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【哲学的ゾンビ】意識の観測問題と「アンドロイドのクオリア」

 すでに死んだ動物や人間が動き出し、まだ生きている人間を襲う。これは映画やゲームなどのフィクションでよく出てくるゾンビの一般的なイメージです。

 そういったSF作品でのゾンビは屍を動かしているのはウイルスだからゾンビそのものに”意識”はないと説明されて意識のある(生きている)人間とは区別されます。そのため映画の主人公たちはある程度罪悪感を排除して無差別にゾンビを倒していけるわけです。

 映画やゲームの中ではそれらしい説明がされて”ゾンビには意識がない”と言われますが、逆に”私たちには意識がある”ということはどう説明すれば良いのでしょう。意識のないゾンビのようにそれらしい説明ができるのでしょうか。もしその説明ができないとしたら……。

 私は私として確かに意識があるけれども、もしかしたら他の人々には意識なんてものはないのかもしれない。意識がないのに動いているってゾンビと同じじゃん。今回はそんな疑問から生まれた「哲学的ゾンビ」のお話し。

目次
我思う、ゆえに我あり
クオリア問題
哲学的ゾンビとは
アンドロイドにクオリアは存在するか
おすすめアンドロイド映画紹介
ーーアンドリューNDR114
ーーブレードランナー

我思う、ゆえに我あり

 私たちは普段、無根拠に「意識」というものを認識しています。自分の意識というのは主観において確かに存在しています。有名な哲学者デカルトの言葉「我思う、ゆえに我あり」はこの世界に何かが存在しているということを証明するのは難しいけれど、”今、考えている私がいるということは確かだ”という命題です。

 デカルトのこの命題は主観でしか成り立ちません。「我思う、ゆえに我あり」は”あなた”には当てはまらないのです。つまり、「我は思っている。しかしあなたが同じように”思っている”とは言えない」ということです。

 自分の持つ”意識”は自分で確認できますが、他の誰かの持つ”意識”は客観的に確認することはできません。こうした思考実験から生まれてくるのが「哲学的ゾンビ」という存在です。


クオリア問題

 そもそも”意識”とは何なのか。結論から言えば科学的な証明も説明はいまのところできていません。しかしながら心について科学や哲学の文脈で議論をするうえで”意識”を無視して話を進めるのも難しいものです。特に倫理的問題や心についての哲学では”意識”というものを無視してしまっては議論自体が成り立たない場合も多くあります。

 そこで「意識」については客観的な定義付けをできていないけれど確かに存在する”主観的感覚”というものを共通認識として議論しようということで「クオリア」という言葉が使われます。

 「クオリア」とは日本語で感覚質と言われるもので、赤い色を見たときに赤いと感じるその”感じ”のことを指します。この”感じ”は色だけに限らず私たちが普段感じているワクワク感怪我の痛みなどをはじめとした主観的に経験される感覚的な質全般を指しています。

 これらの”感じ”はある程度科学的な裏付けを付け加えることができるものの、”感じ”そのものの定量化はできません。例えば「赤色」は可視光線のうちの620〜750nmの光の波長を赤いと感じる傾向が強く、「ワクワク感」は脳で分泌されるアドレナリンやドーパミンの量である程度測ることができ、「痛み」は神経細胞から伝達される電気信号として検出することができますが、これらを”赤い”と感じたり”痛い”と感じている”その感じ”はあくまで主観的経験でしかないのです。

「赤色」は可視光線のうちの620〜750nmの光の波長とは言いましたがもっと具体的に見て見ましょう。上記の画像のなかであなたが「赤色だ」と感じるものはいくつありますか?

 真ん中のひとつだけ?それとも3〜4つでしょうか。全てが赤色の仲間だから全て赤色だ。いや、真ん中のそれですら「朱色」であって「赤色」ではない。いろいろな視点や感じ方、そして言葉の使い方によって「赤色」の感じが変化するのがわかると思います。

 図では色を区切っているので議論が行いやすいかもしれませんが、無限にグラデーションになった赤色のどこまでが赤なのかを満場一致で決定しようとしても千差万別十人十色の”赤い感じ”を統一することはほぼ不可能です。

 また、ワクワク感や痛みなども”慣れ”によって薄らぐものですよね。遊園地のジェットコースターはたまに乗るから興奮できるわけで毎日何十回も同じジェットコースターに乗せられてはワクワクドキドキもあったもんじゃないです。痛みや熱さも慣れによって軽減されたという経験は多くの人にあるでしょう。このように主観的経験ですら変化してしまうのでクオリア自体を客観的に定量化するのは難しい、というかほぼ不可能なのです。


哲学的ゾンビとは

 クオリアは客観的に定量化できない。つまり、あなたと私のクオリアを正確に照らし合わして比較することはできません。ひいては、私の主観的観測ではあなたのクオリアの存在すら証明できません

 クオリアの存在が証明できないということは、私から見ればあなたに”意識”があるかどうかも疑わしい問題となります。もし仮に、あなたに意識がなかったとしたら……。このような思考実験によって生まれるのが「哲学的ゾンビ」です。

 哲学的ゾンビは「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間(wikipediaより)」と定義されます。

 見た目上は普通の人間となんら変わらず、赤いリンゴを食べてよく熟していて美味しいと言い、風邪をひけば頭痛がすると言い、お化け屋敷で一緒に怖がるのですが、意識(クオリア)を全く持っていない人間にとってこれらの行動は”感じ”を伴っていません。

 哲学的ゾンビの脳は620〜750nmの可視光を「赤いと言え」と出力し、糖度の高い果実を「甘いと言え」と出力し、幽霊を見たら「体を震わせろ」と出力しているだけで、「赤いという感じ」「甘いという感じ」「怖いという感じ」はそこにありません。しかしそんなゾンビを見た私は”何かを感じている”と感じます

 これを現実世界に置き換えると、今日待ち合わせをしてる友人や今あなたの隣にいる恋人が「哲学的ゾンビ」ではないという客観的な保証はどこにもないということになるのです。


アンドロイドにクオリアは存在するか

 人工知能(AI)という言葉を盛んに聞くようになりました。家電にすら「人工知能搭載」と謳ったものが多くあります。正確には家電に付いている人工知能と研究室の人工知能は別物なのですがそれはまた別の話ですね。

 私たちが一般的に考えるような人工知能が超高度に発展すると「意識を持ち、人間に反逆し、アンドロイドと人間の戦争になる」なんてSFが多くあります。アンドロイド達の計算能力は人間の脳に比べて飛躍的に爆速でかつ合理的であるため人間には勝ち目がないように描写されることも多いです。

 敵対すると怖いアンドロイドですが、味方でいてくれる限りは良き友人として私たちの生活を手伝ってくれるかもしれません。炊事や洗濯を可愛らしいアンドロイドがやってくれたならめっちゃ楽チンですし、一緒に映画を見たりスポーツをしたり単なる手伝いロボットという範疇を超えた存在にもなり得ます。それが自分好みにカスタマイズできると思うと……アンドロイドには夢がありますよね

 しかし彼らアンドロイドがいくら良き友人になってくれたとしても、残念ながらクオリアの存在を証明できません。すべてはプログラムで動いており、人工知能のチップを分解したところで”意識なるもの”は出てきません。高度に発達した人工知能を搭載したアンドロイドも意識を持っているように”見えるだけ”であり全ては機械的な計算結果です。

 おそらく多くの人が想像しているアンドロイドは皮膚を一枚剥がせば無機質な金属が剥き出しになり人間離れした正体を現しますが、もしも有機的な構造物で構成されたアンドロイドであったらどうでしょう。

関連記事:人体実験が必要なくなる?培養臓器で作る「生体機能チップ」

 臓器オルガノイドを用いたアンドロイドは見た目には普通の人間と見分けのつかないかもしれません。私たちはそのようなアンドロイドに対してどのように接するべきなのでしょうか。

 高度に発達したアンドロイドは「哲学的ゾンビ」の定義にほぼあてはまります。それが”人間”ではないだけです。そして同時に、この哲学的ゾンビの定義「意識(クオリア)を全く持っていない人間」」にもはや”人間”という文言が必要なくなる時がくるのかもしれません。


おすすめアンドロイド映画紹介

アンドリューNDR114

 「アンドリューNDR114」は個人的に人工知能アンドロイド系の映画でおすすめ度ぶっちぎりのNo. 1です。この映画について知らない方はネタバレやあらすじを見ずに先に映画を見て欲しい。けどちょっとだけあらすじだけ紹介します。

 簡単なあらすじとしては家事手伝い用の人型アンドロイドに意識のようなものが芽生え、機械としての永遠の命と引き換えに人間になろうとするというもの。主人公のアンドロイドが目指す人間の体とは「有機的に自然に死ぬことのできる体」その理想形を追い求めながら”人権”までをも獲得しようとするが……といったお話し。

 1999年公開の映画ですが、度肝を抜くほど世界観が現実的です。意識を持ってしまったアンドロイドのお話しとしては珍しく平和的な映画なので戦争ものやアクションものが苦手な方にもおすすめです。


ブレードランナー

 言わずと知れたアンドロイド系映画「ブレードランナー」。SF小説の金字塔「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を原作にした映画です。

 人間社会の中に潜伏している脱走したアンドロイドを探し出し処理する。アンドロイド達は見た目だけでは普通の人間と区別がつかないため、その選別にはあるテストが必須となっている。このテストをクリアできなければアンドロイドとみなされ処理されてしまうと同時に、高度に発達したアンドロイドがクリアしてしまうという抜け道もある。

 こんなテストで人間とアンドロイドを見分けることができるのか?友人や恋人がアンドロイドでないと言えるのか?そしてそれを調査する自分自身は……?

 小説の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んで見たいけど小説を読むのが苦手という方はとりあえず映画を観てみるのもありだと思います。

 余談ですが、当ブログのタイトル「ミームは疑似科学の夢を見るか」の元ネタです。


「【哲学的ゾンビ】意識の観測問題と「アンドロイドのクオリア」」への1件の返信

  1. […]  いずれにせよ、他者の意識というのは科学的な定義が出来ておらず、故に客観的な観測は難しいものです。いわば他人は「哲学的ゾンビ」に近しく、同時にそれに”意識を感じられる”という感性もまた主観的な意識の中に閉じ込められた謎多き”ゴースト”のなせる技です。 […]

脳が機械化されたとき「思い出」は誰のものになり「私」は誰になるのか。 | ミームは疑似科学の夢を見るか へ返信する コメントをキャンセル

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