言葉の定義の難しさ「砂山のパラドクス」意味と意味の境界線

 いっぽんで〜もニンジン♪にほんで〜もサンダル♪一粒で〜も砂山?と、記事を書きながら頭なの中で歌ってしまっていたのでついつい書いちゃいました。

 「砂山」と聞いてどのくらいの大きさの”砂山”を想像しましたでしょうか?想定されるのは小さな砂山なら子どもが砂場で作った程度のもの、大きければセメント工場の材料置き場のような大きな砂山でしょうか。日本一高い山、富士山までいくともう”砂山”と言うよりは山そのものですよね。

 話を分かりやすくするために、とりあえず公園の砂場で子どもが作った砂山を想定しておきましょう。

 砂場に作られたその砂山から砂粒を徐々に取り出して行ったとき、どのくらいの大きさまでのそれを”砂山”と呼べるでしょうか?人によっては砂山の形に言及するかもしれませんし、砂粒の量に言及するかもしれません。

 それはそれで、どの形のものを砂山と呼び、どの程度の砂の量を砂山と呼ぶのかと言う疑問が付随してきます。今回はそんな問答を投げかけてくる「砂山のパラドクス」と言うお話。極端な話、最後の一粒を取り除くまでそれは”砂山”である続けることすらできるのです……。

目次
・不毛な砂山崩しゲーム想定された状況と前提の論理的矛盾言葉の意味は集団の合意によって決まる砂山のパラドクスの別パターン
ーハゲ頭のパラドクス
ーロバのパラドクス

不毛な砂山崩しゲーム

 先述の通り、砂山の砂を徐々に取り除いて行ったときにどの時点から”砂山ではなくなるのか”を論点とします。

 砂場や砂浜での遊びのひとつに「山崩し(砂山崩し)」と言うゲームがあるのはご存知でしょうか。ある程度の大きさの砂山を作りそのてっぺんに木の棒などを立てて、その棒を倒さないようにプレイヤーが一人ずつ砂山の砂を取り除いていく遊びです。

 この「山崩し」のゲームの場合、”山が崩れた”と言う判別について木の棒が立っているか否かと言う明確で客観的な線引が前提になっているため何お問題もなくゲームが成立します。「木の棒が倒れた」=「砂山ではなくなった」と言い換えてもいいでしょう。

 では次に、木の棒を立てていない砂山から一粒づつ砂を取り除いて行くゲームをしてみましょう。順番に一粒づつ砂を取り除いていき、”砂山”でなくなった時点で負けになるゲームがあるとしたら……。「砂山ではなくなった」と言う判定を客観的に示すことはできるでしょうか?

 ゲームとしては誰かにレフェリーをやってもらい、そのレフェリーが砂山か否かを判断すると言うのはありですが、もしあなたがこのゲームのレフェリーを務めることになった時客観的事実に基づいた公正公平な判定ができるでしょうか。

 10000粒の砂山と9999粒の砂山では数字的に桁が少なくなったとは言え見た目はほとんど変わりません。見た目がほとんど変わらないと言うことは、それは砂山であり続けているわけです。

 砂山であると判定し続けている限り砂粒は一つずつ砂山から取り除かれていきます。9999粒、9998粒、9997粒……100粒、99粒……10粒、9粒……となってしまっては後の祭り。「もうこんなの砂山じゃないじゃん!」と言う状態になってしまいました。

 「もうこんなの砂山じゃない」と感じた時にはすでに砂山ではなくなっていたと言うことですから、どこかの時点に砂山と砂山でなくなる境界線があったはずです。

 ではその”境界線”はどこにあったのでしょう……?と言うのが「砂山のパラドクス」を生み出します。

 「砂山のパラドクス」は簡単に言えば言葉の曖昧さから生じるもので、「砂山」と言う言葉の定義やそれを取り扱うための境界値が明確でないことで起こります。


想定された状況と前提の論理的矛盾

 この「砂山のパラドクス」は定義境界曖昧なものに対して論理的な議論をする場合に起こるパラドクスです。「論理」とは物事の法則的な関係のことで、「砂山のパラドクス」の場合には”砂山”を論理的に説明しようとするパラドクスが生じるというものです。

 Wikipediaでは砂山について論証するために以下のような2つの前提が例に挙げられています。

砂山から砂粒を個々に除去していくことを想定する。ここで、次のような前提から論証を構築する。

・「砂山は膨大な数の砂粒からできている」(前提1)
・「砂山から一粒の砂を取り除いても、それは依然として砂山のままである」(前提2)

砂山のパラドックス(Wikipedia)

 「砂山は膨大な数の砂粒からできている」という前提1の説明は直感的にもわかりやすいですね。前提1に対して今のところ問題は感じません。

 問題となるのが前提2です。前提2の説明は「砂山から砂粒を個々に除去していく」という想定された状況を説明するものとなります。

 「砂山から一粒の砂を取り除いても、それは依然として砂山のままである」という前提2。この説明も直感的に正しく思えますが、この前提2のみだと”最後の一粒になっても砂山である”と言えてしまうため「膨大な数の砂粒」という前提1の説明と矛盾してしまいパラドクスを生じます。

 2つの前提はそれぞれ間違ったことは言っていないようなのですが、想定された状況これら2つの前提論理的に関係性のある命題として扱おうとすると矛盾してしまうというものだったんですね。

 このパラドクスを解決するにはそれぞれの前提に対して個別に否定するか、もしくは「一粒の砂粒を砂山として肯定する」というように結果を肯定することでパラドクスを回避することはできます。

 さらに、「砂山崩し」のゲームに見られるような「砂山の上に立てられた棒が倒れた場合に砂山が崩れたとする」という前提3を用意してやることでゲームとしては成立させるという方法も考えられます。

 追加した前提3前提1前提2を完全に補完しているわけではありませんが、少なくともゲームをする上での矛盾は取り除くことができますね。


言葉の意味は集団の合意によって決まる

 「砂山」と言う言葉を取り扱うには「砂山の定義」がなければ先のようなパラドクスを生んでしまいます。しかし、私たちは”言葉の定義”なんてものをいちいち考えなくても会話ができていますよね。それは普段私たちが互いの言葉について慣習的ある程度の意味の共有を行っているためです。

 「砂山」の場合には「砂山」に関する慣習的なイメージを共有していると言えます。その慣習的なイメージとは例えば複数の砂粒円錐状に盛られているような状態です。

 たとえ10000粒の砂粒でも地面に均一に並べられていてはそれを「砂山」という人は少ないでしょう。しかしその10000粒の砂が円錐状に固められていたら手のひらに乗る程度のサイズであっても「砂山」として認識され得ます。

 こうした社会的に共有されるイメージのことをスイスの心理学者ジャン・ピアジェは「シェマ」と呼びました。シェマについて気になる方は、別記事で詳しく紹介しているのでそちらをぜひご覧ください。


発生的認識論とシェマの獲得

人がどのようにして物事の認知認識を獲得していくのか。心理学者ジャン・ピアジェによる理論

 社会的に合意された物事については明確な定義がない場合においてもその社会の中で言葉の意味そのものを失うことはありません。さらにいえば、明確な定義がなくても会話の文脈の中で暫定的な定義暗黙の了解として合意されていれば会話する上での問題はほとんどありません

 また「砂山崩し」のゲームで加えた「前提3」のように暫定的な定義を加えることで会話を成立させるということも日常茶飯事です。

 ”棒が倒れる”ことは負けを意味し、同時に”山が崩れた”と定義されているとも言えます。この定義はゲームのルールに基づいたものであり、これを否定してしまってはゲーム自体が成立しません

 「棒は倒れたけれども砂山は残っているから続行だ!」なんて言っても負けは負け。山を崩すというゲームなのですから、棒が倒れた時点でゲームは終了し、山は崩れた状態として周囲には認識されます。

 会話はある種のゲームだと私は思っています。そのゲームは暗黙の了解を多分に含んでおり、ときに間違った意味の言葉であっても間違った意味のまま話を進めることも会話を円滑に進めるには重要なことです。

 「敷居が高い」とか「琴線に触れる」などはよく言葉の誤用として紹介されますが、その時の会話の文脈上の意味が伝われば良いのです。「敷居が高い」に関しては今や本来は間違った意味とされてきた用法が歴とした辞書に載っているくらいですから、日常会話の中で言葉の意味をいちいち正しく定義するのはナンセンスなのです。

 ですので、会話中に「その言葉の意味間違っているよ!」といちいち指摘するのが煙たがれる行為であるのも肯けますね。そんなの”みんなわかってる”わけです。


砂山のパラドクスの別パターン

 砂山のパラドクスにはいくつか種類があります。とは言え、対象となる物が変わっただけで内容はほとんど同じ物なのでそれぞれの内容について軽く触れておきましょう。

・ハゲ頭のパラドクス

 ハゲ頭のパラドクスは以下のような前提と結果になります。

「髪の毛が一本もない人はハゲである」(前提1)
「ハゲの人に髪の毛を一本足してもハゲである」(前提2)
「よって全ての人はハゲである」(結果)

砂山のパラドックス(Wikipedia)

 この前提の場合、前提1に対して前提2を繰り返し行うことでパラドクスが生じます。何本足して行ってもハゲであることには変わりないわけですから、たとえフサフサになったあともその人はハゲであり続けます。すなわち人類全員がハゲなのです。

 また逆にフササフの状態から一本ずつ髪の毛を抜いて行った場合も「砂山のパラドクス」同様にどの時点からがハゲであるのかという境界がないため、最後の一本になってもまだその人はハゲいていないということも言えます。まぁ流石に0本になればそれはハゲを否定するのは難しいですね。砂山の場合にも、砂粒が一粒も残っていないのに「砂山だ」とするには無理があります。

・ロバのパラドクス

 ロバのパラドクスの前提と結果は以下です。

ろばの背に荷物として藁を積み上げていることを想定する。
このとき、「藁を追加しなければ、ろばの背骨が折れることはない」(前提1)
「藁を1本追加するだけなら、ろばの背骨が折れることはない」(前提2)
藁を1本追加することを繰り返すことで、ろばの背にはいくらでも藁を積むことができる」(結論

砂山のパラドックス(Wikipedia)

 このロバのパラドクスも問題となる点は「砂山のパラドクス」とほぼ同じで、起こる事象に対して境界線が曖昧であることで問題が生じています。

 これらのような曖昧な表現に対してどこで矛盾が生じどうすれば矛盾が生じないかなど解答しようとする試み論理学の他に言語哲学認識論など様々な分野で行われており、それぞれかなり専門的な内容なので一瞥するだけではとてもついていけません……。


 こう言った論理学的パラドクスの中には「この文章は偽である」という文章は真か偽かという「嘘つきのパラドクス」というのもありますね。自己言及パラドクスとも言われます。

 なんかめちゃくちゃに難しい言葉で説明されても意味不明なのに命題だけ見ると非常に単純であるという点が私のような者には面白く感じてしまう部分でもあります。「砂山のパラドクス」と「ハゲ頭のパラドクス」なんて馬鹿げた話に見えますがその起源は古代ギリシャの哲学者エウブリデスによる「7つのパラドクス」のひとつとして数えられているものですからね。

 一見馬鹿馬鹿しく思える議論も真剣に取り組んでみると面白いものです。そして、正確な答えや解答が必ずしも必要というわけではありません。重要なのは自分なりに物事を整理し、自分なりに考えてみることだと私は思います。

 その自分なりの過程で哲学や論理学と言ったちょっと難しいことにも興味が芽生えてくるもんです。


 

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