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「バ美肉」に見る萌えの本質

いきなり「バ美肉」ってなんだ?という方は多いかと思いますが、後ほど紹介と解説を挟みますのでご安心ください。というより今回の記事で語る「萌えの本質」には「バ美肉」こそが最重要キーワードなので、少々熱く語ってしまいます。

目次
「萌える」から「ブヒる」への変換
男性の潜在的少女性が萌えを産む
バーチャルYouTuberの出現
見た目は美少女、中身はおじさん、その名はバ美肉
萌えの体現者たち
「バ美肉」に見る萌えの本質

あとがき

「萌える」から「ブヒる」への変換

昨今ではあまり聞かなくなった「萌え」。「萌える」とは1990年台頃にアニメやマンガを中心としたサブカルチャーの中で”広義の好意”を意味するオタクのスラングとして流行しました。2010年頃からはそうしたオタクのことを侮蔑を込めて「萌え豚」と呼ぶようになり、同時にオタクたちは「好きなキャラクターのためならいくらでも豚になる」という意味を込めて自らを「萌え豚」と表現することも少なくなく、そこから派生して「ブヒる」という言葉が生まれてきました。

 このように「萌える」という表現は今現在「ブヒる」という言葉に姿を変えて使われているとも言るのですが、この「ブヒる」も当初は広義化した「萌え」の部分的感情、特に性的な興奮が強く抽出された表現であった印象です。しかし、時間とともに「ブヒる」も「萌える」と同様かそれに近い表現へと広義に変化して現在のような「萌える→ブヒる」の変換が生じ使われているものと私は感じています。

広義の好意表現としての「萌える」

蔑称としての「萌え豚」

自称としての「萌え豚」

興奮度を表す「ブヒる」

広義の好意表現としての「ブヒる」

 しかし、1990年代当時まさにオタクであった私自身としては「萌える=ブヒる」という直接的な変換にはちょっと違和感があるのです。というのも「ブヒる」はキャラクターなりアイドルなり相手に対する行動的表現であり、「萌える」は感情的表現であったと感じているためです。

 当時から「萌え」を使っていた者たちにとっても「萌えとは何か」を明確に説明できるも者は誰もおらず、面白いことに様々な論争まで起きました。この論争までをもまとめると膨大な量となるので今回は割愛しますが、文頭で”萌えとは広義の好意”と表現したのはこのためです。

 また蛇足ではありますが「ブヒる」と同様に「萌え的な広義の好意」から抜き出された部分的感情として「バブみ」や「オギャる」などの言葉も生まれています。アングラであったオタク文化がテレビメディアへ多く露出したことにより誤用や用法の変換が多く起こりますが、これはまた別の機会にでも……。


男性の潜在的少女性が萌えを産む

 オタク批判によくあるのが「現実の女性にモテない男が二次元の美少女キャラクターと疑似恋愛をしている」というものです。確かにそういう側面はあるのかもしれませんし、巷で言われるような性犯罪に繋がる部分が全く無いとも言いませんが、それらは極めて一部の者なのでオタク全体がそうであるという視線はやはり過度なものだと思います。

 オタクたちは世間が思っているよりも現実的です。「おっちょこちょいな妹」や「押し掛け女房のような幼馴染」は単なるマンガ的記号であって、それらが現実の世界にいたらほとんどのオタクは拒否反応を示すでしょう。それを彼らは重々承知であくまで創作物として受け入れています。

 ただ、創作物として受け入れていると言いながらも「無条件に自分のことを慕ってくれる美少女」や「恋愛ゲームのように攻略できる美少女」が現実にいたらいいなと思っている側面が少なからずあり、やはりそれと同時にそんな存在は創作物でしかいないことも自覚しています。この理想と現実のギャップの間に私は「男性が持つ潜在的な少女性」があるのでは無いかと考えています。

 つまり”自分に好意を抱いてくれる理想的な女性像”が胸の内にあって、その理想的存在は他者を介在させない自身の中に生まれた少女性の象徴であり、その象徴的な記号をアニメやマンガのキャラクターに投影して見出しているため「萌え」というような複雑な好意感情を生み出しているのではないかと考えています。

 そう考えると二次元のキャラクターに対する漠然とした好意とは自身の中に生まれた少女性に抱く自己完結型の好意であり、言い換えれば自己愛に近い感情であるとも言えます。

 そのようなことから私は「自身の中に生まれた異性性の象徴がアニメやマンガに投影された時に抱く自己愛」のことを「萌え」と言うのだと解釈しています。


バーチャルYouTuberの出現

 オタク文化は一般層が受け取ることのできるその時代の最先端技術であることがけっこうあります。特にSFを含む科学技術に造詣が深かったりパソコン技術に長けていたりと時代を牽引するようなものがオタクのようなアングラやサブカルではすでに一般的であったりすることが挙げられるかと思います。

 そんなオタク文化が生み出した昨今の事例が「バーチャルYouTuber」です。「バーチャルYouTuber」自体は説明不要かもしれませんが、3Dや2DのキャラクターをVR(バーチャルリアリティ)技術でアニメーションに変換したアバターを作り出してYouTube活動をしていることを指します。知らない人には動画を見てもらった方が早いですね。

 その先駆者であるのが有名な「キズナアイ」です。


 彼女以前にもVRとアニメーションを組み合わせて活動するキャラクターはいたようですが、「バーチャルYouTuber」という言葉を生み出しブームの基礎を築いたと言う点ではやはりキズナアイは先駆者的存在でしょう。

 「バーチャルYouTuber」という言葉自身も元は「キズナアイ」のことを指していたのがいつの間にか一般化し、いまや数えるのも面倒なくらい数多のバーチャルYouTuberが存在しています。最近では大手の企業が企業独自の「バーチャルYouTuber」を使って広報を行うなどみるみるうちに一般化しているのがわかります。

  こうした動画をあまり見慣れない人にとってはバーチャルYouTuberという存在は直感的に受け入れ難いものかもしれませんが端的に言えば”着ぐるみ”のようなものです。彼らには「魂」と「肉体」という概念があり、着ぐるみに例えると「魂」とは端的に言えば中の人間、「肉体」とはその着ぐるみのことを指します。基本的にはバーチャルYouTuberを見る時その「魂」に触れることは基本的にご法度とされキャラクターをキャラクターとして楽しみます。どこぞのテーマパークの着ぐるみに”中の人などいない”という暗黙の了解があるのと同じです。

 彼らのような存在はこれまでのアニメやマンガとは違い、仮想空間ではあるもののアニメなどよりはかなり現実空間に近い存在なのがわかります。AKB48が「会いに行けるアイドル」というコンセプトでTV画面から飛び出してきてアイドル界に革命を起こしたことに例えると、バーチャルYouTuberは「交流できるアニメキャラクター」としてアニメやマンガの次元を越えてきた存在なのです。

 オタクとしてはキャラクターがアニメやマンガの世界を飛び出して来たのですから喜ばしいことのように見えますが、私の解釈する「自身の中に生まれた異性性の象徴がアニメやマンガに投影された時に抱く自己愛」という意味での「萌え」とは遠ざかります。彼らに対する好意の形が”萌え”ではないと言いたいわけではありません。今回のテーマである”萌えの本質”はもっともっと自己愛的だということです。

 バーチャルYouTuberのなかにはもちろん男性もいて、アバターも男性や架空のキャラクターや動物など様々にあります。そんな中、突如として現れて異質のバーチャルYouTuberが「バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん」です。名前長いですね。通称「のじゃロリおじさん」や「のじゃおじ」と呼ばれています。その異質感はまず見ていただいた方がわかりやすいでしょう。

 いかがでしょう。可愛い女の子の見た目に反して声がおじさんです。可愛い美少女が成人男性の声で喋ると言うことに最初多くの人が違和感を抱き「ヤバイやつが現れた……」との声も多かったのですが、そのギャップが逆に話題となりみるみるうちに有名バーチャルYouTuberの仲間入りを果たします。

 そして、この「のじゃロリおじさん」の人気ぶりからかそれを模倣する人たちが現れ、見た目は美少女なのに中身はおじさんという「バ美肉」という存在が生まれることになります。


見た目は美少女、中身はおじさん、その名はバ美肉

 「バーチャルYouTuber」は知っていても、あまり聞きなれないかもしれない「バ美肉」という存在。「バ美肉」とは「バーチャル美少女セルフ受肉」の略で、なんのこっちゃという感じですが、要するに「バーチャル空間で美少女の肉体を手に入れる」ことを指しています(説明しても伝わっているのかわからない内容だ)。

 すでに見ていただいた「のじゃロリおじさん」はその先駆者的存在です。まさに見た通りおじさんが美少女の体を手に入れた状態そのものであり、そこには美少女を見たいという視聴者に対して”媚びる”部分がほぼ皆無であることが伺えます。

 もちろん視聴者を意識はされているのですが、他の美少女VTuberたちがその可愛さを売りにするのに対して「声がおじさんの美少女をどう受け取ればいいんだ……」という視聴者の心の声がコメント欄から感じ取れることからも他のバーチャルYouTuberとは一線を画す存在であることが明らかです。

 彼のような存在を筆頭にしてその後「見た目は美少女、中身はおじさん」というバーチャルYouTuberが多く現れ、現在ではけっこう大きなコミュニティーがあり、彼らの交流も動画で配信されることもあります。なかでも「バーチャル美少女セルフ受肉おじさん女子会ワンナイト人狼」をという生配信は(界隈では)大きな反響を産み「バ美肉」の語源ともなりました。

 先ほどバーチャルYouTuberの”魂(中の人)”には触れないと言うのが基本的な暗黙のルールだと言いましたが、バ美肉に限っては少し違います。バ美肉では「魂」と「肉体」のギャップを認識し(というか認識せざるを得ない)、その可愛らしい「肉体」ではなく「魂」に対して好感や共感を抱くという側面が強いと言う特徴があります。

 彼ら「バ美肉」は見た目こそ可愛らしいですが、本性がおじさんであることは疑いようもありません。それでもなぜ”可愛がられる”のか。ここに「萌え」の本質があると考えているのです。


萌えの体現者たち

 なぜおじさん声の美少女キャラクターが多くの視聴者に愛される対象たり得るのか。この疑問の答えに”萌えの本質”があるのではないかと感じています。

 先述しました通り「”萌え”とは自身の中に生まれた異性性の象徴がアニメやマンガに投影された時に抱く自己愛」であると私は解釈しています。その自己愛の投影先を「バ美肉」は自ら生み出しているのです。だからこそ、「バ美肉」の語源となった「バーチャル美少女セルフ受肉おじさん」という言葉に”セルフ”とあることが私としてはとても重要であると考えます。

 2020年1月8日に放送されたNHK「ねぽりんぱほりん」で「バ美肉」の特集があり実際にバ美肉活動をされている3名の方が出演されていました。そのときの彼らの話を聞くに、彼らの多くは自らが生み出した「肉体」とそれに付随して纏う「情報」に対してとても強い好意を抱いているケースが見受けられます。

 また、その番組内で「自分の理想とする美少女を自分で作り、自分がその魂になれることが幸せ。自分の好きな姿をみんな好きになってもらえる。」というようなお話がありました(長くなるのでかなり端折っています)。彼らはまさに自分の理想の形である萌えの対象を”セルフ”で作り出し、そこに自身が魂として入ることで性格や喋る言葉までをも自在にコントロールして内面性をも理想に近づけています。そんな自分自身の理想の形を他者と共有しながら自身の魂を丸ごと愛されているというのはなかなか気持ちいいのだろうと思います。番組内でも「一度やると中毒になる」と仰っていました。

 これが究極の”萌え”の形だと私は思いました。自身の中にある異性性の象徴を自らバーチャル空間に作り出し投影させている。”異性性の象徴”を超えた”自己愛の象徴”とも言えるような存在をオープンにして他者と共有し「可愛い」と言ってもらえることの喜び。私の萌えに対する解釈の上では、まさに「萌えの体現者」と言える存在です。


「バ美肉」に見る萌えの本質

 そんな萌えの体現者であるバ美肉を見る側は、姿形は美少女であっても中身が明らかにおじさんであるということは見えていながら見ていないのです。これを番組内ではこれを「枯山水の見立ての文化」や「人形浄瑠璃の黒子」に例えてお話しされていました。つまり彼らは”萌えの見立て”を共有することで”萌えの本質”を見ているのです。

 当記事の最初の方で「「おっちょこちょいな妹」や「押し掛け女房のような幼馴染」は単なるマンガ的記号であって、それらが現実の世界にいたらほとんどのオタクは拒否反応を示す」という話をしましたが、バ美肉はマンガ的記号部分をバーチャル空間に理想の形で抜き出して強調された存在であり、見ている側にとってアニメやマンガがそうであるように彼らバ美肉が実在する美少女である必要はないわけです。

 そういったことにおいて、萌えの本質とは記号化された理想の異性性の発露と消費と言えるのではないかというのが本記事の結論です。

 これまでオタクたちは自分でイラストやマンガを描く(小説などのストーリーを含む)ことを萌えの発露としてきましたが、VR技術の一般化に伴ってバーチャルYouTuberとしてそのキャラクターになることができるようになりました。同時にYouTubeのような動画共有サイトや生放送で動画配信のできるサービスがすでに一般的で消費する側も暗黙の了解の元でその記号を楽しむことができる。

 非常にハイコンテクストなオタク文化においてバ美肉は今最先端の”萌え”なのではないでしょうか。


あとがき

いかがでしたでしょうか。「萌えとは何か」という議論論争は沢山あるので、今回の私の記事こそが萌えの本質であると一般化しようとは考えていません。あくまでも私の感じてきた個人的な”萌え”の本質を語ってみようと言うものです。

 「”萌え”とは自身の中に生まれた異性性の象徴がアニメやマンガに投影された時に抱く自己愛」というのが私にとっての萌えの解釈という話をしました。この概念を理解されれば今よりももっと偏見がなくなるのかなとも思っています。とは言え私がバリバリのオタクしてた頃に比べたら昨今のオタク文化はとてもオープンで過度な偏見も薄らいできたように感じます。

 今回の記事で取り上げたようなバーチャルYouTuberはまだまだ誰もが気軽にできるわけではありませんが、近い将来に映画「レディ・プレイヤー1」のようなバーチャル世界に誰もがアクセスできるようになるのでしょうか。そうなった時には私たちはもっと”魂”で通じ合いながら協調しあえるようになるのかもしれませんね。


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