科学・哲学 » 【欲求五階層説】第六階層「自己超越」の精神

【欲求五階層説】第六階層「自己超越」の精神

 心理学者マズローによる「欲求五階層説」は「欲求五段階説」や「欲求階層説」などなど微妙に呼び方が異なる紹介をされますがどれも本質は同じです。ただ日本語の意訳が異なるだけで英語では「Maslow’s hierarchy of needs」と表記し直訳では「マズローの欲求階層」となります。

 「欲求五階層説」はヒューマニスティック心理学(人間性心理学)というものに分類される心理学の一派で「人間を全体として捉えて心理をもっと現実的で直感的に分析しようや」てな感じの分野です。還元主義的とされる行動による分析(行動主義)やフロイトのような無意識による分析(精神分析)とは一線を画すものとなっています。そのため「欲求五段階説」自体にも反論や意義はあるものの私たち一般人には直感的に受け入れやすいのでマーケティング自己啓発などでもよく使われたりしますね。

 また最終的に実は第六の階層である「自己超越」と呼ばれる階層も提唱されます。「自己超越」の階層は自己への欲求を超越して他者の欲求を満たすことに自己実現を見出す状態で、これは人類のおよそ2%しかいないとされているのですが、そんな自己超越者の逸話とも言える稲盛和夫氏のお話も最後に少ししたいと思います。

目次マズローの「欲求五階層説」とは第一階層:生理的欲求第二階層:安全への欲求第三階層:集団帰属と愛情への欲求第四階層:自尊の欲求第五階層:自己実現への欲求第六階層の自己超越へ……稲盛和夫の精神

マズローの「欲求五階層説」とは

マズローの提唱した欲求の階層ピラミッドは上記のような図で示され五階層に分けられます。下から順に「生理的欲求」「安全への欲求」「集団帰属と愛情への欲求」「自尊の欲求」「自己実現の欲求」となり、下層の欲求であるほど生理的に強い欲求となります。

 さらに下から2つの階層は「身体的欲求」、中2階層は「社会的欲求」、最上階層は「精神的欲求」と分けられ、特に最上位の「自己実現の欲求」は他の階層と一線を隠した特別な欲求となっています。それぞれの名称を見るだけでもなんとなく直感的に分かりますよね。ヒューマニスティック心理学(人間性心理学)の賜物と言ったところでしょうか。それではそれぞれの欲求について少し詳しく見ていきましょう。


第一階層:生理的欲求

 第一段階の生理的欲求は「食欲」「水分補給」「睡眠」「排泄」そして「性欲」と言った人間の持つ生物的な欲求の階層です。これらの欲求が自然に芽生え満たされることで動物は生命維持が可能となります。つまり生きるために最低限の欲求と言うことですね。これ以上に語ることもない最も根源的な欲求です(笑)


第二階層:安全への欲求

 第二段階の安全への欲求は読んで時の如く「安心」や「安全」を求める欲求です。動物的な例で言えばいくらお腹が空いていても食えば毒になるものは避けますし、自分たちの寝ぐらは外敵から比較的狙われにくい木の上や土の中に構えようとします。また、捕食者に見つかれば一目散に安全な場所へ逃げることでしょう。ヒトの生活に照らして考えるならば病気や事故を回避しようとする欲求です。この安全への欲求は第一段階の生理的欲求と密接に関わっていることがわかるかと思います。

 先述の通りいくらお腹が空いていても毒物は食べませんし、いくら眠くてもその辺で無防備に寝転がるなんてことはしません(自然界ではね……)。しかしながらそれらにも限界があり、安全への欲求が満たされないと判断した場合には食べたことのない物を食べ、限界まで体力を使ってしまった場合には捕食者から狙われていても足を止めてへたり込んでしまいます。

 ヒトであっても例外ではありません。可能な限り安全な方法で生理的欲求を満たそうとしますがそれが満たされない場合には安全への欲求を排除する動きが見られます。ある芸人さんが学生時代の厳しい部活中(サッカー)に”水分補給禁止”に耐えられす水溜りの泥水に滑り込んで泥水を啜ったなんて話していましたがまさに安全への欲求を捨てた瞬間でしょう。

 ヒトを除いたほとんどの動物はこの「生理的欲求」と「安全への欲求」を超えることはないとも言われます。ただし、イヌ科や類人猿などの社会性を持つ動物はその生活様式から社会的欲求の有無まで考えられますが、話が脱線するので次にいきましょう。


第三階層:集団帰属と愛情への欲求

 なんか急に難しそうな言葉になりましたが、要するに自分の属する社会から受け入れられたいと言う欲求です。普段何気なく誰かとしている普通の会話は「集団帰属」を満たす欲求の現れとも言えます。またそこでの共通の話題を持つことや同じ趣味同じ物を持とうとする行動も集団への帰属意識から発せられます。友人グループが皆でお揃いのグッズを身につけたり同じドラマや同じ芸能人の話題で盛り上がるのは集団帰属の欲求が顕著に現れる行動です。

 同じ話題を持っている同じ趣味を持っていると言うのは人間の持つ社会性にとって非常に重要な要素で、たとえ学校のクラスに馴染めず孤立してしまっていても部活や少年野球などの仲間から受け入れられていると言うだけで少し救われますよね。

 この欲求が満たされないと「孤独感」や「社会的不安」を感じ、をはじめとする症状や完全な引きこもり状態などの社会性を無視できる行動を起こすことで帰属への欲求から生まれる心理的不協和から逃れようとしてしまいます。


第四階層:自尊の欲求

 第四段階の自尊の欲求自分の属する社会から認められたいと言う欲求です。言い換えると「承認欲求」とも言います。集団帰属の欲求では”受け入れられたい”でしたが自尊の欲求では”認められたい”になります。また自分に対する承認だけでなく、自分から他者に対する承認もここに含まれます。つまり互いに認め合い尊重し合うような関係性ですね。

 具体的には自身にカリスマ性を求めたり、部活や会社などで地位や名誉を求めようとする「出世欲」がこの自尊の欲求にあたり、またそうした人を認めて自身も付き従うことで社会構造の安定や円滑なコミュニケーションを行おうとする行動を指します。人から尊敬されたり(出世欲)褒められたり(他者承認)することで自尊心を満たしたいと言う欲求は集団帰属の欲求と密接に関わっており、友人グループの中でいち早く有益な情報を仕入れようとしたり新しいグッズを持ち込んでそれを皆に共有してもらおうとする行動はまさに”承認欲求”ですね。こうした欲求が満たされない場合には他者に対する劣等感を抱くようになります。

 どれだけ仕事を頑張っても出世できない、テストで良い成績を取っても誰も褒めてくれないとなれば「なんのために頑張っているんだ……」と落ち込んでしまいます。

 これらは紹介したものは他者からの承認に対する欲求でしたが、より高次の「自己承認欲求」も自尊の欲求に含まれます。自己承認欲求は自身の持つ技術知識に裏付けされた自立心自律性を得ることで満たされます。技術や知識の習得に満足感を得られるのはこの「自己承認欲求」が満たされるためです。

 たとえ帰属する集団に自身の持つ技術や知識が認められなくとも”自分はこんなにできるんだ”と言う自信を持つことができれば他者に対する劣等感を少なくすることができるでしょう。そして自分自身を認めることができることによって他者の存在も受け入れやすく承認しやすくなります。そう言った社会性の中に「自尊の欲求」はあります。ですので社会的な承認欲求不満を自己承認欲求で満たそうとするのは現実逃避にもつながりかねないので注意が必要かもしれません。

 ここまでの一段階から五段階までの欲求階層は「欠乏欲求」と分類されることがあり、満たされていない”何か”を求めるための欲求であると言えます。ヒトは強欲で貪欲なんて言うこともありますが、全てが満たされていると感じている人はものすごく少ないのでしょう。しかし、だからこそ新しい文化の流行や技術の発展・革新が出てくるものだと私は考えていますし、ヒトが他の動物と一線を画する存在になった大きな要因だを考えています。


第五階層:自己実現への欲求

 さて最高次の自己実現への欲求は「自分とは何者なのか」「人生とは何なのか」「あるべき自分とは何なのか」と言ったものすごく個人的で抽象的な欲求になります。そして四段階までが「欠乏欲求」であったのに対して「成長欲求存在欲求」と言われます。

 自己実現欲求とは似て非なるもので、自己実現欲求で求められる精神性は比較的社会性が低いものになります。具体的には自身の持つ「可能性」「創造性」「行動性」「探究性」などの欲求によって動かされるもので、そこに他者評価を求めません。そこで生み出されたものが結果的に社会的に有意義なものであることは多々ありますが、社会的に認められることよりも自分自身の探究心や創造性に重点が置かれている状態であることが特徴となります。

 また自己実現欲求に至ると起こった事実や真実をありのまま先入観なく受け入れることのできる状態になるんだそうです。うーん、なかなか難しいですね。


 以上がマズローの「欲求五階層説」の簡単な解説でした。場合によってはもっと細かく分類されたり、分類の種類や言い方などが異なる場合がありますがどれも似たような感じです。


第六階層の自己超越へ……稲盛和夫の精神

 「マズローの欲求五階層説」はマズローが晩年もう一つ上の階層を提唱しました。それが第六階層の「自己超越」です。この「自己超越」の階層は端的にいうと”無欲”の状態です。仏教的には「悟り」に近い表現でしょうか。”欲求”なのに”無欲”とはこれいかに。

 五段階までの欲求は全て自分のための欲求でした。対して「自己超越」での欲求は自分ではない誰かのためへの欲求です。そしてそれを成し遂げたときに得られる物こそが自己実現の本質だというものになります。

 なんだか途端にスピリチュアルな話に聞こえてきましたが、実社会に置き換えるならばDDI(第二電電)(現KDDI)を立ち上げた稲盛和夫氏の「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉に表れるような行動指針を指すのでしょう。

 1984年に電気通信事業が国営から自由化され電電公社(日本電信電話公社)日本電信電話株式会社(NTT)へと民営化された後、稲盛和夫氏が電気通信事業へ新規参入をするときに「これは国民のためにやるべきだ。その動機に私利私欲はないか。この動機は善であるか」と自身に問うたそうでその逸話は多くの企業で語り草となりそれを経営指針としている会社もあります。

 人が何か大きなイノベーションを起こそうとするとき、その動機はお金儲け承認欲求であってはなかなか難しいのかもしれません。しかし、当時の稲盛和夫氏はすでに京セラの設立経営者として成功を収め私のような他者目線では五階層欲求のほとんどを得ていたようにも見えます。そのような状態であったからこそ自己超越的な行動指針によって大きなリスクを負ってでもDDI(第二電電)の立ち上げへと踏み切ることができたのでしょう。

 自己超越者は人類の2%程度だそうですが、2019年時点で人類の世界人口は77億人とも言われそのうちの2%といえば1億5千4百万(154000000)人ほどになります。あれ?結構多くない?(笑)

 世界人口は全ての世代を合わせた人数ですからまだ未就学の子供から学生、今バリバリ頑張っている現役の社会人から社長まで幅広い層の中での2%と思えばそんなに多くないのかもしれません。

 とはいえ社会というのはそうした2%の人々が動かしているのではありません。大きなイノベーションが起こるのはごく少数の人々の功績による物であることが多いのかもしれませんが、普段社会を構成し動かしているのは多くの一般人です。自分への欲求は決して悪いことではありません。

 マズローの階層欲求から読み解けるのは、自己承認と他者承認の尊重と関係性こそが社会を円滑に動かす欲求だということです。自分のやりたいことやるためには他者のそれを認めなければいけませんし、自分を欲求の次元を高めてくれるのは他者の協力や承認のおかげなのですからやはりリスペクトのある社会構造というのはとても大切ですね。

 余談ですがそういえば超高IQ保持者の集まりと言われるMENSA(メンサ)も上位2%のIQだそうですね。彼らがイコール”自己超越者”であるとは限りませんがここに陰謀論とかを絡めると「上位数%の人々が世界を操作している」とかいう都市伝説に発展しかねませんね。数字のトリックにはくれぐれもご注意を。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。