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第19回【全体子ミーム論:中編】

 今回は人と人とがミーム的繋がりを持つとき、「ミーム表現型」を介在させて結合しているのではないかという話と「強いミーム」とは何かという考察をします。

第19回【全体子ミーム論:中編】目次
人と人とは「ミーム表現型」によって結合する
「ミーム表現型」で何を伝えるのか
「ミーム表現型」から何を受け取るのか
強いミーム①:ミームの攻撃戦「流行のミーム」
強いミーム②:ミームの防衛戦「文化のミーム」
ミームの形骸化

人と人とは「ミーム表現型」によって結合する

 脳のニューロン同士はシナプス結合で、ニューラルネットワークのノードは入出力の回路によって各ノードが繋がっていましたが、ひとりの人をノード単位に置き換えたとき、人と人とは何によって繋がっているのでしょうか。心と心が目に見えない何かで繋がっていると言う方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまでミーム論的な視点で人々の繋がりを考えます。

 あなたが誰かに何かを伝えたいときに使う物のもっとも代表的な物が「言葉」でしょう。そして伝えたいことをより正確に発信するためには「言葉」に様々な要素を付け足してお話しします。

 身振り手振りのジャスチャーを加えればより分かりやすく伝えられるかもしれません。日本語の場合にはタメ語や敬語の違いもありますし、話し方にしても強調したい話の部分は抑揚が強くなるでしょうし深刻さを伝えたいなら少し重みのある声色で話すかもしれません。

 相手により興味深く話を聞いて欲しいならば言葉やジェスチャーだけでなく、見た目で与える印象を良くしようとか自分はどう見られたいか(自分の印象をどう伝えたいか)といったTPOを意識した服装も重要かもしれません。

 このようにあなたが誰かに何かを伝えようとして行ったこれら全ては、ミーム論的には「ミーム表現型」だと言えます。テレパシーのように脳に直接情報を送り込むようなことができない限りは、このミーム表現型を通して話し相手にどうにかこうにか自分の意思を伝えようとしているわけです。つまり、人が人に何かを伝えるためにはミーム表現型が常に介在する形になります。

 人と人とが情報を行き来させる時に正確な情報を直接伝達することができないと言うのは直感的にわかっていただけるかと思いますが、なぜそのようになるかと言うのは「ミーム表現型」の介在があるからです。これは何も人と人のつながりに限った話ではありません。これまでに紹介して来たニューロンのシナプス結合も電気信号を「神経伝達物質」に一度変換して次のニューロンへ伝えられていますし、ニューラルネットワークでもノードが出力した値は「重み」を通過して次のノードへ伝えられます。やはり人々の繋がりも、脳やニューラルネットワークの繋がりと同じような仕組みを持っているのではないかと考えられるわけです。


「ミーム表現型」で何を伝えるのか

 「“伝えること”と“伝わること”は違う」なんてことをよく聞きます。言葉を正確な意味で使うことはもちろん、物事を話す順序や表現力に左右されるため伝えたいことが伝わっていないと言うことはよくあります。私はこれが苦手なので当ブログも相当に読みにくいでしょう(笑)これを訓練するためにブログを開設したと言う経緯もあったりします。

 それはさておき、正確に言葉を使うことができてわかりやすく説明できたとしても、相手がその「言葉」を受け取っていなかったらどうでしょう。この場合にはどうにもなりません。

 相手に言葉を受け取る意思がないのであれば伝わるものも伝わりません。例えば服装がTPOに合っていなかった場合にはこれは起こりえることです。

 少し極端な例なのかもしれませんが、結婚式にジャージで出席した人がスピーチしたときには「言葉」ではなく「服装」に関する情報量の方が圧倒的に多いため「言葉」で伝えたいことの正確性は相対的に失われてしまうように思われます。

 もちろん逆に「ジャージで結婚式に来たやつが何を話すんだ?何か面白いエピソードがあるのか?」と興味を持たれることだってあるわけですから、話す内容によってはその服装は正解である可能性だってありますが、そこで一般的なスピーチをしてしまえばやはり印象に残るのは話の内容ではなく「場違いな服装」になります。

 しかしながら、話す順序や話し方、そして服装は話す側が修正できる部分です。話し方や表現力を訓練すれば伝えたいことを伝える能力は向上させることができるでしょうし、スピーチの時にはやはり相応の服装で行くべきなのでしょう。そうして余計な「ミーム表現型」を自ら排除することで本来伝えたいことをより正確に“伝える”ことができます。


「ミーム表現型」から何を受け取るのか

 問題は受け取る側が“何を受け取るか”です。余計な「ミーム表現型」を排除しても、行動全てが「ミーム表現型」となるわけですからそれには限界があります。テレビのアナウンサーなどは記事を読み上げる際に極力個性を抑えるのだそうですが、アナウンサーも人気商売になっている傾向が強いので最近ではそうでもないんですかね。何はともあれ、ニュース記事の読み上げには無駄な情報(方言や個性的な抑揚)を少なくしてニュースの正確(?)な情報を伝えようとしているわけです。

 それでも視聴者はニュースの内容以外のことにまで着目します。特にアナウンサーの服装はよく話題に上がりますね。以前には番組出演時に衣装を前後ろ逆に着てしまったアナウンサーの画像がかなり話題になりました。

 一見すると普通の衣装に見えるので何の気なしに見ている側としては特に違和感はないのですが、アナウンサーの衣装というのはファッションの流行などに敏感な人たちにとっては注目度が高く、そのような人たちにとっては「ニュースの内容」よりも「今日は何を着ているのか」の方が重要な情報です。すぐに衣装の着方の間違いが指摘され、それがSNSを通じて拡散されてしまいました。そして、その時にそのアナウンサーが“伝えたかったこと”はあまり話題にされませんでした。

 このアナウンサーの場合、TPOにそぐわない格好をしていたわけではないし見る人が見ないと間違いにすら気づかないものですので、アナウンサー自信が「余計なミーム表現型を排除する」ことが可能な部分はあるにしても、そもそも受け取り側の着眼点が“ニュースの内容ではない人たち”がいるということが重要な点です。

 アナウンサーの衣装の間違えに気がついた人たちが衣装ばかりに目を向けていたわけではないでしょう。しかし、少なくとも“本来伝えたいこと”の外側にある部分までをも人々は受け取るということです。これは私たちが普段友人とおしゃべりをしている時にも無意識に行っていることで、目の前で気持ちよく喋っている友人の大げさな身振り手振りを鬱陶しく感じたり、友人の軽快な喋り口に好感を持ったりといったことは“本来相手が伝えたいこと”の外側にある「ミーム表現型」を受け取っている結果です。

 私たちはミーム表現型から様々な情報を受け取ります。相手が伝えようとしていることを意識的には“理解しよう”とする一方で、アフォーダンスやシグニファイアのように無意識的に相手の意思に係わりのない情報まで自分の価値情報として受け取っています。

 「伝える」という発信側と「伝わる」という受信側の間には「ミーム表現型」が介在しており、そこには排除してもしきれない無限のミーム情報があるということを、私はうまく伝えられたのでしょうか……。


強いミーム①:ミームの攻撃戦「流行のミーム」

 話は少し変わりまして、「強いミーム」という言葉についてお話ししておきたいと思います。ミーム論に触れると「強いミーム」という言葉がたまに出てきます。多くの人々が模倣し流行を作り出すようなミームは「強いミーム」と呼ばれ、戦略的にバズマーケティングを行う場合には重要な概念となります。この強いミームとは何を指すのでしょうか。この言葉を使うときにはふたつの視点で語られることがあるためそれぞれ個別に紹介しておきます。

 ひとつはミームが他のミームを駆逐して行く攻撃戦的な強さです。攻撃戦の強さを持つミームは、これから集団内に広く伝播される可能性の高い萌芽的な流行の兆しのあるミームか、もしくはそれが成長して大きな流行として現在進行形で広範囲に伝播中のミームです。

 萌芽的な流行の兆しのあるミームは初めのうちは数人の友人グループやごく限られた地域で共有されているミームでとてもコンテクストな内容を含んでいます。この小さな集団の持つミームは極めて局所的であったり一過性ではあったりするものの、ときに隣接する他の集団へと伝播します。このとき隣接する集団(模倣する側)は自分にとって価値のある情報しか受け取りません。つまり形骸化が起こります。集団へ伝播したミームは、同じように形骸化を繰り返して他の集団へ伝播し、小さなミームを大きな流行へと成長させて行きます。

 小さなグループから大きなグループへ伝播するかたちで起こるミームの伝言ゲームは“「ミーム表現型」から何を受け取るか”でお話ししたように本来の意図とは別のミームが伝わっている場合があり、ハイコンテクストな内容を含む場合にはそれは顕著なものと思われます。そして小さな流行はより大きな流行になるときに形骸化を繰り返し当初のミームに比べて抽象的になることが往往にしてあります。

 本来の意味が失われて表面的な構造(フォーマット)だけが抽出されることで、より多くのグループで模倣されるための汎用性が高くなるためよりたくさんの集団に模倣される可能性が高くなるわけですが、コンテクストが失われて行く過程で流行をさらに広げるための“強さ”も同時に失って行くことになり、どこかの時点で「これの何が良いの?」などのような疑問が生まれてそれ以上流行が広がりにくくなっていきます。そこへまた別の集団から発生した新しいミームが “強いミーム”となって次の流行を巻き起こして行くのです。

 つまり「強いミーム」のひとつ「流行のミーム」の“強さ”とは、既存のミームを駆逐するための力を指しています。相応の“強さ”を持った流行のミームが生まれるとそれは大衆化し、ときに「文化のミーム」として長期間に渡って防衛戦を繰り広げることになります。


強いミーム②:ミームの防衛戦「文化のミーム」

 「流行のミーム」が攻撃戦を繰り広げて「文化のミーム」となったとき防衛戦が始まります。新たに出現してきた「流行のミーム」に対抗して駆逐されないように(忘れられないように)しなければなりません。

 「文化のミーム」はそのミームを共有する人たちに共通の行動を起こさせると言う点で防衛戦を繰り広げる上で「強いミーム」になっています。そして普段は特に目立った影響力は見えていないものの、その実態は莫大な影響力を持つミームです。

 文化のミームはそのほとんどが教育や学習によって身につけられるものです。特に幼少期から青年期における教育では、人々のアイデンティティをも形成するほどの影響力を持つミームとなります。人々の考え方や行動の指針は、その文化に対する個人的なアンチテーゼも含めて「文化のミーム」によって作られます。

 言語コミュニケーションに日本語を使うだとか、食事には箸を使うであるとかは日本国内に暮らす集団にとって強制性の高い文化のミームです。その中にもパスタを食べる時にはフォークを使おうだとか、味噌汁はお箸だけどコーンスープを飲む時にはスプーンを使うだとかも文化のミームの一部だと私は認識しています。

 さらに、金銭の概念は世界的に普遍化したミームであり世界的に共通の「文化のミーム」と言えるでしょう。もし共通の金銭ミームを共有していない場合には、目の前の硬貨は金属片以上の価値を生み出し得ないし、ある国の紙幣は別の国では無価値な紙切れとなることになります。しかし、国際社会という高次のホロン的集団においては、換金のシステムを通じて金銭の価値ミームを共有しているためそのシステムを活用している人たちにとってほとんど不便はありません。たとえ換金レートを知らずに海外旅行へ行ってもクレジットカード一枚でそのシステムを活用できます。

 貨幣のシステムも初期には皇帝の刻印による権威を前提としたとてもハイコンテクストな存在で、その皇帝の支配権と影響力の及ぶ周辺国のみで活用されていましたが、貨幣の利便性がフォーマット化して各国で個別の貨幣が生まれ、現在ではカードやデータのみで買い物ができるまでになっています。貨幣システムとしてはとても高度なものですが、皇帝の権威という貨幣の本来持つべきミームはほとんど形骸化していて、国家の国力と保証が背景にはあるものの、普段意識しているのは「みんながそれをそう使っているから」になってしまっています。

 ビットコインなどはその際たる例で、誰も何も保証はしてくれませんが、「みんながそれをそう使っているから」使える通貨です。この貨幣システムのミームは物品の購入にとってほとんど強制的に発現され、お互いに共有しているもの同士であればその強制性はとても有用なものです。

「貨幣システム」は国際社会という最大級のグループに共有されている「文化のミーム」であるためなかなか駆逐されにくいものですが、「日本円」という文化的貨幣に対して「ビットコイン」は一時期とても流行しました。これからの時代は全てがビットコインになるという人もいて「ビットコイン長者」と呼ばれる人たちもいたくらいでしたからとても大きな流行でした。

 しかしながら別の仮想通貨による問題に端を発してシステムの虚弱性や価値の暴落、使えるお店の少なさもあって「日本円」は「ビットコイン」に取って代わられることはありませんでした(今の所は……)。逆に「やはり実物の貨幣の方が良い」と既存の貨幣の価値を見直す向きもあったり、これまで使ってきたクレジットカードに対する不安感も煽ってしまったりと、無意識に使ってきた“お金”というものの価値観を少し変えるような出来事でもあったように感じます。

 いずれにせよ「文化のミーム」の持つ”強さ”はその防衛力にあります。表面的な流行から受ける影響が少なく、同時に人々の帰属意識を高めてくれるという一面も持つため人々のミーム表現型の発現性も高く忘れ去られることも少ないものです。言わば「文化のミーム」は集団を集団として結束させるためのホメオスタシスを保つ機能であり、「流行のミーム」はそこに刺激を与えて文化のミームのアップデートを促すという意味でアポトーシスを引き起こす機能とも言えます。

 ミームは文化を構成する単位と言われることが多いですが、強いミームが流行や文化を形成して行く過程をみると、ミーム論の視点で「文化」という言葉を説明するのであれば「特定の集団内で普遍化したミーム」のことを文化と呼ぶのです。


ミームの形骸化

蛇足ではありますが、ミームの形骸化について例を出してみます。

 昨今ハロウィーンでコスプレをする人が多いですが、元々コスプレ趣味は非常にコアでいわゆる“オタク”と呼ばれる一部の人々が消費する流行でした。それが今では10月末になればたくさんのお店で大々的にコスプレ衣装が販売され各所で大小様々なイベントが催されています。

 そして普段コスプレ趣味のない人ですら手作りの衣装を着たりもしています。漫画やアニメのキャラクターになりきりその世界観に浸ることが本来的なコスプレであったものと私は認識していますが、今のコスプレはSNSの流行とともに急速に形骸化し大衆化したことで(クオリティーの差はあれ)世界観云々よりも“別の自分を楽しむこと”の方が重要視される傾向にあります。

 コスプレの大衆化と同時期に「メイドカフェ」も話題になりましたが、それ以前の2000年前後の頃は「ゲーマーズカフェ」や「朝霧の巫女カフェ」などから始まった特定のファン層に訴えるような非常にコアな客層のコスプレ喫茶でした。

 メイド衣装や特定のキャラクターに萌える人々がそこに通い、一般的な喫茶店とは違ったサービスを行うことでそのコアな客層のニーズに答えていたわけです。この時点では一部の趣味グループとして小規模な「流行」や「話題」であったものの、大衆からすれば“オタクの行くところ”として嫌厭されているとまでは言わないまでも誰でも彼でも気軽に入る場所ではなく、その存在すら知られていないような場所でした。

 それが今では東京観光の一環で秋葉原に行きメイド喫茶に行くと言うことに一般的な抵抗が少なくなりました。もちろん「メイド喫茶」を趣味とするグループの中では新たにその奥深さを追求されているのだろうと思いますが、メイド喫茶が大衆化したことと同時に資本化されたチェーン店も増え、流行の先駆けとなった時分のようなハイコンテクストさは失われて形骸化したフォーマットが流行していると言えるでしょう。

 小規模な流行から大規模な流行へ移り変わるとき、その流行の内容についてハイコンテクストな部分が削ぎ落とされることで応用がきき共有されやすくなり、そこでまた別の集団が流行の要素を抽出して形骸化することで表面的で大規模な流行を生み出して行きます。

 こうした流行の形骸化は、ニューラルネットワークが顔認識学習において獲得する顔性(顔の抽象化)や人が学習を通じてシェマに同化する時に起こる概念の抽象化に相当すると考えています。これについては次回人々の相互結合型のミームネットワークと一緒にちょっとだけ詳しくお話しする予定です。

 ミームは形骸化することで様々な集団のミームと結びつくことが可能となり、たとえ当初の本来的な意味が失われても“流行”として出現することが可能となります。しかし同時に、本来的な意味が失われて行くということは本来のミームが持っていた“流行に対する強さ”をも失っていくことを意味します。その強さを失って行くと多くの場合には別の流行のミームによって駆逐されるか、そのミーム自体が廃れるかして失われてしまいます。

 一発屋芸人のギャグや流行語はまさにそう言うものです。爆発的に流行したギャグも翌年までには別の芸人が別の芸で流行を巻き起こし、「そういえばあの人たちは今何をやってるんだろう」と忘れられてしまったりします。「流行のミーム」とは儚いものなのです。

 ヘンリー・プロトキンもこのような形骸化したミームを「表面的なミーム」と言いました。「安売りの家電量販店」や「美味しいレストラン」の噂は既存の流行に変化を生みます。ミームの“強さ”という二つの視点は、ホロン的に低位の集団から始まる「流行のミーム」がどこまで広範囲の集団に共有されるかという視点と、形骸化した残りカスのようなミームがどれほど残って「文化のミーム」になり得るかという視点であったわけです。

 オタクの流行が文化となった例が昨今の「オタク文化」と呼ばれる現象です。オタクのミームはそれに対抗する形になる他のミームが少なく、そのうえ子供の頃から漫画やアニメ、ゲームに慣れ親しんできた人たちが社会を構成するようになると長年かけて形成されてきた潜在的オタクが顕在化して一気に文化となりました。

 大阪のUSJなどはそれをうまく取り入れた好例で、政府が2013年から推していた「クールジャパン(2015年に「クールジャパン戦略」としてまとめられた)」と大衆化した「オタク文化」をミックスして2015年に「ユニバーサル・クールジャパン」を開催し、以降は毎年話題の漫画やアニメとコラボしたアトラクションや催しを行っていますね。

「流行のミーム」は大衆化することで「文化のミーム」へと取り込まれて部分的であれ残る可能性があります。オタク文化を嫌厭する人も多いでしょうし、現代日本文化の代表かのように振舞われるのも癪に触るものがあるかもしれませんが、少なくともオタクは一過性のブームや限られた集団の消費するものではなく大衆文化として消費されるようになりました。

形骸化した「表面的なミーム」がホロン単位の範囲に共有されそれが根付いた時、そのホロン集団においては「文化のミーム」へと変化するのです。

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