ミーム論 » 第20回【全体子ミーム論:後編】

第20回【全体子ミーム論:後編】

第20回【全体子ミーム論:後編】目次
ミーム表現型からの解読
マズローの欲求五段階説と流行の伝播
相互結合型ニューラルネットワーク
全体子ミーム論

ミーム表現型からの解読

 前回の記事の前半でミームの受け渡しはミーム表現型を介した間接的なやり取りであるというお話をしました。これについてもうすこし付け加えてお話しさせてください。

 ミームの発進側が伝えたいことをミーム表現型にして伝えるとき、余計な表現型を排除して話題の指向性を高める努力をするように、ミームの受信側も正確なミームを受け取ろうと努力します。そこで行う努力とは、ミーム表現型から受け取ることのできる意図の解読です。

 ミーム表現型はその表現型が出現する文脈の中で、解読方が互いに共有されることでミームを受け渡しすることができます。その解読法は主体のシェマの中ですでに同化されている既知のミームを通すことで行われ、共通のミームによって指向性の強いミーム発信と推察的なミーム受信による精度の高いミーム伝達が可能となります。

 ときに、解読不能の表現型は「解読不能の暗号」と言う別のミームとして価値を持ち、広く伝播することもあり、この場合でもミームの読み解きができていないという点でやはり本来の「伝えたいミーム」は伝わっていないということになりますが、ひとたび解読することができれば「解読不能の暗号」としてのミームの価値は衰退し、そのミーム表現型に込められた本来のミームが復活することとなります。

 古典文学などの現代とは別の言語フォーマット(文字や文法)で記録された書物などを今の私たちがある程度理解できるのは、歴史の中にある文化の研究がある程度成熟しており当時の文化のミームを同化しているからこそ解読されるのです。

 しかし、さらに時代を遡って、古代人類の遺した洞窟壁画などの解読などは様々な研究が進められ多くの説や憶測がされているものの、解読方法のヒントである当時の文化のミームが少なすぎるうえに、現代との文化レベルの差によって推察できる領域が非常に狭いため既知のミームでは取り扱いできず当時の人々が遺そうとした本来のミームを解読するのは非常に困難な作業となっています。

 同時代においても同様にシェマに同化させているミームを基盤にしてミームを受け取るため、「伝えたいミーム」と「伝わっているミーム」には多かれ少なかれ誤差が生じることになることは致し方ないものと思います。ミーム表現型を介した間接的なやり取りは、どんなに懇切丁寧な伝達であっても、パソコンのハードディスクからUSBフラッシュメモリーへデータをコピーすることとは程遠いレベルの伝達です。それでもミームの伝達における齟齬や誤差を可能な限り少なくするためにヒトは様々なコミュニケーション能力を発展させ、様々なレベルの文化のミームをシェマに同化し、ハイコンテクストなミームを共有しあうことで円滑なミーム伝達を可能にしています。


マズローの欲求五段階説と流行の伝播

 自己評価への欲求が感情を誘導して服装の表現型への発現性を強化するように、様々な欲求は様々なミーム表現型の発現性を操作します。表現型の発現性の強化はポジティブな感情によってのみ行われるのではなく、例えば「危険」にまつわる生存欲求は「怖い」や「嫌い」などのネガティブな感情により逃走や回避という表現型を発現しています。

 現実の行動はここまで単純な感情ベクトルではなく、環境や状況によって複数の感情のベクトルが発生して総合的に判断されるものでしょう。ミームの視点でこのような人々の行動を見ると、ヒトの持つ欲求は感情のベクトルを操作して行動(ミーム表現型)の抑制と発現を推し量る一つの基準として働いているものと考えられます。

 「食べ物」や「危険」に関する欲求は集団の持つ社会的な機能や福祉制度によってある程度は保証されていますが、「生殖」に関する欲求は非常に強く抑圧されています。おそらくこれによってヒトは他の動物とは一味違った欲求の階層を構築したのではないでしょうか。そんな仮定はさておき、ヒトの欲求がミーム表現型を発現させたり抑制させたりするという話を心理学者のアブラハム・マズローが提唱した「欲求五段階説」を考察のエッセンスにしたいと思います。

 「欲求五段階説」では欲求の階層を図のようなピラミッドで表されます。一番下の階層から「生理的欲求」と「安全への欲求」を【身体的欲求】、「集団帰属と愛情への欲求」と「自尊の欲求」を【社会的欲求】、「自己実現の欲求」を【精神的欲求】と分類されます。

 下層である身体的欲求は「危険」「食べ物」「生殖」の部分となる生物的な欲求の部分です。これら3要素は程度の差はあっても常に抑制されている状態であるのがヒトの社会です。ヒトは社会的集団の中でいつでもどこでもそこら中にある食べ物を食べてはいけないし、不快(危険)な場所であっても耐え忍ばなくてはならない状況はいくらでもあります。

 欲求に対して非常に抑制的な日常を送らなくてはならないという状況に加えて、ヒトの欲求が他の生物に対して独特のものとなるのは中層の身体的欲求から顕著になります。「集団帰属と愛情への欲求」は端的にいえば孤独を嫌うということで、ヒトが社会集団を形成する基礎となる欲求です。いくら人と関わるのが嫌いで孤独を愛する人も無人島で孤独に生きようとする人は極めて稀な例であって基本的には社会的構造の中で孤独を愛しています。

 「自尊の欲求」は集団から自身が価値ある存在であり称賛や尊敬されたいという欲求です。人から尊敬されたいとか立派に見られたいとか言うと大げさですが、裏返せばつまり“未熟者”という扱いを受けたくないというようなものです。これは「集団帰属と愛情への欲求」が前提となる欲求で、高い社会性と強い自我からくる承認欲求とも言い換えられるかもしれません。

 「自己実現欲求」はさらにその傾向が強く、自分の能力の発揮や創作活動を通じて理想の自分に近付こうとするまさに自己実現への欲求です。「自尊の欲求」との違いは、それが集団や他人からの称賛であるのに対し、「自己実現欲求」には無償の自己評価が含まれている点にあります。

 マズローの欲求五段階説では下層の欲求がある程度満たされれば、ひとつ上の欲求が発現し、それが満たされればまたと欲求はどんどん上層へあがっていく構造になっています。もっともこの説には反論が多々あり、とくに調査対象であるアメリカ文化の影響がおおきいため、実際には社会や文化によっては各段階が前後することがあると言われています。

 社会や文化による各階層の欲求の前後は、どのような価値観が集団にとって重要かが個人の持つ欲求に影響を与えていることの表れであり、特定の文化のミームを獲得した主体の欲求がそのミームによって変更されたり、文化に基づいた価値観のミームが個人の欲求構築に影響を与えたりしていることを示唆している部分だと思われます。


相互結合型ニューラルネットワーク

 ニューラルネットワークには大別して2種類あることはすでに紹介しました。人工知能についての話で一般に良く出てくるのが「階層型ニューラルネットワーク」という形で、これはノードが階層を構成するように並び入力層から出力層へと一方向の入出力を行うものです。入力から出力へと一度情報が伝播することが一回の学習に相当します。

 対して「相互結合型ニューラルネットワーク」ではノード同士が相互に結びついており、ノード間には階層がありません。またその性質上、一度入力された情報が巡り巡って再入力されることがあります。情報がネットワーク内をぐるぐるとめぐり、内部が均衡状態になるか、いくつかの状態を周期的にループする状態になると学習が終了します。

 相互結合型ニューラルネットワークは1970年代に提案された「アソシアトロン」に始まり、大まかな流れとしては1982年には「ホップフィールドネットワーク」、1985年には「ボルツマンマシン」と改良されていきます。ホップフィールドネットワーク以降ではこれまで見てきたような重み付けによるノードの結合に「エネルギー」という概念が取り入れられ、学習を繰り返すことでこの値が小さくなっていくような関数の仕組みになっています。これによって入力された情報の最小値を求めていくようなネットワークを構築します。

 相互結合型のニューラルネットワークにできることの代表的なものは、学習した画像の一部を欠損させても欠損部分を補完して元の画像を再現するような「連想記憶」や、セールスマンがどの道を選択すれば移動コストを最小にできるかという「最適化問題」を得意としています。

 とまぁ、ざっくりと説明しましたが私自身はよく理解できていません(笑)しかしながら人と人との社会的つながりは相互的なもので、単純な階層構造をなしていないことからも相互結合型のネットワークと言えるのではないでしょうか。このことから私は、ミームが「文化」ないしは「流行」を生み出す仕組みは相互結合型ニューラルネットワークに近いものと考えています。

 ただ人と人との繋がりを“単純な階層構造をしていない”と言うのには理由があって、個々人の視点で見た人々の繋がりは相互結合型のネットワークではあるものの、グループや組織単位で見るとそこには階層性が見えることから基本的には個々人は相互結合している繋がりも集団単位で見れば“複雑な階層性”を含んでいるものです。

人々の相互結合ネットワークによる強いミームの抽出

 人々が相互に結合した状態を図で表しました。この6人を小規模な友人グループだとしましょう。彼らは個々にシェマを持ち様々なミームをそのシェマに同化した状態にあるため厳密にいえば同じシェマを持っている人物は誰一人いません。しかしマズローの欲求五段階説で説かれている「集団帰属と愛情への欲求」を刺激することで共通のミーム表現型を発現させることができればそのグループにおける流行を作り出すことができます。これを逆説的にいえば、そのグループにとって集団帰属性を作り出すミームを「流行」として抽出することが可能です。

 彼らはミーム表現型の一つとして赤い服飾品を身につける傾向を持っているとしましょう。ここで抽出されるのは、彼らの属するグループでは「赤色」が流行しているということです。またその共通の表現型を利用して誰かは赤いリボンをつけ、他の誰かは赤いカバンを持つように“共通の表現型をどのように利用するか”という点で「自尊の欲求」までも満たそうとすることまで可能です。

 この流行の抽出は相互結合型ニューラルネットワークの学習結果の抽出に似たものだと私は考えています。相互結合型ニューラルネットワークは各ノードの出力が安定状態になったとき全体から抽出されるものがネットワーク全体の回答であったわけですが、ヒトのミーム的相互結合もある事象についてグループ内の各主体の表現型(出力)が安定状態になったときに、そこでグループ全体から抽出された表現型(出力)の傾向をグループ全体の流行(回答)として見做せるのではないでしょうか。

 ミーム表現型の共有は「集団帰属と愛情への欲求」を満たし互いに“仲間”である認識を強めることができますが、グループの中には周りのミーム表現型に倣わない者ももちろんいて、その状態で全体が安定状態になっているということもあり得ます。倣わない者にとってはその表現型について個人的な興味の有無の差や拘りがあり、周りの者達はその者から受ける影響が少ないなどの理由で“グループにとって刺激にならない”ので安定的な状態に落ち着きます。

 この場合、倣わない物は集団帰属性を持たないのではなくグループや集団には複数の集団帰属性の事物がありそれは目に見えない「話題」や半強制的な“班分け”による繋がりである場合もあります。ただ、ときにそうした倣わない物は仲間外れにされたり仮想敵されたりしやすい対象になるというのも実感できるところではないでしょうか。

 「集団帰属と愛情への欲求」によって「流行のミーム」は主体が仲間外れにされないように積極的に表現型を発現させようとする強制性を持つ強いミームなのです。そして同時に、暗黙のルールや強制力の強い規律などの表現型は「文化のミーム」として抽出することができます。


全体子ミーム論

 実際の社会的環境の中で生きる主体はほとんどの場合複数のグループに属しています。生まれたばかりの頃は家族コミュニティーのみに属していますが、成長とともにたくさんの人と繋がって社会性を広げることで多様なグループに溶け込んで行きます。主体は個人として独立した存在である一方で、それらのグループにとって個人はグループ内のネットワークを構成するノードのひとつとして機能します。

 主体が属している各グループもホロン的性質を持つという意味で独立しており、そのグループがまた高次のホロンネットワークのひとつのノードとして部分性を発揮して機能します。それらのグループ同士は個人的な繋がりや様々なメディアを通して共通のミームをやりとりする関係にあり、同時に高次のホロンにとっては同一のグループに属する場合もあるという非常に複雑なネットワークを構築しています。

 その繋がりによって各ホロングループの持つ「流行のミーム」は入れ替わり立ち替わり変動し、そのやりとりの中で変質することで再入力されます。まさに相互結合型ネットワークの特徴です。コンピュータ上のニューラルネットワークにはノードの数に制限がありますが、人間社会の中には無数のホロン単位でノードが存在しているので最上位のホロンにとって全体が安定状態になることはほぼ無いでしょう。

 最上位のホロン階層で共通するものがあるとすれば「生理的欲求」に根ざしたような「食べる」「寝る」と言った生理的行動であり、それを抑制したり発現したりする方法はひとつ下位のホロングループになるだけで多種多様のものとなります。

 グループにとって基盤となる「文化のミーム」はその性質上変質しにくいものですが、それでも新しい技術やその時代の価値観において変化を伴うもので、その代表的なものが憲法や法律のような大きな共同体が持つ規範です。憲法や法律をミームと表現するのに抵抗がある方もいらっしゃるかもしれませんが、ヒト自身がグループを律するための決め事をグループ全体で共有できるように明文化したものであるということで言えばやはりミームの一種だといえます。家庭内のルールや友人同士の暗黙の了解などは明文化されていないだけで憲法や法律と性質は同じものです。それに違反した者に対する罰則や制裁も各ホロン単位で行われているだけでそれが影響する範囲の大小に関わらずミームと言えるでしょう。

 「ミーム」というと最近はどうしても「インターネット・ミーム」という言葉の影響が強く“いま流行っているもの”という認識がほとんどだろうと思いますが、ドーキンス氏に始まる「ミーム」の一義的な定義となる「模倣により伝搬し文化を進化させる自己複製子」という要素を忘れてしまってはいけません。

 私はこのように小さな流行から大きな規範までの全てを階層的に分解または統合できる物として「ミーム」を捉えており、これを「全体子ミーム論」としています。もっとも大きな範囲に影響する国際法から個人のシェマに同化されている認識の質まで全てをミームとして扱い、分脈において細分化されたミームを個別に捉えることで「ミームとはなにか」という問いに答えられるものと考えています。

 ということで、なんとか「前編」「中編」「後編」に収めることができました。第1回から初めて今回第20回で一区切りなのですが今後もまだまだミームについてお話ししたいことが山ほどありますので、記事は書き続けていく予定です。

 それにこれまであまり整理せずに書きためたことを再編して記事にしたので、内容が前後したりと読みにくい部分が多いと思いますので、短く要約した記事も書きたいと思っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。