以前の記事「哲学的ゾンビとアンドロイドのクオリア」で主観的な経験のない人間がいるかもしれないというお話をしました。その時に”意識”として扱ったのが”クオリア”です。赤いリンゴを見て”赤いと感じる”その感じ、青い空を見て”青いと感じる”その感じのことをクオリアと言います。
今回はそのクオリアについてもう少し感覚的にわかりやすい思考実験「科学者メアリーの部屋」を紹介しながら、私たちの生きる世界にある物質世界と精神世界の関係性を考察したいと思います。
目次 ・科学者メアリーの部屋 ・物理主義への否定 ・メアリーが哲学ゾンビであったら ・精神世界と物的世界の二元論
科学者メアリーの部屋
哲学者フランク・ジャクソンによって提示された思考実験「科学者メアリーの部屋」は以下のようなものです。
メアリーはとても聡明な科学者ではありますが、メアリーの住む部屋の中は全てが白黒の世界です。小説の挿絵や雑誌のページ、テレビの画面までもが全てが白黒の世界で過ごしているメアリー。
科学者であるメアリーはその聡明さゆえに部屋の中にあるテレビや本などから物理的な世界に対しての全ての情報を知っています。もちろん白黒の部屋に住んでいながら”色”というものの存在も知っていますし、眼球を通して色がどのように知覚されるかも知っています。
そんな白黒の世界に住む科学者メアリーが白黒の部屋を出てカラフルな景色を見た時、メアリーは新しく何かを学ぶでしょうか。
前提条件としてメアリーは物質世界のことについては全てを知っている状態であるということ。そして、”色”の存在を知ってはいても”色”を見たことがない(この時、メアリー自身の肌の色などは無視してください)。そんな彼女が初めて色を見た時にメアリー自身が新しく得たものは何か。という思考実験です。
何も学ばず何も得るものはなかったというのも一つの答えかもしれませんが、自分自身に置き換えて考えてみてください。「富士山からの初日の出」が”美しい”と評価されることを知っていたからと言って、実際に富士山からの初日の出を自分自身の目で見た時に何も感じないということはないと思います。メアリーも同じように何かを感じ、何かを得たはずです。
カラフルな世界を見たメアリーや日の出を見たあなたの得たものとは、ずばり「主観的経験」です。この「主観的経験」こそがクオリアの正体なのです。
物理主義への懐疑
この「科学者メアリーの部屋」という思考実験は物理主義への懐疑論を展開するものです。物理主義とはこの世の全ての現象は物理的に説明可能であるという主張で、心や精神・意識までもが全て物理的に説明可能であるという立場をとります。
しかし、メアリーは物質的・物理的現象については全てを知っているはずでした。赤色というものがどのような波長の光で、それが眼球の網膜を刺激し脳の視覚野に信号が送られるという仕組みまでも知っているのです。
そんなメアリーでも実際に赤色を見た時に何かを感じた。新しく何かを学んだ。と考えると心や精神といった主観的経験(簡単にいうと内面的な感情など)は物理的な説明だけでは全てを知ることができず、少なくとも心や精神については物理主義の立場では説明できなくなります。
メアリーが哲学ゾンビであったら
白黒の部屋を飛び出し、はじめて色を見たメアリーが「わぁ!」っと声をあげたとしたら、メアリーは何かしらの”新しい感動”を覚えていることが客観的に見てわかるかもしれません。メアリーの「わぁ!」という歓喜の声を観察できれば何かしらの新しい情報を彼女は得たのだと言いたくなります。しかし、この感動の客観的観察というのが厄介なものでこれを証明する手段がありません。
もしかしたらメアリーは最初から何も感じておらず、新しい環境に置かれた瞬間に「わぁ!」と声をあげるように学習していた、もしくはそのようにプログラムされただけなのかもしれないのです。
何を感じることもなく、何も新しいことを学んでいない状態にも関わらず、客観的には何かを感じているような、何かを学んだかのように見えるのが「哲学的ゾンビ」の怖いところなのです。
もしメアリーが哲学的ゾンビであったとしたら、物理主義への否定にはなり得ません。メアリーはあくまでもそのように振る舞っただけであって、既知の情報に対して新しい何かの情報(質)を得たわけではないからです。
そして前提条件である「物質世界のことについては全てを知っている」ことにおいてはメアリーは”そのように振る舞う”ことを知っていたに過ぎず、ただ物理的にそうしただけなのかもしれません。
「クオリア問題」や「哲学的ゾンビ」の奥深さと難しさをひしひしと感じますね。
精神世界と物的世界の二元論
メアリーがクオリアを持つか、はたまた哲学的ゾンビなのかを議論してもなかなか話は先に進みませんので、自分自身、そしてあなた自身のクオリアを存在するものとして話を進めましょう。
ジャクソンが懐疑的であった物理主義はこの世の全ては物理的に説明可能であるという立場で、これを物的一元論と言います。
対して物理的情報だけでは世界を全て説明できないとする人たちは、クオリアや意識、精神やときに神の存在といった物理的に説明できないものもこの世界を構成する重要な性質の一つだとして精神世界のようなものと物質世界のふたつの(もしくは複数の)世界で成り立っているという立場をとります。これを二元論や多元論と言います。これら二元論や多元論にもざまざまな主張がありますが今回は割愛しておきましょう。
物質世界を理解するには知識があれば必要十分です。物的一元論の立場で言えば、この世界の全ての物理的情報を知ることができればこの世の全てを知っていると言ってもいいでしょう。しかし、かの有名な哲学者デカルトは物的世界に対してすらも懐疑的な立場をとり「我思うゆえに我あり」と精神世界を見つめ二元論にたどり着きました。
デカルトの言うように”我思う意識”というものが存在するようにみえたとしても、自分以外の全員は「哲学的ゾンビ」なのかもしれませんし、もしそうだったとしても世界は問題なく動き続けます。そう考えると、”意識”は物的世界にとって何の価値もないようにも思えます。
精神世界は物質世界にとって何の価値もなく影響も及ばさないということをもっと大げさに言うと、例えば手の届かない場所にあるリモコンを「こっちに来い!」と念じてみてもピクリとも動きませんし、指先に力を込めて呪文を唱えても残念ながらビームは出ないと言ったことです。思考や意識が物的世界に直接的に影響を与えることは相当に難しいことなのかもしれません。
それでも私たちには確かに意識があり、主観的経験があり、クオリアを持っていると”自覚”しています。そしてこの意識の自覚こそが主観的な精神世界にとって重要な価値であり、ひいては物的世界にとって莫大な価値を生むと私は考えています。
数学者になろうとする”あなた”は中学校で学んだ数学で何かを感じ、小説家になろうとする”あなた”は誰かの物語から何かを感じ、芸術家になろうとした”私”もまた様々な風景や造形物に感動したのです。
そして数学者になった”あなた”は自分の感動を原動力に新しい数式を生み出し、小説家になった”あなた”は他の誰かを感動させる新しい本を書き、芸術家となった”私”は新しい作品を生み出します。これら生み出されたものは十分に物的世界に影響を与えています。
私個人として精神世界と物的世界の二元論の立場をとっているのはこうした理由からです。そして私の考察対象の中核である「ミーム論」は今回で言うところの精神世界の問題です。物的世界で説明できないからと言って全てが無価値だとは思っていないのです。