イデア論:プラトンの「洞窟の比喩」とソクラテスの「無知の知」そして実在論へ……

 哲学といえばイデアイデアといえば哲学。そのくらいに一般的に知られる「イデア論」ですが、だからこそこれについて知っておくのは一般教養としても大切なのかもしれませんね。

 さて、イデア論はかの有名なギリシャの哲学者プラトンにより説かれました。イデア論とは何かを一言で言えば、人々が見ているものは真実ではなく真実を内包した雑多な個物であり、また我々は真実を知るが故個物をそれとして知ることができるのだ、という主張です。そしてそこで語られる真実こそが「イデア」なのです。

 今回の記事ではイデア論とは何かという疑問に答えるのはもちろん、プラトンによる「イデア論」の想起の元となったソクラテスの逸話から、現代でも議論される実在論のお話も少ししたいと思います。


洞窟の比喩

 まずはイデア論とはどういう思想なのかについてです。イデア論を説明する上でよく用いられるのが「洞窟の比喩」ですね。ますはその「洞窟の比喩」がどのようなものなのかをお話しします。

 「人々が見ているものは真実ではなく真実を内包した雑多な個物であり、また我々は真実を知るが故個物をそれとして知ることができるのだ。」という説明では小難しい言葉が多いので、プラトン自身が著書《国家(第7巻)》の中で「洞窟の比喩」を用いて(ちょっと皮肉めいた言い方で)分かりやすく説明しようと試みました。

 洞窟の比喩の中ではまず人々は地下の暗い洞窟の中で縛られ、洞窟の壁に向かされています。プラトンは洞窟に縛られた人々を囚人と呼びました。その壁の後方遥か上空にはギラギラと輝く太陽があり、囚人たちは太陽に背を向けています。

 洞窟の入り口には様々な物が運ばれてきては通り過ぎていき、その度に洞窟の壁にはその影が写ります

 囚人たちは壁に向かって縛られているので、彼らはその影を見ることしかできません。そのためその影を見て世界とは”こんな形をしているのだ”と認識するほかありません。

 囚人たちにとって世界とは壁に映る影それだけであり、生まれてから今まで洞窟の壁しか見たことがないのでそれが何かの影であると認識することすらできません。それ故に、壁に向かって縛られていることは彼らにとって苦痛ではなく安住でもあります。

 そんな安らかな囚人に対して突如として”解放者”が現れます。解放者囚人束縛から解き、無理やり洞窟の外へ引っ張り出そうとします。

 今まで洞窟の影しか見たことのない囚人は背中でしか感じたことのなかったギラギラとした光を直接見てしまったことで目が眩みますが、解放者は容赦無く洞窟の外へ引っ張っていきます。

 ゴツゴツとした洞窟の壁を無理やりに登らされ、ついには外へ出されてしまった囚人は初めて”外の世界”を見ることになりました。

 しかし、これまで影しか見たことがなかった囚人は外の世界を正しく認識することができません。彼はこれから時間をかけて少しづつ、まずは自分の足元の影から、そして水面に映る自身の鏡像、果ては物そのものへと次第に目を慣らしていかねばならないのです……。

 ここで語られる”囚人たち”は無教養な人々を指し、洞窟の壁は無教養な人々の認識する世界です。対して”解放者”は哲学者を指し、洞窟の外は実在の世界であり物事の真実を見ることができます。

 物事を映し出す光は太陽であり、その太陽は”善”の象徴です(プラトン《国家(第6巻)》「太陽の比喩」)。善と真実へ導くための作業、すなわち外へ引っ張り出す解放者による作業はいわゆる「哲学者による教育」であり、洞窟の外知りまた知ろうとする者再び洞窟の中へ入り人々を導こうとするのです。


ソクラテス「無知の知」

 プラトンは師匠であるソクラテスフィロソフィー(愛智:philosophy)という考え方からイデア論を想起しました。

 ソクラテスのフィロソフィーは現代では「哲学」という言葉そのものに翻訳されますが、時代によって様々な解釈のなされる言葉です。当時の意味としては”善とは何かを知ること”という意味合いが強く、「良い人生を送るために善きこととは何かを知る」というのがソクラテスの哲学でした。

 善きことを探究するためにソクラテスは当時の賢人たちに様々な議論を吹っかけます。このとき用いられたのが「問答法」と言われるもので、「まさに○○であるものとは何か」「真に○○そのものとは何か」と問いながら対話者の発言の矛盾をついていくことで真理にたどり着こうとしました。

 例えば「正義」について語る者がいれば「正義とは何か」を問い、「勝者」について語る者には「勝者とは何か」と問うのです。「悪とは何か」と問うて「敵に背を向けることは敗者であり悪である」と答えられたなら「戦により怪我を負った友を助けるために退くことは悪なのか」と問い返し、それが真の悪であるか否かを問答によって突き詰めていこうとします。

 「友を助ける」と言う行いは””でありながら、「戦から退くこと」は””であるのならそこには矛盾が生まれます

 こうして「○○とは何かを知っている」という賢人たちの主張をソクラテスが問答法により矛盾を突き、「なーんだ、みんな賢ぶって。全然何も知らないじゃーん。」と賢人たちのプライドをズタズタに引き裂いていきます(笑)

 そしてこのときソクラテスは「自分は真に知っていることがあるぞ。それは自分が何も知らないということを知っているということだ!」とほとんど開き直りのような主張をします。

 これが俗にいう「無知の知」というもので、「無知を自覚している」ことが重要だと説きます。この考え方は知らないということを自覚していることで探究が生まれ、知ろうとすることを愛する「愛智(フィロソフィー)」が生まれるというソクラテスの哲学の基本となりました。

 このような「無知の知」による問答法によって賢人たちを論駁(いわゆる論破)していくことでソクラテスは「善く生きるとは何か」を探求するのですが、それにより多くの恨みを買い無実の罪で死刑判決を下され、最後には自ら服毒して人生に幕を閉じるのでした。


幾何学とイデア、そして実在論

 そこで弟子のプラトンも同じように「善いことってなんだろう?」と考えを巡らす訳ですが、そもそも「善いこと自体」が本当に実在している場合どのようなものであるかを考えます。

 そこで目に見えているものだけではなくその裏側にある本質を探るべく知性を昇華させていくため、より観念的な存在の実在論へと考えを巡らせます。

 実在論とはこの世の中の神羅万象全ての現象を成り立たせている普遍的な概念(イデア)が存在していると言う考え方で、それは普遍的が故に時代や状況によって変化することはありません

 実在論としての物事の捉え方は、正義のイデアがあるならばそれはいつどのような場合においても正義であり矛盾がなく、リンゴのイデアがあるならばそれはまさしくリンゴそのものであり議論の余地がない物となります。

 私たちが普段、三角形や円を描くときそれは鉛筆やインクなどのによって形を与えられますが、数学の公理に基づけば描かれたそれはインクの線幅を持つため真に三角形や円ではなく洞窟の影のような存在として私たちは見ていることになります。

 真の三角形は線幅を持たない概念的なものであり、それを直接見ることはできません。しかしそれを線幅を用いて描くことで擬似的に見ることは可能です。

 このとき線幅を用いて描かれた三角形が「真実を内包した雑多な個物」であり、数学の公理に基づく三角形と言う定義内包された真実(イデア)つまり三角形の実在にあたります。


科学哲学:今なお議論される実在について。社会構造主義と反実在論

 プラトンのイデア論物事の実在について語られたもので、要約すると「普遍的なそれそのものの実在」を認めるかたちとなっています。

 善のイデアであれば善そのものがあると言う考え方ですね。この善そのもの普遍的な存在であり世の中の”善と呼ばれる物事”はその善のイデア部分的に内包しているため人々にはそれが”善であるように見える”わけです。

 このようなプラトンイデア論による実在論を「観念実在論(観念論)」と言ったりします。観念実在論(観念論)はその名の通り観念を普遍なものとして捉え世の中の物事の根底にはその普遍的な実在は観念の側にあるイデア界)と言う考え方です。これはまさにイデア論の系譜にありイデアリスムと呼ばれます。

 現代科学においてはこの実在論を元にもっと物理的に実在を捉えようと言う試みがなされています。例えば原子電子観測しその動きの法則在り方科学的に捉えることでその実在を認めようとする「科学的実在論」と呼ばれるものです。

 私たちは基本的に科学的実在論を前提にして現代社会を生きています。昨今ではニュートリノヒッグス粒子など世界を構成する様々な素粒子発見・観測されていることもあり、科学的実在論にはより疑いの余地がなくなってきました……と、見せかけてこの科学的実在論にもやはり反対意見があるのです。

 その一例が「社会構造主義」と言われるもので、科学的事実だと考えられていることも全て社会の構造物に過ぎないと言う考え方です。

 科学的事実とは”科学的手法”による申し合わせに過ぎず、それは実在を証明しているわけではないと言うのですね。

 世界を構成する絶対的秩序(イデアのようなもの)が仮にあったとしても科学的手法に乗っ取って行う以上そこに実在を認めることはできないと言う立場です。とは言え社会構造主義も実在の存在を完全に否定しているわけではなくあくまで科学実在主義に対する反論となります。

 また科学的実在論反対する立場としては反実在論と言うものもありますが、これも実在そのものを否定するのではなく「科学は観測可能な部分だけを議論すればいいじゃん」と言う立場で科学は実在論を証明するためのものではないと言う意味での反実在論です。イデアだかなんだか知らんけど、観測不可能なことはどうでもええねんって言う感じですかね。


 科学哲学については非常に簡潔に説明してしまったので誤謬や誤解があると思います。ですのでまた後日「科学哲学」についての記事は個別に書くとしまして、イデア論については概ね書けたんじゃないかと思います。

 冒頭でも話しましたが哲学といえばイデア論と言いたくなるくらいに有名な”イデア論”ですがその中身については少し難解ですよね。観念論とか言われると脳が考えるのをやめてしまいそうなくらいです。

 しかしながら現代科学においても観念論唯物論と言った形で物事の真理真実にたどり着こうとする議論は繰り返し行われています。哲学者と聞くとまどろこしいことを考えている生産性のない人々だと評価する人も一部にいますが、私たちが教授する文明の利器の裏側には科学哲学がいっぱい詰まっています。

 そして何かを真剣に考え真理にたどり着こうとする活動哲学者科学者だけの特権ではなく私たちにとっても重要なものなのです。何かひとつのことに囚われていては真実を見失うかもしれませんよ。人生においては前を見ろとよく言われますが、影ばかりを追うのではなくたまには”後ろを振り向いて”見るのも大切なことなのです。太陽が常に前方にあるとは限りませんから



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