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第15回【外側のミームとアフォーダンス】

ミームの所在は外側論

 「第13回【ミームはどこに在るのか】」でミームの所在について「内側論」と「外側論」に分けて考え、「第14回【内側のミームとシェマ】」で「ミームの所在は内側論」をシェマの概念を用いて考察してきました。今回は、「ミームの所在は外側論」を「アフォーダンス理論」を用いて考察します。

 【ミームはどこに在るのか】の記事で私はヘンリー・プロトキン氏とダニエル・デネット氏のミーム論について文化情報にミームの所在を設定していると解釈し「ミームの所在は外側論」に分類しました。この外側論では、ミームは主体の中に認知されている主観的な情報ではなく文化の中で共有されている情報をミームだとしています。ミームが文化というグループ単位を必要とする以上、ミームが発生するには必然的に2人以上の主体が必要になります。この2人以上の個別の主体がお互いに共有している(と感じている)概念が外側のミームです。

間主観性

 2人以上の個別の主体がお互いに共有している概念は「間主観性」という言葉に置き換えられます。主観性と客観性の分類は直感的にわかりやすいですが、間主観性はちょっと複雑です。文化という視点に立てば主観的な概念は複数以上の者には共有されていないという点で文化とは言えず、客観的な概念は主体の認識とは個別に存在するもののため文化と言うには情報の適応が大きすぎます。

 「畳のヘリを踏んではならない」と言う決まりごとをご存知でしょうか。この決まりごとは畳を文化の中に取り入れているもの同士では同意が成り立っている状態にありその理由がどうであれ(またその理由を知らなくても)畳のヘリを踏むことを避けます。この決まりごとは主体の個人的な主観による決めごとではなく文化を共有するもの同士の間主観的な概念です。しかし、この畳のヘリの決まりごとはその文化を持たないものにとってはそれを教えられない限り認識できないため客観性を持ちません。もし「畳のヘリを踏んではならない」と言う概念が客観性のあるものならば、床に敷き詰められたタイルやフローリングの継ぎ目ですら同じように踏んではならないものになりかねません。お察しの方も多いかと思いますが、この間主観性は外側のミーム論ととても相性が良い概念です。知らない者には教えれば間主観性を共有できます。つまりミームを伝播することができるのです。

 昨今の日本の住居も畳が中心ではなくなったためこの決まりごと、つまりミームを持っていない人が多いようです。あなたがもしそうならば、この記事を読んだことで「畳のヘリを踏んではならない」と言うミームに感染したことになります。文化は間主観性の概念で成り立っているのです。

一次性質と二次性質

 このような主観性・客観性・間主観性の性質はジョン・ロック氏の認識論における一次性質と二次性質の関係にも似ています。ロック氏による性質の二分化における一次性質とは客観性のある性質であり、二次性質とは主体の認識である主観に依存する性質のことを指します。

 50センチ四方ほどの立方体があるとしましょう。この直方体は50センチ四方の大きさを持ち、立方体という形を持っているというのは客観的な事実です。この客観的な事実は主体の主観に依存しません。50センチをおよそ20インチだと表現したところでその大きさは変わりませんし、直方体を正六面体と表現しても形は変わりません。こうした客観的な性質が一次性質と言われます。この50センチの立方体を私たちはどのように使うでしょうか。身長160センチもあれば、この立方体を椅子として使うことは容易でしょう。座卓文化の根付いた日本であればテーブルにもできるでしょうが、椅子に座る文化圏の人にとってはテーブルとして使うには低すぎるかもしれません。しかし小さな子ども達にとっては程よい高さのテーブルです。このような主体の認識に依存する性質を二次性質と言います。

 文化圏という言葉が出たように、ひとつの事柄はその主体が共有している文化の中で性質が変化します。その変化が内側のミームによるものだとしても外側のミームによるものだとしても、文化に内在しているミームによって二次性質は変わるのです。同時に、その性質の変化の可能性は一次性質とも密接に関わっており、物理的に可能な範囲でどのような性質にも変化する可能性を持ちます。

 これから紹介する「アフォーダンス理論」はこの一次性質と二次性質の関係を事柄自体が内在させているという考え方なのです。

主観情報からの脱却

 アフォーダンスの詳細に入る前に、まずは主観的な感覚から脱却することを意識してみます。

 ヒトが外部から情報を受け取るのは人と人とのコミュニケーションだけではないということはピアジェ氏の発生的認識論での乳幼児期の発達段階を見ても明らかです。ヒトをはじめとした動物全般が体感する刺激情報は、眼で見て、手で触り、鼻で嗅ぎ、口で味わうといったように多岐に渡るうえ、その情報量は非常に膨大な量です。それらの情報とはどのように“提供”されているのでしょうか。

「情報が提供されている」という表現は、私たちが普段意識しているような能動的な情報取得の感覚とは相容れない表現かもしれません。シェマによる外的環境の認知は主体のそれぞれの様々な経験から構築されていきますので、主体の能動的な情報収拾の形を説明していうという点では発生的認識論を比較的直感的に理解できます。

 シェマによる認知の構築は主体に同化されたシェマと外的環境を照らし合わせて内的環境へと再構築する認知方法です。これを突き詰めると人々は皆、自分自身の内側に多様な世界を持っていて、その世界を他者へ完全に理解させることは不可能のように思われます。つまりクオリア問題を含んだ意味で、私たちは他者の主観世界を理解することが出来ません。これに量子力学的な観察の解釈(注:1)を当て込んで、多様な主観世界の数だけ物質世界が構築されているというオカルティックな考え方が多くあるのも致し方ありません。しかし外的環境とは本来、観察者の主観から独立した存在です。知覚者(主体)の経験が作り出す内的環境は言葉通り個々の作り出した内側の世界であって、客観的に独立して存在する物質世界とは別物なのです。

 リンゴを何度も食べたことがある者は赤いリンゴの果実を見て「これは食べられるリンゴだ」という情報をシェマに同化されたリンゴの情報から導きだしてきますが、別の主体にとっては同じリンゴをアレルギーや好みによって「食べられないリンゴ」と認識します。このような「食べられる」「食べられない」という二次性質とは独立して一次性質としての「リンゴ」という物は物質世界に実在しています。そしてそのリンゴは「食べられるし食べられない」のです。ジェームズ・ギブソン氏はこの経験と切り離された環境にある多様な情報の可能性のことを「アフォーダンス」と呼びました。

アフォーダンス理論



 陸上競技に使用されるハードルを思い浮かべてみてください。このハードルは高さが変えられるもので、まず自身の膝の高さ程度に調節したとします。このハードルの向こう側へ行くためには自然と上を跨ぐなり飛び越えるという動作を行なうでしょう。徐々に高さを上げていき腰ほどの位置に達したとき、少し助走をつけて飛び越えるようになります。さらに少し高さを上げて腹から胸の位置に達したとき、ハードルの向こう側にマットが敷かれていれば高飛びのように背面飛びをすることもできるでしょうが、身を屈めてハードルを潜る方が楽で簡単です。このように上を飛び越えるのか下をくぐり抜けるのか(または横を素通りするのか!)どちらの行動を起こすかはハードルの前に立つ知覚者によって決定されます。そして、ハードルそのものは飛び越えることも潜り抜けることも可能であるという情報を常に保持している状態にあります。

 膝の高さのハードルは、二足で立ち上がることのできる者ならば跨ぐことが容易でありほとんどの人はそうして通過しますが、まだ歩くことのできない幼児が同じ高さのハードルを目の前にすれば潜り抜けることの方が容易です。それぞれにその方法が容易であるためそのように振る舞いますが、大人が膝下のハードルを潜ることも子供が頭上のハードルを乗り越えることも大変苦労するかもしれませんが不可能ではありません。

 つまりこのハードルはその高さがどうであれ、上を跨ぐなり飛び越えるという可能性も、下潜り抜けるという可能性も持っているということです。極端に言えば頭上数メートルにあるハードルですら棒高跳びのように上を飛び越えることができるのです。これが知覚者の経験に左右されない環境の持つ情報の可能性でありアフォーダンスと呼ばれるものの性質です。

 さきほどのリンゴの例に立ち戻るならば、「あのリンゴは甘いであろう」という情報とともに観察者によっては食べるだけではなく風に飛ばされそうな書類を押さえつける重石にもなり強盗に対して投げつける手近な武器にもなり得ます。そういった複数の情報は一個のリンゴが全て持ち得る情報であり、ひとつひとつの情報は観察者との関係において選択される特性です。このような観察者の経験による価値の特性は物の持つ本質の一部でしかありません。リンゴを重石に使った観察者もそのリンゴが食べられるものであることは勿論知っていますし、部屋に強盗が押しかけてくればそれを投げつけるのです。

包囲光

 そのアフォーダンスとはどのように知覚されているのでしょうか。アフォーダンス理論が提唱された「生態学的視覚論」では眼で見ることを中心に環境をどのように観察いるのかが主題となっています。動物が環境を知覚するための大きな要因となる器官が眼であり、五感から知覚される情報のうち視覚情報が8割から9割の情報量を占めているとも言われます。そしてギブソン氏は眼で見ることにおいて環境にある「面」を識別することで物の形や空間を認識することができることに着目し、さらにこの眼を通して我々が見ている面は「光」によって構成されていることから、ギブソン氏はこの「光」に情報があると考えました。

 普段私たちが「光」を想像するとき、太陽や電球などといった光源から直線的に発せられる放射光を思い浮かべますが、その放射光は何か物にぶつかるとその面の角度や肌理によって様々な方向へ反射するかもしくは屈折したり通り抜けたりします。反射する光の極端な例は鏡への光の放射であり、屈折し通り抜ける光は空気や水への光の放射といったものです。反射したり屈折したりして光は空間内を縦横無尽に走り抜け、光源からの直線的な放射光だけではなくあらゆる方向からの光が交差している環境に私たちは生きています。

 動物は反射したり屈折したりしてくる光を目で見ることで自身の置かれている環境を知覚することができます。言い換えれば反射や屈折を通じて縦横無尽に散乱する光が眼球の角膜を中心に交差している部分を視覚情報として知覚しているのです。

 ヒトを含む眼を持つ動物のほとんどは動き回ることができるし、体を止めていても頭が動き、眼球も動かすことができます。私たちに眼がある以上どのような状況にあっても常に視覚情報として光を受け取る環境に置かれています。こういった光の状況を、眼球を中心として考えると、環境内には隙間なく光が集中する点が存在していることに気が付くでしょう。つまり、環境の中の全ての場所(点)では、あらゆる方向からの光に常に “包囲”されていることになります。これをギブソン氏は「包囲光」と名付けました。「包囲光」は物の面や肌理の情報を視覚情報として観察者に与える(アフォード:afford)役割をするため、発光体(昼間の地球の場合には太陽、部屋の中なら電球)が放つ放射光のように眼のような受容器にとっての刺激情報である一方で環境が持つ意味情報でもあるのです。

不変項

 先述の通り動物は包囲光の中を動き回ることで光から意味情報を得ています。座った状態で見る窓の外には青空が見えていて、同じ場所で立ち上がった時に見える窓の外の景色ではバラ園が見えるかもしれません。眼球の位置が変われば包囲光の交差点の位置が代わり、先ほどとは違う意味情報を受け取ることができます。それは室内にあるテーブルや花瓶やコップにも同じことが言えます。いま机の上のマグカップにはまだコーヒーが残っているでしょうか。頭を動かすなり、カップを手にとるなりして包囲光を変化させて覗き込むことで「お湯を沸かさないといけないなぁ」と気づいたりします。

 このようにして私たちは自分が動くか物を動かすかして包囲光の構造を変えることで別の角度の面や肌理を見ることができます。視点が動かなければ物の形を認識することができないのです。しかし、このように包囲光の構造の変化を知覚して物の面や肌理を認識しているというのは実のところ簡単な話ではありません。

 長方形のテーブルをぐるりと一周しながらそのテーブルを観察すると、そのテーブルは視覚の中で台形や菱形に変化します。机の上の円柱型のマグカップは真横から見れば長方形でしかなく、覗きこむときには円形に変化しています。私たちはそれを「ぐにゃぐにゃと変形するテーブルだ」とか「マグカップの形が変わった」とは認識せず「長方形のテーブル」「円柱形のマグカップ」と認識することができます。そんなの当たり前だと思われるかもしれませんが、視覚という二次元的な情報を三次元空間として認識できるのは非常に複雑な情報処理を脳が行っているおかげです。

 ギブソン氏は脳がどのようにして二次元的な情報をどのようにして三次元的に変換しているかを「不変項」という概念を用いて説明しました。四角いテーブルの場合、テーブルの持つ一次性質として4つの辺と角は観察者がどの位置から見ているかに関わらず変化しません。そして観察者は視点を動かすことで二次元的には変化する4つの辺の長さと角の角度のうち“辺と角の変化しない関係性”を知覚します。

二次元テーブルの辺と角の変化

 テーブルの図を用意しました。テーブルのような長方形の物体を正面から見たときテーブルの天板は二次元的には等脚台形に見えます。正面からの視点を左右に移動させると角A(緑色で表現し)は角度が大きくなったり小さくなったりして変形し、天板(赤色で表現)の台形は大きく歪みます。そして正面に戻ればまた等脚台形に戻ります。この時の変形のうち辺と角度の関係の不変性を知覚することができれば三次元的な長方形のテーブルを脳内で構築することができます。この図のように完全な二次元表現ですら立体的なテーブルの形を認識できるのです。もっと広い視野でいえば、椅子に座った状態から立ち上がることで動く様々な面の変化をその物体自体の移動だと知覚しないのもこの不変性を知覚しているからです。

 このような周囲光の変形から得られる不変の情報をギブソンは「不変項」と呼びました。この「不変項」は客観性を持った一次性質です。そして物質世界での「不変項」は非常に複雑な変数を持っています。例えでは長方形のテーブルの辺と角に着目しましたが、色や材質、形態、高さなど様々な「不変項」の組み合わせをテーブルは持っています。私たちはこれらの不変項の変数をすべて個別に知覚するのではなく、必要とする様々な不変項の変数の組み合わせを受け取り情報の取捨選択によってテーブルの姿形を知覚しているのです。

知覚システム

 では「光」を知覚することができなければ環境から情報を得ることができずアフォーダンスは知覚されないのでしょうか。眼がなければ環境を内的に構築することはできないのでしょうか。

 幸い私たちは視覚の他に耳で聞き、手で触り、鼻で嗅ぎ、口で味わう、これら五感と呼ばれる知覚システムが体には備わっています。視覚による情報が環境情報の8割を占めていると言われているとはいえ、視覚のみで環境を近くしているわけではないことは自明なものでしょう。何らかの理由で視覚を失ってしまった人は音から環境を把握し、物の位置だけでなく形も知覚することができます。一般的には驚異的とも思われるこの聴覚能力は訓練によって誰でも身に付けることができるものです。真っ暗闇の部屋に閉じ込められた時、そこの広さを私たちは音によってある程度知覚できます。正確な部屋の広さを知覚することができなくても、そこが学校の教室程度のものなのか体育館ほど広いのか程度の差は認知可能です。

 聴覚によって物の形を把握できるほどの能力は非常に長い時間と膨大な経験から得られる能力であり全員がすぐに身につけられる能力ではないかもしれませんが、聴覚情報もまた重要な環境情報として受け取っていることがわかります。そして、私たちは視覚や聴覚による情報収拾訓練と同時に触覚という感覚情報の膨大な経験値を持っています。この触覚による経験値は視覚に頼らない知覚システムとしては今すぐにでも体感できるほど情報量の多い感覚です。これについて佐々木正人氏の著書「アフォーダンス-新しい認知の理論」から興味深い実験を紹介します。

慣性モーメント

 環境の情報を獲得するために触れたり振ったり叩いたりすることを「ダイナミック・タッチ」と言います。このダイナミック・タッチによる知覚は様々な情報を与えてくれるものですが、その一例として佐々木氏は「慣性モーメント」を紹介しています。

 真っ暗な場所で適当な長さの棒を持ち上げた時、その棒の長さをおおよそ把握できるのがわかるでしょう。なぜ見てもいないのに棒のおおよその長さを知覚できるのでしょうか。棒に触れることで知覚しているのは棒の材質や形などを含めた触覚情報ですが、触る場所が変われば知覚されている棒の形は変化してしまい、複数の材質で構成されている棒ならば素材についての情報も変化してしまいます。棒の形や材質を視覚で知覚できるのであれば不変項としての価値がありますが、あいにくこの部屋は真っ暗です。

 何も見えていない状況で手に持っている棒から得られる不変項は、棒を振ることで得られる力学的な性質「慣性モーメント」です。「慣性モーメント」とは簡単にいえば物体の“回転しにくさ”の指標で、棒を振るとはつまり棒を回転させる運動を起こすことになりその回転しにくさを知覚することで棒の長さを推し測ることができるのです。触覚による「慣性モーメント」の知覚は肘の関節を使って振るだけでなく、手首を回転させることで得ることもできます。この三次元的な回転運動(慣性モーメント)を知覚することで、手に持っている物体のおおよその形まで知覚できます。

佐々木正人「アフォーダンス-新しい認知の理論」から引用

 この図はグレゴリー・バートン氏らによる実験方法とその結果を「アフォーダンス-新しい認知の理論」からの引用したものです。被験者はつい立によって視覚的に遮られた右手に物体を持ち、それを振ることで目の前にある数種類の物体の中から右手に持っている物体と同じものを選ぶように言われます。図の下側がその実験結果です。100%正確に知覚しているわけではありませんが、先の尖った形と尖っていない形というような大まかな物体の区別は慣性モーメントだけで得られることがわかります。

 物体の正確な形を把握するのであれば視覚に勝る知覚情報はありません。この点で視覚情報が8割を占めるというのも頷けます。それと同時に慣性モーメントを利用したこうした実験により、環境情報を得ているのは視覚だけに頼っているわけではないということもわかるでしょう。アフォーダンスにとって重要なのは光による包囲光ではなく五感を使って知覚される不変項を知覚することなのです。ギブソン氏もこのような視覚に依らない能動的な触覚行動を「アクティブ・タッチ」と呼びました。

包囲情報

 慣性モーメントや暗闇での空間把握などをみるように外的環境を知覚するシステムは視覚だけではなく触覚や聴覚といった様々な知覚の複合体です。ギブソン氏は「光」を中心とした知覚に焦点を当てた場合にその光が交差する点を「包囲光」と表現していましたが、同様のものが「包囲音」だとか「包囲匂」として各知覚に対して存在していることを考えれば、私はそれら全ての知覚による情報を「包囲情報」と表現できると考えています。

 全ての知覚器官がその機能を発揮しているとき、環境から情報を全く受け取らない環境があり得るでしょうか。そう言った環境を意図的に作り出すことは可能かもしれないが、普段の生活の中での環境下ではほとんどあり得ない環境でしょう。観察者が環境内に在るとき、眼を閉じても耳を塞いでも他の知覚のどれかひとつでも機能しているならば、常に環境から情報を受け取っていることになります。「包囲光」に対して「包囲勾」「包囲触」「包囲音」といった様々な情報が「包囲情報」なのです。知覚器官を持った動物は常にこの「包囲情報」に囲まれており、知覚可能なアフォーダンスは空間を縦横無尽に埋め尽くしているのです。

シグニファイア

 蛇足ですが、フォーダンスという言葉はよくデザインの理論などで紹介されることが多く、アフォーダンスを抽出し知覚可能な情報をデザインに盛り込むことでユーザビリティを向上させより良いデザインを生み出すことができると考えられています。これは必ずしも間違った用法ではないのですが、厳密には何か目的のために人為的に抽出されたアフォーダンスは既にアフォーダンスではありません。アフォーダンスはあくまでも環境や対象物が持つ様々な情報の可能性を意味する言葉であり、そこから目的を持って抽出された情報のことを指しません。

 認知工学者のドナルド・ノーマンも過去に彼の著書の中でアフォーダンスについて間違った用法してしまい、後に訂正するとともに「シグニファイア」という新しい概念を作りました。「シグニファイア」は人為的なデザインによる情報の示唆であり、アフォーダンスから意図的に絞った情報を観察者に提示する方法を指します。つまりアフォーダンスとシグニファイアは入れ子の構造にあり、アフォーダンスからシグニファイアを抽出してデザインするといった使い方がより適切となります。

「ミーム」と「アフォーダンス」

 私たちヒトを含む全ての動物は包囲情報に満たされた環境下で生きています。アフォーダンスが経験則によって獲得される外的環境の意味情報であるように、ミームもまたその文化を経験することでその文化的意味が獲得される認知情報です。ミームが主体の外側にある、つまり環境の中にあるのであれば、環境情報にはアフォーダンスによる身体的な意味と、ミームによる文化的意味が含まれていることになります。

 数多ある意味情報からヒトという知覚者は必要な物をピックアップして(内側のミームとしての)シェマに同化し、それをミーム表現型として表出させることで外部環境に変化を与えます。道具の発明と開発は環境を大きく変化させてきた一つの例で、硬く鋭い板状の物体は私たちに「よく切れる」ことをアフォードし、模倣によるミーム伝播を通じて「より鋭く切れるナイフ」を発明していきます。ひとたび発明されたナイフはそのグループや集団でミームとして再度摸倣され伝播し、さらに改良が進められていくことでしょう。

 アフォーダンスをシグニファイアに変換し変化を加える工程は道具作りだけではありません。自然環境は天災や風化などの自然の力によって常に変化していきます。こうした環境の中で動物は生存をかけて環境に手を加え、環境のニッチを構築して大きな変化が起きないように努力し、ときには自然の力を凌駕する勢いで劇的な変化まで加えます。このとき動物たちが利用している蓄積された共有情報が主体の外側にあるミームという概念です。

 間主観的な環境情報であるミームを活用することで個体がそれぞれ個別に行うよりも大きな変化を環境に与えることができます。自分たちの生きやすい環境を作り出すことで危険に関するアフォーダンスを極力減らし、無害で有益なアフォーダンスで満たされるようにまた環境を変化させていきます。茨の道をつき進むことを私たちは拒否しますが、それを伐採し整地することで難なく通り抜けられるようにアフォーダンスを変化させるのです。

 ミームを最大限利用できるヒトはその能力で文明文化を発達させ、他の生物にない規模でニッチを構築し、外的環境を大きく変化させて多くのアフォーダンスをシグニファイアに変換し操作してきました。今日の私たちが生きている環境では、環境を埋め尽くしているアフォーダンスにミームが混在しており環境の中に溶け込んでいます。都市や町に住むとき、そこは文化の内部であって文化的な建築物やシステムによって生活が成り立っており、その都市文化の持つミーム表現型に囲まれています。壁と屋根のある箱状の建物は、雨風をしのぎ、そこで雨宿りをすることをアフォードするだろうし、灼熱の直射日光から隠れることをアフォードするでしょう。このアフォーダンスの知覚とともに美しい装飾や屋根の色、窓の形など文化的情報であるミームをも受け取ります。また建物の内部から窓などを覗いて外の景色を知覚するとき、単純に考えればそれらは全てアフォーダンスですが、庭園のような文化的デザインを施された景色による視覚情報は、アフォーダンス内に文化的情報であるミームを多分に含むのです。

ミームとアフォーダンスの相違

 ミームはアフォーダンスの中に溶け込んでいるため、それぞれを明確に線引きすることは難しいものだと思います。というのも、「文化のミーム」はその文化圏内ではすでに生活に溶け込んだ間主観性のあるミームであるため、その文化圏内で暮らす人々にとってはアフォーダンスとほぼ見分けのつかない無意識に認識される意味情報となっているためです。

 アフォーダンスとミームとに違いがあるとすれば、アフォーダンスが身体的経験則による意味の可能性であるのに対して、ミームは文化的情報の可能性であるという点です。例えば、日本文化には部屋の中での座る位置に上座と下座という概念があり、自分より目上の人や客人がいれば自らは上座には座りません。部屋の中に複数の椅子があり、どの椅子であっても同様に「座る」ことがアフォードされていますが、文化のミームがそれを抑制し「座ってはいけない椅子」が存在することになります。

 上座下座のミームを持つ者たちにとって、これはその場の進行を円滑にするための行動であり、部屋の状況とその場にいる人々との関係性を鑑みたアフォーダンスを識別して行動が決定されています。もちろん「座ってはいけない椅子」も「座ることができる」というアフォーダンスは持っています。単に座ることをアフォードする椅子があるからといって勝手に座ってはいけないのがヒトの(日本の?)文化社会です。

 高度な文化を持つヒトは、アフォーダンスによる近く情報だけではなく、上座がどうこうといった座る場所を始めとする目上の人より先に座ってはいけないであるとか自分が客であれば座ることを促されることを待つなどの礼儀やマナーといった文化的ミームにも常に包囲されている環境に生きています。萌芽的なミームを持つ動物たちにももちろんこのような社会的相互作用による行動の抑制が見られ、野生の狼や餌付けされた猿の群れも集団内の順位によって餌を食べる順番などが間主観的に決められています。

 “餌付けされた猿”と表現したのには理由があって、ニホンザルやアカゲザルなどの群れによく見られるボスザルという存在は実は自然界では存在していないという観察結果があるのです。これは餌付けによって限られた食物の量が決定され、その分配が群れの中に順位を生み、結果的にボスザルという存在が生まれるのではないかということらしいのですが、環境が変われば生態が変わるというのもまた動物のミーム的な振る舞いを観察できた例ではないかと思います。

 いずれにせよ、このようにミームとアフォーダンスによって包囲されている外的環境は非常に複雑な情報の入れ子構造になっており、普段の生活でそれがアフォーダンスなのかミームなのかを区別することはありませんが、事柄を精査してそれが身体的経験則による形質的意味情報(アフォーダンス)なのか文化的経験則による価値的意味情報(ミーム)なのかを分類することはある程度可能かと思います。これを要約すれば、アフォーダンスは客観性の高い概念であり、ミームは客観性を持っていないと表現できます。畳のヘリの例を見るように、ミームは間主観的な概念なのです。

間主観性とミーム

 ミームとアフォーダンスは、それぞれが持つ意味に様々な可能性を内包しているという点でとてもよく似ています。椅子がヒトに与えるアフォーダンスは「座ることができる」こと以外にも、「椅子の上に立つこと」「椅子自体を持ち上げられること(または重さによっては待ちあげられないこと)」「子供が座れるか否か」「座り心地」など様々な形質的意味情報をアフォードします。同じように、ミームもひとつのミーム表現型から得られる情報は多岐にわたります。主体がミーム的に「かわいい」と感じて身につけた装飾品が別の誰かには「かっこいい」と評価されたり、それがTPOにそぐわなければ人々を不快にさせたりすることもあります。

 装飾品の例のように、ひとつのミーム表現型から様々な情報が抽出されて伝播しているのであれば「かわいい」と感じた者と「かっこいい」と感じた者とでは別々のミームを受け取っていることになります。この場合、主体の内側にミームが在るのだと設定すれば、ミームの忠実性はとても低いものだと言わざるを得ません。ブラックモア氏のミーム論的にいえば「模倣による一つの視点から別の視点への複雑な変形」と言えますが、このような主観によるミームの変更が高頻度で付きまとうのでは文化的共同体の中であっても個別な価値基準の元でミームが伝播していることになります。これではミームが主体の内側に在るという設定は弱い主張になるように思います。

 対して、アフォーダンスのように環境の中(主体の外側)にミームが在る場合には、それが環境の持つアフォーダンスなのかミームなのかを線引きすることが難しく、それができたとしてもヒトや動物の模倣(ひいては脳)を媒介しなくては伝播することも表出することもできません。外側に所在を設定されたミームは動物の絶滅とともに姿を消し、“環境の中にある”という設定の大前提が失われます。たとえ新しい生物が誕生したり地球外の知的生命体が飛来したとしてもその環境の中にあるミームを活用することも理解することもできずミームが客観性のない存在であることが明白となるだけです。

 ミームが主体の内側にあるにしても外側にあるにしてもミームの存在は貧弱なものになってしまいました。そんなミームの所在を強い者としてくれるのが私が設定する間主観的ミームの所在論です。「間主観的ミームの所在論」についてはまたいくつかの事例を紹介しながら考察していきます。といったところでまた次回。

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