【マインドタイム】意識は脳活動の0.5秒後に発生すると言う科学的証拠【主観的な遡及】

 「意識とは何か」

 当ブログでも度々取り上げている命題ですが、これに対して科学的に答えるのは非常に困難です。

 ”意識”について科学的にどう扱うかを考えると、そもそも”意識”と言うものを客観的に観測できない(意識の存在を科学的に証明できない)と言う問題「哲学的ゾンビ」が付き纏うのですが、

 意識の存在について科学的に証明できないとはいえ「確かに私には意識がある」と言う漠然とした確信も持っています。

 その確信は”自分自身”の自由意志に対する確信であると同時に、他者も同じように意識を持っていると言う(これもまた)漠然とした確信を持っています。

 このような”意識”について「意識」がどこから発生何の役に立つのかの研究は継続的に行われていますが、それらのような研究においてベンジャミン・リベットは”とりあえず報告可能な意識はあるもの”として他者の意識の存在をある程度認めた上で、「人が行動するとき脳と意識はどちらが先に働くのか」を実験的に示しました。

 そのリベットによる実験の結果「意識は脳活動の0.5秒後に発生している」と言う驚くべきデータが得られます。

目次
意識は脳から発生する
意識による行動の最終責任論
脳が刺激を感じるのには0.5秒かかる
矛盾する時間的感覚
逆転する反応のタイミング
意識が時間を遡る
なぜバットでボールを打てるのか
意識による意思決定経験の蓄積と無意識
意識とは何か


意識は脳から発生する

 まずもって”意識”というものがどこにあるのか。

 アリストテレスの時代には「」は心臓に宿ると考えられていた時代もあり、また時代を経た現在においても感覚的にドキドキと脈打つ心臓に対して”ここに心がある”と感じる人は多いかも知れません。

 しかしながら、心臓臓器移植の技術が発展した昨今では心臓を移植しても記憶や意識が途切れることなく自己統一性(アイデンティティ)が継続することがわかっています。

 食べ物の好みが変わることが稀にあることや、果てはドナーの記憶を引き継いだなんてこともあるようですが、これらはいずれにせよ移植された心臓に意識が乗っ取られたわけではありません

 また心臓以外の臓器を移植した場合にも同様のことが起こることがあり、これらもまた意識を乗っ取るようなことはしません。

 これらのことから”意識が宿る場所”はやはり「脳」であろうことがある程度観測的にわかっています。

 つまるところ、脳には外界の刺激を認識するという役割があると同時にその”認識している”という感覚までをも生み出している場所。つまり「意識」のある場所ということです。

 心臓をはじめとする臓器の移植は””にとって言えば外界の刺激に他なりません。この意味において臓器移植による脳の認知的変化はあって然るべきだろうと考えられますし

 そもそも”一命を取り留めた”そして”他者の臓器をいただいた”という「意識」はその人にとって大きな心境の変化を生み出すであろうことは容易に想像がつくので、食に対する考え方や感じ方が変化したり多少性格が変わるのは当然のことのようにも考えられます。

 ということでアイデンティティの持続性をもってして以後「意識は脳に宿っている」という前提で話を進めますし、今回紹介しているリベットの「マインドタイム」でも意識は脳に宿るものとして話を進めています。


意識による行動の最終責任論

 私たちが普段何か行動を起こそうとする時、例えば目の前にあるマグカップに手を伸ばそうとする時「喉が乾いたからコーヒーを一口飲もう」だとか「甘いものが欲しいからジュースを一口飲もう」だとかいちいち言語化まではせずとも”自分自身の自由意志による決定による結果”としてマグカップを手にとります。

 この時に言う「自由意志」とは「コーヒーを飲む」と言う選択肢の他に「喉が乾いたのだからコーヒーではなく水にしよう」だとか「ジュースではなくチョコレートにしよう」だとかそれぞれ個別に(それも膨大な量の)選択肢があり、その選択肢の中から実現可能な範囲で意思決定すると言う意味での「自由意志」です。

 「今日は忙しいから今夜の食事はカップ麺で済ませよう」だとか「午前中に用事を済ませたいから明日は朝は7時に起きよう」と言ったような将来(未来)の自分の行動自分自身の考えで行動を決定づけることが”自由意志”によって可能となっています。

 もしこの”自由意志”が無いのだとすれば「今夜の食事はカップ麺である」「明日の朝は7時に起床する」と言った未来の行動が「今日は忙しいから」「午前中に用事を済ましたいから」と言う理由付けなしに行われ、またそれを拒否することができなくなります。

 例えば「今日は忙しいけど、健康に気遣ってちゃんと自炊しよう」だとか「明日朝は早起きだけど夜更かししてゲームしちゃえ」だとか、合理的判断非合理的行動選択権自由意志に委ねられています

 もちろんこれらの行動は”習慣的”なものもあるでしょう。毎朝7時に起きるのであればどんなに夜更かししても7時に一旦目覚めてしまうと言った無意識的な行動として現れてしまいますが、その習慣を作り出したのも遡ればやはり自分自身の意思による決定による習慣化であったりします。

 その意味において、やはり行動は”自由意志”によって操作可能であり、拡大解釈としては私たちは自分の行いを自分自身で決めていると言う「行動の最終責任論」にまで発展します。

 しかし、これら食事起床時間の例脳と意識の関係においては時間という尺度が長すぎます。

 ヒトが覚醒状態にある時、意識は常に持続的かつ継続的にある(と感じている!)のですから、行動は”意識”によって決定されるのか”無意識”によって半自動的に行われているのかの境界線時間の尺度が長ければ長いほどはっきりとしません。

 小学生が語る「将来の夢」という自由意志がその後の十数年後の就職活動にどの程度影響しているかなどは定量的に測りようもありません

 小学生の時に「ケーキ屋さんになりたい」と言ったのだからと言ってパティシエになることを強要される筋合いが無いことは当然でしょう。ここに「意識による行動の最終責任論」なんてものを求めるのはナンセンスです。

 そこで、リベットの「マインド・タイム 」という著書より極めて瞬間的で短期的な意思決定に対して脳活動意識の関係をどちらが先に発生しているのか観測するした実験を紹介します。


脳が刺激を感じるのには0.5秒かかる

 この実験内容を細かに説明すると文字通り本が一冊書き上がるので要点と結果のみを紹介するに留めておきます。

 リベットはまず、脳が刺激に対して反応する時間を測定しました。

 つまり時間的に「何秒間刺激を与えれば脳がその刺激を感じるか」を計測しました。

 その結果は時間にしておよそ0.5秒間

 具体的な実験の内容としては脳に直接差し込んだ電極20pps(1秒間に20回の速度)刺激を与えるのですが、その刺激を約0.5秒間持続して(つまり10回の刺激を)与えなければ脳はその刺激に反応することができなかったのです。

 この20ppsという短い刺激の強さをいくら強くしても(もちろん脳に障害が出ない程度)単発1回の刺激では脳は反応せず、やはり0.5秒間という継続的な刺激が必要でした。

 この0.5秒という時間が長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれかも知れませんが、短いと感じるのであれば一度スマートフォンのストップウォッチなどの機能を使って0.5秒を測ってみてください。

 その0.5秒間ずっと刺激を与えられないと脳がその刺激に反応しないというのはなかなかに長く無いですか?

 脳が刺激に反応しないということはつまり”意識できない”ということと同義です。


矛盾する時間的感覚

 机に向かって仕事や勉強をしている時、マグカップに腕がぶつかってコーヒーをこぼしてしまったという経験をしたことがる人は多いでしょう。

 「あっ!」

と思った瞬間には教科書は茶色く染まり、キーボードは水没しています。

 この「あっ!」と思う瞬間というのは”マグカップに腕がぶつかってしまったまさにその瞬間”に対するリアクションです。

 しかし、リベットの実験が示すように脳が0.5秒間の持続的な刺激を必要とするのであれば意識は0.5秒後の世界を認識せざるを得ないのですから

 腕がぶつかった瞬間の「あっ!」は発生しないはずでは無いですか?

 腕のぶつかった0.5秒後にはコーヒーはこぼれているわけですからその「あっ!」は「コーヒーがこぼれている」という結果に対する反応であるはずです。

 しかし、私たちの「あっ!」はやはり「腕がぶつかったその瞬間」という原因に対する「あっ!」ですよね。(ぶつかったことに”気がついていれば”。)

 これは脳が意識を生み出しているという前提と、脳が反応するには0.5秒かかるという実験結果からは矛盾しているように感じます。


逆転する反応のタイミング

 この矛盾を解決するためにリベットは”意識”が生じるタイミング”脳”が反応するタイミング一致する必要は無いという仮説を立てました。

 あぁん?何言ってんだ?

 となったのは私だけでは無いと思いますが、とりあえずその仮説を前提に実験が進められます。

 実験は以下のようなものです。

 先ほどのように脳の特定の部分に直接電極を差し込んで刺激を与えると腕の皮膚に刺激が与えられたように感じることがわかっていました。

 実際には腕に触れることはしていないにもかかわらず、脳に刺激を与えるだけで腕を触られたと感じるのです。

 そのことを利用して脳に直接刺激を与えることと実際に皮膚に刺激を与えるこ ととを時間差で行いました。

 脳への刺激が感覚として認識されるには0.5秒間の持続的な刺激が必要であり、つまり0.5秒のタイムラグがあることがわかっているので、脳に刺激を与え始めた0.2秒後に皮膚を直接刺激します。

 この実験では被験者にとって脳の刺激の0.2秒後に皮膚への刺激を感じるだろうと予測されました。

 そりゃそうですよね。皮膚への刺激は0.2秒後なわけですから、皮膚への刺激の方が後に感じるはずなのは予測として当然です。

 しかし、実験による結果ではなんと皮膚に対する直接的な刺激の方が先に感じられたのです。

 しかも皮膚刺激の場合にはその経験は”刺激を与えたその瞬間”に極めて近いタイミングで”感じられた”と報告されました。

 皮膚への刺激神経を伝わりへ情報が送られ脳内のニューロンが反応することで”感じる”ことができるはずなので最低でも0.5秒かかるはずなのに、先に与えたはずの脳への刺激よりも先に皮膚への刺激を感じたという実験結果をどう解釈すべきでしょうか。

 これについてもリベットはしっかり科学的に検証しています。


意識が時間を遡る

 これら脳と皮膚とそれぞれの刺激は脳による処理の方法が異なります(詳しくは著書参照)。

 その違いとは、皮膚への刺激の場合まず最初に「タイミング信号」とリベットが呼ぶ信号が脳へ送られ”刺激の発生時点”を脳へ知らせます。

 その後その刺激が(脳への刺激と同様に)”0.5秒間持続”することで皮膚感覚が得られます。付け加えて、皮膚へ「タイミング信号」が送られていても0.5秒間その刺激を持続させなかった場合には皮膚感覚は得られませんでした。

 また、脳へ直接電極を指した刺激ではこの「タイミング信号」が無いために0.5秒の感覚の遅延があったことが皮膚刺激との比較実験によりわかり

 このことから脳の反応が0.5秒遅れるにもかかわらず、実実的な皮膚刺激がなぜ”その瞬間”に起きたと感じられるのかは「意識はタイミング信号の時点まで主観的な感覚において時間的感覚を遡及(遡っている)している」と論じました。

 ”意識”が生じるタイミング”脳”が反応するタイミング一致する必要は無いという仮説に立ち返って見ると。つまり意識が生じるのは脳が反応するタイミングではあるものの、その意識が”感じた”とするタイミング皮膚刺激による「タイミング信号」まで遡っていることです。

 なんか余計に話がややこしくなった気がしますが、ちょっとだけわかりやすい例を紹介しましょう。


なぜバットでボールを打てるのか

 プロ野球選手のピッチャーが投げるボールの速さは時速140kmほど。中高生の草野球でも時速120km弱のスピードがあります。

 ピッチャーからキャッチャーまでの距離(つまりバッターまでの距離)は18.44mと決まっているので、時速から換算すると草野球でもピッチャーがボールを投げてからキャッチャーがボールをキャッチするまでに0.6秒間しかありません。プロ野球ではその時間は0.5秒です。

 さて、この0.5秒というのはまさに脳が刺激を受けてから反応できるまでの時間に他なりません。

 バッターはピッチャーがボールを投げたその瞬間バットを振るか否かを”決定しておかなくてはならない”ということになります。

 しかし、現実にはそのボールはもっと遅いスローボールであったり軌道が変化するカーブボールであったり、そもそもボールがどの位置に到達するのかなど正確に予知することは不可能です。

 にも関わらずバッターは変化球に対応し、ボールの到達地点がわかっていたかのようにバットを思い切り振りかぶりますし、場合によっては見送ります。

 0.5秒の間にそれらの情報を全て脳が認識し反応し意識することは実験的に不可能であることは確かです。

 ではバッターがボールにバットを当てられたり見送る判断をするのは全てたまたまの偶然なのでしょうか?それともピッチャーの投げる球種の予測がこれまたたまたま当たっていたから?

 多くの選手はバットを振るか否かの行動を意識的に行っていると答えるでしょうし、ボケーっと無意識に勝負しているわけではありません。

 自分の”自由意志”に基づいた判断で試合を進行しています。

 この0.5秒の間に一体何が起こっているのでしょう。


意識による意思決定経験の蓄積と無意識

 「意識」という言葉は同時に「無意識」という言葉を連想させます。

 バッターがボールを打つとき、球種や速度そして到達地点までを全て意識で認識し判断することは不可能であることは自明です。

 しかし、そのボールを打てるのは膨大な練習時間による意思決定の経験の積み重ねによって得られる半無意識下での判断と身体反応によるものです。

 半無意識による結果は意思決定の経験という意識の積み重ねによって構築されるため、「今ボールを打てたのはたまたまだ」とは感じず「自由意志による判断である」というように主観的な感覚において時間的感覚を遡及することができます。

 ボールがキャッチャーミットに到達した時点でそれがスローボールであるとかカーブボールであるとかは結果として認識できるため「カーブボールだから自分はバットを振らなかったのだ」と意識的な時間を遡及して認識することが可能です。

 私のようなずぶの素人プロ野球選手の本気の投球を打てたとしてもやはりそれはたまたま偶然ですが、経験の蓄積によって意思決定を多くこなしていくうちに半無意識下体が反応するようになるというのはスポーツに限った話ではありません。

 私はピアノを幼少期から習っていて何曲かお遊び程度に演奏できたり、いわゆる耳コピなんかもできますが、鍵盤を叩く指をいちいち意識していません。

 というかそもそも指一本一本にそんなことを意識していては演奏どころではありません自由意志としては”このような曲を演奏する”という意識がありながらそれを実行する身体的活動はやはり無意識的に行われています。

 パソコンをよく使う人がブラインドタッチでタイピングできたり、スマホでメッセージを送る際に高速で文字を打てることも同様です。

 そこに意思や意識を集中せずとも行動の指針と結果にだけ意識を集中させて、あとは半自動的(半無意識的)に指先が動きます。


意識とは何か

 さて、「意識」というものについて語ると結局この命題に行き着きます。

 意識とは何なのでしょうか。

 今回はリベットによるマインド・タイム 」から「意識とは何か」という命題について考えてみましょう。

 刺激が与えられてから脳が反応するまでに0.5秒のタイムラグがあり、刺激を意識的に認識するまでには世界はすでに0.5秒の時間が過ぎてしまっています

 このことから言えば私たちは常に0.5秒後の世界を意識的に生きているということになり、主観的に時間を遡及させている脳が私たちをリアルタイムな世界に生きていると錯覚させていると言えます。

 しかし、それはあくまでも短期的な時間的尺度現実世界とは切り離された時間単位においての話です。

 この記事を読んでくださる多くの方は十数年から数十年ものあいだ生きています。

 意識十数年の記憶を保持し、時にその記憶を呼び起こしながら未来への予測自身の行動指針決定します。

 今夜何を食べようかな。明日の朝何時に起きようか。このような考えは意識によって生まれるものであり、今この瞬間が0.5秒後の意識的世界であったとしても何ら問題ありませんよね。

 そして脳による錯覚であったとしても0.5秒の時間を遡ってリアルタイムに生きているという実感があるが故に私たちはちょっとしたミスを認識し学習することができます。

 マグカップに腕が当たったというリアルタイム性が感じられるが故に机にこぼれたコーヒーが”いつの間にか倒れていた”なんて認識にはならないわけですし、こうした経験と学習があるからこそマグカップが腕に当たった瞬間にとっさに手で支えて(半無意識的に)最悪の事態を回避できたりもします。

 このように考えれば、意識というのは脳へ無意識的反応を学習させるためのフィードバック機能とも言えるでしょう。(野球や楽器の演奏の練習のように。)

 こうして意識への経験のフィードバック機能として捉えると人以外の動物にも同じように”意識”というものがあるのかもしれないと思えてきますね。

 ただし、ヒトの意識その他動物が有する意識とはその性質は異なる可能性が非常に高いでのすがこれはまた別の機会にお話ししましょう。

 「マインドタイム」ではより詳しい実験内容や結果、そしてリベットによる見解などが書かれています。

 もし「意識とは何か」が気になって夜も眠れないという方は一読してみていはいかがでしょうか。読むか読まないかはあなたの自由意志です。




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