「テセウスの船」同一性問題の思考実験

  「テセウスの船」という思考実験は「ある物体の構成物を徐々に取り替えて行った時、いつか全ての構成物が入れ替わってしまったそれは以前の物と同じ物と言えるだろうか。」という思考実験です。

 「全てが入れ替わったのなら別物でしょう」と言いたくもなりますが、修理に出した車やバイクなどのように部品が徐々に入れ替えられていく過程で”いつの間にか”全ての部品が変わっていたら…それはあなたの持っていた元のバイクと同じものと言えるのでしょうか?

 野球やサッカーのチームだって選手の交換や引退、新人の加入などでどんどん構成物(構成員)は入れ替わっていきます。そして私たち人間も毎日1兆個もの細胞が入れ替わっているのです。自分自身は自己統一性を保っている以上”変わっていない”と言えるかもしれませんが、哲学的ゾンビとしての他者ならどうでしょう?

 今回は私たちが”同じ”と感じるとき、何を”同じ”としているのかを考えさせられる「テセウスの船」のお話です。


ギリシャ神話「テセウスのミノタウロス退治」

 さて「テセウスの船」の元ネタとなっているお話はギリシャ神話にあります。アテナイ(アテネ)と言う国の王子テセウスの物語です。

 当時のアテナイ国クレタ島の王であるミノスの支配下にありました。そのクレタ島には恐ろしい怪物ミノタウロスが棲んでおり、アテナイ国ミノス王からの命令で毎年7人の生贄を怪物に捧げるように言われていました。

 そのことを知ったアテナイの王子テセウスは「なんだとー!ひどいことだー!」てな具合にミノタウロス退治に行くことにします。生贄たちを運ぶ船同乗してクレタ島へ着いたテセウスは、ミノタウロスが幽閉されているラビュリントスと言う迷宮へ向い、紆余曲折いろいろとあってミノタウルスを退治することができました。

 そしてミノタウロスを退治したテセウス船でアテナイへと無事に帰還したのでした。めでたしめでたし。

 余談ですが、ラビュリントス(labyrinthos)はラビリンス(英:labyrinth)の語源です。ミノタウロスの住む迷宮の名がそのまま「迷宮」を指す言葉になったんですね。

 ミノタウロス退治について詳細は長いので割愛しますが、面白いので興味のある方はぜひギリシャ神話を読んでみてください。


テセウスの船に繰り返される修理

 テセウスの帰還後、その時に乗っていた船の一部である櫂(いわゆるオール)アテナイの人々によって大切に保管されていました。大切にされていたが故に、人々は年々朽ちていく櫂修理しながら大切に保管していたのです。

 この修理をしながら保管していたと言う逸話が後に「そんなに修理を繰り返して新しい木材と入れ替わっていたら、もう元の櫂とは言えなくない?」と哲学者らの格好のネタとなり、同一性についての議論の的となりました。

 話がちょっとややこしいので、テセウスの船の話は以下のような船全体の話によく例えられます。パターンはいくつかあるので非常に簡略化して紹介します。

 長旅を続ける船はその旅路でいろいろなところが壊れてしまいますので、旅の途中であっても修理を繰り返します。修理を繰り返せば同じ船で旅を続けられるため新しい船に乗り換える必要はありません

 そして長い長い航海の末に元の町へ帰ってきた船は、全ての部品が修理交換されて元の船の部品は一切なくなっていました全ての部品が入れ替わった船を見て町の人々は「途中で新しい船を買ったの?」と船員に問いかけると「いや、修理はしたけど元の船のままだよ」と返答されました。

 町の人々からすればもうそれはどう見ても新しい船なのですが、ずっと船に乗っていた船員たちからすればずっと”同じ船”であるのです。これは船に対する視点が違うことで生まれてしまう認識の違いだというのはわかりやすいと思います。

 そこで次は船員と町の人々が同じ視点で見られるような状況を想定してみましょう。


幽霊船、現る

 「同一性」と言うのは視点が変われば感じ方も変わると言うのは町の人々船員のたとえで分かります。ここにもうひとつ、話の要素を足してみましょう。

 修理交換を繰り返した船はから取り出された壊れた部品をかき集めてボロボロの船を作ってみます。

 そのボロボロの船構成物としては真に”元の船”と言えるかもしれませんが、船員たちはそのボロボロの船を見て「本当はあっちが我々の船だ!」と感じるでしょうか?

 もっと身近な例でたとえましょう。お気に入りのバイクをカスタマイズしていくと、マフラーやタイヤなど様々な”純正パーツ”が新しいものと入れ替えられていきますね。消耗部品もありますからそれらも同じように取り替えられていきます。

 そこで取り外されたり取り替えられたりしたパーツを全てかき集めて、それらのパーツだけで1台新しいバイクを組み上げた時、手入れされたピカピカの愛車の横に不要な部品のかき集めであるオンボロバイクが出来上がってしまうのです。

 しかもそのオンボロの方が自分が最初に買ったバイクの”純正パーツ”が多いわけですから本来ならばそちらの方が”真に自分のバイクである”といえそうな気がしませんか?

 でもでも、今乗っている愛車はピカピカの方だから……


通時的同一性でとりあえず解決する

 テセウスの船のように修理などの理由で構成物を入れ替えても”過去のそれと現在のそれが同じものである”と同定することを『通時的同一性』と言います。

 これは野球チームの構成員の入れ替わりや、ヒトをはじめとする生物にも同じことが言えます。毎日何億という数の細胞が入れ替わっても昨日の私と今日の私(昨日のあなたと今日のあなた)同じものだと認識することができるのも過去のそれと現在のそれ同一のものであるとするが故です。

 「通時的」という言葉の意味をgoo辞書のから引用します。

つうじ‐てき【通時的】 の解説


[形動]《(フランス)diachronique》言語学者ソシュールの用語。関連する複数の現象や体系を、時間の流れや歴史的な変化にそって記述するさま。⇔共時的。

引用:goo辞書
出典:デジタル大辞泉(小学館)

 この言葉を元に『通時的同一性』という概念を簡単に要約すると「過去のそれと、現在のそれが同じものだ」という人間の認識における時間軸を基準とした考え方で、そこでは構成物の入れ替わりについては同一性問題の対象になりません

 「テセウスの船」の場合、その船がどのように作られてどこへ行きどのような修理を受けて戻ってきたのかという物事の経緯を知ることで「これはテセウスの船である」と同定するやり方です。

 観察者側が時系列的に同じものだと認識しさえしていればそれは同じものだと言えるという解決方法なので、もちろんたくさんの反論の余地はあり、多くは「時間の定義」であったり「認識論」や「心理的な要因」などによる基準の定義付けが難しいということが挙げられます。

 「テセウスの船」に対してずっと”同じ船”に乗り続けてきた船員とそれを迎え入れた町の人々とでは船の同一性に対して齟齬があったように、船員の視点で心理的な同一性が保たれてはいても町の人々のように物質的に同じでないと(これも心理的に)感じる見方もありますし、そもそも”テセウスの船”なのだから”テセウスが乗ってさえいればそれが「テセウスの船である」”という捉え方も可能です。

 ただし、法律上の定義で言えば「船籍」により船の同一性を認めるができます。バイクの例で言えばナンバープレートがそれに当たります。これも法と書類を基準にして「過去のそれと現在のそれ」を同一のものとして定義しているわけですから通時的同一性の一種と言えるでしょう。

 元のパーツを組み立ててもナンバープレートのついていないバイクでは公道を走れませんし、船籍のない船は海を渡れません。いくら個人的に思い入れのあるものであっても法的に認められた側に対して同一性を認めることで、船員と町の人々のような齟齬を生むことなく社会的な合意形成がなされた上で同一性が運用され得ます

 生物の体も新陳代謝によって日々細胞が入れ替わっている。このことを「テセウスの船」の話に置き換えたとしても「通時的同一性」により同一であると同定することができます。お家で飼っている猫が新陳代謝によっていつの間にか別の猫になっているなんて心配はないわけです。

 ここで、自分自身の体についてならどのように考えるかという話にしてみましょう。

 私たち人間の体ももちろん新陳代謝によって日々細胞が生まれ変わるわけですから(脳細胞や神経細胞の一部を除いて)ほぼ全ての細胞が数年のうちに入れ替わっています。

 寝ている間にも新陳代謝は起こっていますが、記憶の通時性によって自分自身の同一性は保たれてると言えるわけです。


【人生と自己同一性】自分のコピーと対峙せよ

 船籍やナンバープレートのように私たちには個別の戸籍があるので社会慣習的に言えば「通時的同一性」が法的に証明できるので特に問題はないですよね。たとえ細胞が入れ替わろうと、体が成長したりダイエットで減量しようと別の誰かになってしまうことはありません。

 新陳代謝による細胞の入れ替わりだけでなく、私たちは時に病気や怪我などで臓器の移植手術を行うことがあります。

 臓器を丸ごと取り換えるわけですから新陳代謝の比ではないほどの大量の細胞が入れ替わることになります。しかも入れ替えられるのは自分のとは別の人物の細胞に、です。

 しかしまぁ臓器移植をしたからといって誰か別の人間になってしまうということはありませんし、自分自身が臓器移植を受けたからといって全くの別人になったとは思わないでしょう。

 余談ではありますが、臓器移植によって食べ物の好みや趣味嗜好など生活習慣が変わったという話がよくあります。時にはドナーの記憶が宿ったなんて話もありますね。これには様々な要因が考えられていますがとりあえず今回は無視しておきましょう。

 閑話休題。もし自分自身が臓器移植を受ける場合、体のほとんどの部分を入れ替えてしまってもそれは自分自身だと自信をもって言えるでしょうか?

 先述の通り人は記憶に通時性を持っているのでたとえそんなことがあったとしても自手術前の自分と後の自分を全くの別人だとは認識しないでしょう。

 昨今ではiPS細胞のように自分自身の細胞で臓器を培養し移植する技術も発展してきていますから全く別人の細胞を用いることなく”自分自身の細胞”から構成された臓器を移植することも可能となっています。そのため臓器移植による同一性の崩壊はあまり心配しなくても良いのかもしれません……と考えるのは早計です

 体の全ての臓器を自分の細胞で再構築できる可能性があるわけですから、医療科学がさらにもっと進んだ未来の超高度医療では脳すらも培養可能となり記憶のコピーまでできてしまうかもしれません。(!)

 そうなると怖いのが、自分とは個別に全く同じDNA細胞をもった自分のコピーを作り出すということさえ想定できてしまうのです。このような想像上の状態は以前にも紹介した「スワンプマン(沼男)」という思考実験が似ていますね。

 もしも構成物(細胞)も記憶も全く同一の自分が自分自身とは別にもう一人現れたら自分は一体何者であるのか……?コピーはあちら側だから自分がホンモノだ」という意見と”記憶”すらお互い持ち合わせている状態なので”記憶の通時性”も当てになりません。もしかしたら自分が持っている記憶こそがコピーであり相手がホンモノであることも考えられるわけです。

 あれ?もしかして自分は作られた存在なのか?自分が偽物なのだとしたら自分はどうするべきなんだ?……このような思考に陥ると本当に訳が分からなくなってしまいそうです。自分自身を同定するための”記憶の通時性”が通用しなくなった時どうするべきなのでしょうね…。


 ここからは私の個人的な考えと、人生の考え方についてちょっとだけ語っちゃいます。

 自分自身がたとえホンモノであろうがコピーであろうが個体として他者と切り離された自我を持っている限りそこにアイデンティティ自己同一性)を見出すことは可能なはずだと思っています。

 これは極端な話では全くなく、現代社会における自分自身のあり方を知る上で大切なものだと私は考えます。自分のコピーと対峙した時に自分が本物であって欲しいと願う気持ちは、自分に対する理想像であり他者に対する羨望の眼差しとほぼ同じものだと言えると思います。

 そこで、相手(コピー)を潰してしまおうとしたり自分はニセモノなのだと落胆してしまうのではなく、改めて内側の自分と向き合い一歩踏み出すべきだと思うのです。

 たとえ全くのコピー(理想の自分や他者でも良い)が隣にいたとしてそいつと自分の歩き出すタイミングすらも全く同じであったとしても、歩く方向が1度違えば行き着く先は全く異なるものです。そのちょっとした違いが自分の行く道を誰のものでもないオリジナルなものにしてくれます。

 理想や羨望に溺れて”今を生きるのが辛い”ときはちょっとだけ先の未来にかけてみるというのもありだと思うのですよ。そのためにはまずやはり歩き出さねばならんのです。


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