第0回【オカルトとしてのミームと私】

 多くの人が「ミーム」という単語を聞いたことがないか、聞いたことはあっても意味までは知らないのではないでしょうか。もし「ミーム」という言葉に興味があってここにたどり着いてくれた人がいたとすれば数少ない仲間に見つけられたようで嬉しい限りです。「ミームとはなにか」という問いには次回以降に少しづつお話ししていきたいと思いますが、端的にいうと「文化が進化する時の情報的遺伝子」と言ったところでしょうか。遺伝子的情報ではなく情報的遺伝子であることが味噌かなぁと考えたりしたのですが、この辺は追々。 「ミーム」という言葉を造語したのはイギリスの進化生物学者であり動物行動学者であるリチャード・ドーキンス氏であり、氏の著書「利己的な遺伝子」の中で進化する生物の遺伝子と発展(進化)する文化とのアナロジー(類推)によって造語されました。生物が多種多様に変異しながら自然選択によって淘汰され遺伝子的に適応していくように、文化も多様に分岐しながら淘汰されて発展していくのだろうと類推され、文化にとっての遺伝子(gene)的存在をミーム(meme)と名付けたのでした。その後、心理学者のヘンリー・プロトキンや哲学者であり認知科学者の第二エル・デネット、マイクロソフトのwordを製作したリチャード・ブロディなどなど様々な分野でミームは考察され語られてきました。

 さて、突然ですが、神様を信じていますか。宇宙人はこの宇宙のどこかにいるでしょうか。シャワーを浴びているときに感じる背後の気配の存在を信じていますか。そして、「ミーム」の存在を信じていますか。胡散臭いことを急に言ってしまいましたが、これらの存在はいわゆるオカルトと呼ばれ、神秘や超自然と言った言葉で表すとわかりやすいです。このような超自然的な物事を科学的な文脈で語ろうとすることを疑似科学と言ったりしますね。他にも類語で病的科学や似非科学、プロトサイエンスやニューエイジサイエンスなど言われていて、それぞれに微妙にニュアンスの違う言葉ではあるものの一般的には「疑似科学」と総称されてる感じでしょうか。何れにせよ科学ではない物として区別されていて、時には科学の真似事をして人々に誤謬を吹き込むような蔑まれる対象であったりもします。宇宙人との交流や神の実在について科学的に語ろうとすれば、おそらく多くの人には(特に日本では)バカバカしく映ることでしょう。信仰や思想を直接的に否定はされることは少ないものの、それを科学的に共有しようとすれば「ちょっと待ってくれ」と話の腰を折られること必至です。

 なぜ唐突にこんな話をしたかお察しの方もいらっしゃるかと思いますが、ミームもこの疑似科学の一員です。しかしながらことにミームというやつは厄介で、その始まりが科学的な文脈である「遺伝子学」や「生物学」との類推に基づいて生まれてきた非科学であるので、知的好奇心を刺激されやすい人たち(私を含めて)にとっては非常に科学的誤謬を生みやすい。その点では科学者や科学を信仰する人々にとっては幽霊の存在や都市伝説的陰謀論よりもはるかに非難の的になりやすく現になっているのが実情です。こう語る私自身もミームを科学であると述べるつもりはありません。そして、当記事の最初の短い一節を読んで”科学的だ”と感じた方も多いと思いますし、私はそう感じさせるように書いた意図があることも否定しません。しかし、この記事全体を通して私はミームを科学であるとは言いません。私がこれから始めるブログ形式の一連の記事では科学的な検証や実験、種々の科学理論を用いながら「ミームとはなにか」を考察するつもりなのですが、これは「ミームは科学である」という主張でがしたいのではないということを最初に言っておきたかったのでこんな書きはじめになってしまいました。

 ただし、疑似科学は疑似科学としての矜持があったりしますので、科学的に検証のしようがなかろうが「ミーム論」が死に絶えるべきだとも思わないのです。オカルトとは信仰や思想であったりしますよね。ミームはまさに思想の一形態だと考えています。信心深い人々が自らの罪を告白したり、思いがけない幸運に感謝の祈りを捧げるように、私は私の疑問や幸運に対してにミーム論的解決を試みています。と同時に、頭の片隅ではミームが科学の一分野として目を出す日が来るかもしれないという一抹の希望も捨てていません。そもそも科学と疑似科学はシームレスな関係で科学哲学的には基準が曖昧になっており「線引き問題」を抱えている状態でもあります。(まぁ、その線引きのどれを取ってしても「ミーム」が科学になることはかなっていないわけですが。)もちろん「ミーム」を科学として捉える人たちもいて、一部では「ミーム学」と呼ばれたりもしています。日本の一般的には科学と対極にあると感じられているような神学の分野は先に述べたようにオカルトでありながら学問として大学での講義が成立していたりもしますし、それは信仰の思想史的な一面があるから学問としているという側面があるにしても宗教的概念を論理的に考察しようということが科学哲学的にはどう解釈されているかは別にして受け入れられているような気がします。とはいえ、私としてはミームはまだ学術的にも教育機関的にも体系づけられておらず学問未満の理論であって「ミーム論」と呼ぶにとどめたいと考えています。何れにせよ、ミームが科学であろうがなかろうが私に取っては今の所大きな問題ではありません。私の思想体系にミームのミームが”感染”してしまってからこれまで、思考のどこかでミーム論が介在することによって様々な知的好奇心が刺激されて興味の幅を広げてきたことは事実です。そう言った意味で、私はミームを必要としているし、それが科学であるか否かは重要ではないということです。

 科学的な批判は科学者たちにお任せして、ミーム論に対する一般的な批判としては「ミーム論者は何でもかんでもミームのせいにしたがる」というのが最も多いものではないかと思います。その通りです。ミーム論者はなんでもかんでも「これはミームだ!」と言います。これは疑似科学の悪いところでもあり面白いところでもあります。「これは宇宙人のせいだ!」とか「これは神の奇跡だ!」ということと全く同じで、科学的根拠なくそれらしい証拠と最もらしい文脈を用意して誤謬の渦に引き込もうとします。私がこれから始める一連の記事でも「これはミームのせいだ」という論調を多々やってしまいかと思いますが、私がやりたいのはミーム論者の視点から様々な事象を見てみることで事象を深掘りしてみようというものです。同じようなものと思われるかもしれませんが、このような意識があることだけはあらかじめ言っておこうかと思います。

 繰り返しになりますが、私はこの一連の記事を通じて行いたいことは科学的誤謬を広めることではありません。ミームのミームを広めたいとは思います(笑)だからこそ、ミームが内包している疑似化学的過誤や誤謬をここに宣言しておいてこれからもミームの世界を楽しみたいと思います。

 ちなみにこのブログのタイトル「ミームは疑似科学の夢を見るか」は言わずもがなフィリップ・K・ディック氏のSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」からです。アンドロイドは心や意思そして願望を持つのかと言った疑問を私はミームに抱きます。人々は心の実在なしに心の存在を確信し、人のみならず動物やアンドロイドにもそれを感じるかもしれない。心の実在の根拠を誰も示せないまま私たちは心を認知しています。そんな漠然とした認知の仕方を私はミームにもしているわけです。

 さらに、副題にしている「もしミームが答えなら、何が問題なのだ?」はミームについての議論がたくさん収められている「ダーウィン文化論」という著書から、ミーム否定派であるアダム・クーパー氏の抗議タイトルです。彼はアナロジーを用いて論争をすることや、メタファー(隠喩)が相同であるかのように扱われかねない危険性などをあげてミーム論に懐疑的な立場として登場します。そして本当にミームを認めて欲しいなら魔術的な方法ではなくちゃんとした研究方法でやんなさいと。関西弁に翻訳すれば「ミーム?だからなんやねん。」と言ったところでしょうか。副題に彼の言葉を借りたのも心のどこかにミーム否定派な私自身がいる気がして、この言葉がずっと引っかかってるんですよね。まぁ、それでも私はミーム論が好きなんです。楽しいから。

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