでもないのですが、何れにしてもミームに対して物質的な何かを求めるのは早計なようなのでもう少しマクロな視点でのアナロジーをもうひとつ紹介しておきたいと思います。

 DNAの分子である塩基というミクロな世界はざっくりと説明させてもらってご存知の通りです。次はDNAのマクロな世界での捉え方である「遺伝子プール」という単位を紹介しておきたいと思います。生物集団が持っている遺伝子の総体を「遺伝子プール」と言います。遺伝子プールという概念の“集団”には階層があり、生物の種をひとつの枠組みとすればヒト種全体から国、地域、文化圏といったそれぞれの集団に適用することができます。もちろん遺伝子的つながりのあるより小さな部族単位や家族単位にも適応可能です。端的にえば両親と子だけでもその家族の遺伝子プールを見ることができます。つまり個々の遺伝子を個別に捉えるのではなく、特定の集団の中にある遺伝子を全て掻き集めたまとまりのことを「プール」と表現した言葉になります。同様に「ミームプール」という言葉でミーム論にも稀に見られます。ヒトの持つ文化全体を指す大きな枠組みから、国、地域といった狭い文化圏にまで階層的に適用可能で、同様に家族単位のようなより狭い範囲にも適用可能となります。

模倣による繁殖と復活

 さてさて、自己複製子としての性質を持つ以上はミームも繁殖をするわけです。そしてその繁殖方法というのがまたミーム論者の間で議論の的になるもののひとつであります。

 「第1回【ミームとはなにか】」で既に述べたように、ミームは人々の模倣によって伝播します。つまり簡潔に言えば人々のコミュニケーションがミームの繁殖方法であると言えます。しかし、一概にコミュニケーションと言っても様々な形式のものがあります。私はコミュニケーションを3つの種類に分けて考えています。

 まず第一次的なものは直接人と人とが面と向かって行われる対面的なコミュニケーション。二次的なものはメールやSNSなどのインターネットを通じて行われる介在的なコミュニケーション、そして三次的なものは本や写真など保存可能なメディアを通じて行われる間接的なコミュニケーション。これら全てのコミュニケーションでミームがやり取りされているのか、はたまたもっと限定的なコミュニケーションのみでしかやり取りされないものなのでしょうか。ミームが何によって何が伝播されているのかを考察するためにこれら3段階のコミュニケーションに分けて考察します。

 一次的な対面的コミュニケーションでのミームのやり取りはわかりやすいですね。目の前にいる相手の言葉や喋り方、思想や知識を会話やボディーランゲージ、着ている服や癖などが直接やり取りされるのでミーム的繁殖が行われているであろうことが直感的ではありますが捉えやすいかと思います。次に二次的なインターネットを通じて行われる介在的コミュニケーションでは、インターネットが今日のように普及する以前には電話による会話がそれの最前線でした、人と人とのコミュニケーションの間に物が介在します。こうした介在的なコミュニケーションでもミームはやり取りされていると見なされています。「インターネット・ミーム」という言葉をご存知でしょうか。もしかしたらミームという言葉を聞いたことがなくても「インターネット・ミーム」は聞いたことがあるという方が少なくないかもしれません。匿名掲示板で流行する語尾(「……ンゴ」や「kwsk」「JK」などの省略語も含めて)や「Nyan Cat」のような動画や画像などの流行が「インターネット・ミーム」の一例です。また、「SCP財団」のような創作SFホラーもインターネット・ミームとして度々登場します。(「SCP財団」は個人的に大好きなので、まだ知らない方で都市伝説やSFが好きな方にはオススメしちゃいます。)このようにインターネット上の流行はミームとして捉えられることが一般的で、介在的ではあるもののほぼリアルタイムにやり取りされてり更新される情報は一次的な対面のコミュニケーションと大して変わりないものと今は捉えられています。少し前、ほんの10年程度前ではインターネットを通じたコミュニケーションは顔が見えないだとか直接的でないと言った理由で軽視されたり奇異な若者文化として扱われていましたが、インターネット普及の以前にだって電話やポケベルなどの介在的コミュニケーションはあったわけですから特別なものでもないのでしょう。パソコンやスマホの爆発的な普及によって今やコミュニケーションの主流にすらなりつつあります。

 では次に三次的な間接的コミュニケーションについてです。電話やインターネット発明以前はこの間接的コミュニケーションが二次的なものであったのだろうと思われます。それは主に手紙でした。介在的コミュニケーションでは空間的な隔たりを電話やパソコンなどの介在物を通じてほぼリアルタイムにコミュニケーション可能ですが、間接的コミュニケーションでは空間ではなく時間的な隔たりを超えることができます。とは言え過去に何かを伝える事は出来ませんね(笑)。あくまで未来方向に向かって保存可能であるという事です。ですので、「手紙」は私にとっては2.5次的なコミュニケーションツールであると言えます。手紙は空間的な隔たりを超えるために数日から数週間のラグを許容せねばなりません。しかし手紙を保存可能なメディアに書けば未来方向へ数十年から数百年も残ります。では、三次的な間接的コミュニケーションですがその最たる例が「書籍」つまり「本」です。本は手紙のような誰かから誰かへプライベートな情報を発信するものではりません。個人的な思想や物語、科学的な発見や発明を不特定多数の人々に発信するためのツールです。一次的な対面的コミュニケーションではプライベートな発信に特化している一方で、三次的な間接的コミュニケーションは啓蒙的な情報を発信することに特化しています。このような不特定多数へ向けて一方向的に行われるコミュニケーションでミームはやり取りされるのでしょうか。例えば1859年に出版された「種の起原」における進化論の考え方のミームはダーウィンの没後1882年以降には失われてしまったのでしょうか。科学は文化の一部であるので、科学的な情報の蓄積は文化的蓄積とも言えます。この蓄積は史実の時系列の中でミームの伝播を遡ることができるので「本の中でミームが独立して息づいている」ということではないかもしれません。では失われた文化が遺跡として発掘され、そこにあった文化を解明してその文化を規範とする人々が現代に蘇った時、絶滅したはずのミームが息を吹き返したと言えるのでしょうか。さてさて、ミームの実在性が怪しくなってまいりました。ミームは生物ではないので生死の概念に縛られないのは遺伝子の塩基と同様です。全ての生物が死滅して全ての塩基が分子的に崩壊した後、また数百億年の時間をかけて塩基が再構成され生物が誕生した時、私たちの遺伝子が受け継がれたと言えるのでしょうか。なんだか「スワンプマンの同一性問題」を彷彿させるような話になってしまいます。

 一次的、二次的コミュニケーションでは直感的に何かがやり取りされているようにも見えていましたが三次的な間接的コミュニケーションでは直感的にも曖昧なやり取りになってしまいました。絶滅してしまったミームが間接的コミュニケーションによって発見され、介在的・対面的コミュニケーションと融合することで復活するように見える。まるで琥珀の蚊から恐竜の血液を採取し、カエルのDNAとかけわせてワニの未受精卵に注入することで恐竜を復活させるジュラシックパークのような話です。尤も、ジュラシックパークのような恐竜の復活劇は現代科学では不可能なのだそうですが、ミームではそれが行われているようにも見えます。いやはやこれだから疑似科学というのは面白い。

ミームの忠実性

 3段階のコミュニケーション方法を用いてミームの忠実性を再考してみます。仏教、キリスト教、ユダヤ教それぞれに聖典や経典があるように不特定多数へ向けて多くの人々へ発信されるべきとされる情報は口伝であるよりも本による間接的コミュニケーションを用いた情報発信の方が圧倒的に広い範囲へ広めることが出来ます。しかし、宗教的な布教は宣教師による口伝が主なので対面的コミュニケーションが重要となります。宣教師たちは三次的コミュニケーションツールである聖典を持ちその教義を忠実に伝えようと一次的コミュニケーションツールを用いて努力しますが、そこで発信される情報の一次的な情報源は聖典であり宣教師の言葉による情報は二次的な物となります。情報の一次性は教祖の教えそのものですが、それを弟子たちに伝える方法は一次的なコミュニケーションである口伝であり、そこで伝わった情報はすでに二次的情報に変換されています。弟子たちは二次的な口伝情報を聖典として書き留めることで三次的コミュニケーションとして保存されます。各地に散らばり布教するときにはその三次的コミュニケーションツールである聖典を一次的情報として伝えます。ちょっとややこしく書いてしまいましたが図にすると以下のようになります。

 かなり簡潔にしてしまったのでこの図でもわかりにくいですが、まさに伝言ゲームが行われているということが言いたかったのです。伝言ゲームはお題が複雑になるほど正確に伝えることが難しくなる事はすでに自明です。しかもこの伝言ゲームにはそれぞれの弟子や信者の主観が含まれますからその忠実性が大きく失われながら伝えられていく事は大いに考えられます。このように情報は次元をまたぐごとに変換され、またその伝え方によってさらに変換されることになるため世代をまたぐごとに改変されてしまうのは致し方ありません。もしミームの忠実性が100%の忠実度を持っていたとすれば世の中にこれほど多くの宗教が生まれていなかったかもしれませんし、少なくとも同じ宗教内に対立する宗派が乱立するような事はなかったでしょう。ミームの忠実性には個人の解釈の違いや主観的な価値観が存分に入り込むのです。前回、ミームの忠実性はヒトの模倣能力に依存すると述べましたが、この能力にはこうした主観的な価値観や習慣、身体的能力までをも含むためやはり100%の忠実度をミームに求めるのは非常に難しいものでしょう。

長くなりましたので、続きはまた次回。

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